2011-02-20

第180号~第189号より 鈴木牛後さんのオススメ記事

第180号~第189号より
鈴木牛後さんのオススメ記事


週刊俳句200号おめでとうございます。これからも、雑多なものが投げ込まれる「場」として、存続してゆくことを期待しております。

さて本題。俳句を始めて2年余り、俳句とは季語を含む17音の短詩であるということを自明のこととして受けとめてきた。無季俳句なるものは知ってはいたものの、句会などで目にする機会もほとんどなく、自分には無縁のものだと思っていた。

無季俳句とは、たとえてみれば、場末の酒場で誰かが飲んでいる、美味そうだが怪しげな飲み物のようなもので、うっかり手を出すと火傷しかねないというようなイメージがあった。それを、この句はあっさりと私に手渡してくれたような気がする。大丈夫、普通の酒だよ、と。

  投函のたびにポストへ光入る   山口優夢

「角川」誌上で最初に読んだときは、それほど印象に残らなかった。標題句であるにもかかわらず、選考座談会でもあまり取り上げられなかったからだろうと思う。私が知らないだけかもしれないが、巷でもあまり話題にならなかったように思う。

暗く冷たい冬のポストに光を差し入れるように、この句にあたたかい眼を向けたのが、

神野沙希「季語でも、季語以外でも」

の一文だ(第184号)。

私の感覚からすれば、投函の句は、季語を軽んじたりしていない。ただ、どの言葉も大切にしようとしているだけだ。」「彼にとって、これが俳句だと峻別する基準が、季語の有無以外のところにあるというだけのことだ。
現代の都会で、季語(季節感)が、人の心の動きに与える影響はどれくらいだろう?おそらくそれと同等のものがもっとたくさんあるに違いない。手紙は、今はあまり使われなくなったコミュニケーション手段かもしれないが、それでも「ポスト」「投函」という言葉の持つイメージや思い出の蓄積といったようなものは、季語に匹敵する重みを持っているのではないか。ある言葉が作者によって選ばれ、作者と読者が同じ背景を共有することができたなら、それが季語であるとか季語じゃないとかは大した問題ではないと私には思える。
それが(略)季語を軽んじているということになるとしたら、私は、季語と季語以外のすべての言葉が不幸だ、と思う。
俳人はありていに言えば言葉フェチなのだから、言葉を不幸にするような狭量さは避けたいものだと思う。



≫既刊号の目次 181-199

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