【週俳4月の俳句を読む】
しやうゆ俳句、ソース俳句
馬場龍吉
ひところしょうゆ顔、ソース顔というのがマスコミで取り沙汰されたが、今は聞かない。俳句を「しやうゆ俳句、ソース俳句」とする分類は極めて有り得ない分類なのだが。ここに取り上げた俳句に醤油が効いているのかソースが効いているのか、そこを考えてみるのも一興だろう。
図会いつもどこか狂へる百千鳥 天野小石
人が写真よりも絵画に惹かれるのは完璧な画像よりも曖昧な線描が心地良いせいなのかもしれない。この曖昧なところに時空も次元も超えて想像する余地があるように思う。狂う余地があるせいなのかもしれない。鳥の眼はたしかに天地を見てきているが、一枚の絵に天地を描こうなどということは人間にしかできない無謀である。天野氏の十句には絵画の世界を散歩しているような心地良さがある。
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街暮れて浪花の春はソースの香 ひらのこぼ
浪花の宵はソースの香がただよう。ひらの氏が見つけたように、まさにソースの文化で東西の違いがあるかもしれない。ブルドックソースに対して、イカリソース、おたふくソース。大きく言えば醤油の文化とソースの文化の違いなのかもしれない。はじめてそれぞれの調味料に出合ったときの感動ははじめて俳句に出合ったときの衝撃に似ていると言えなくもないだろう。
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ヒヤシンスしあわせがどうしても要る 福田若之
ヒヤシンスが不幸なわけではないが、不幸なヒヤシンスもあるかもしれない。この「ヒヤシンス」のひやーとした感じの響きと「しあわせ」という温みが妙にぴったりしている。連作全体に甘口の感があるのは主観でまとめられているせいなのかもしれない。作者の思いは思えば思うほど伝わりにくくなるのが俳句でもある。
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春の野に触るる指先広げたり 矢野玲奈
枯野でもなく夏野でもなく、これはぜったいに春の季感だろう。芽吹きの草木の息吹きを感じ取ろうとして自然に身体がほどけてくるようすが春らしい。直接草木に触れないまでも、広げた手にも身体にも木の芽風が吹き抜けてゆく。これを言葉にした手柄がここにある。
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昏れてより花の白さの中に入る 羽田野 令
白日夢の世界を物語るような、なんとも魅力的な言葉を吐く作者だろうか。夕暮れは白い花も夕暮れ色に染まってついには闇色に同化してゆくのだが、こうして言葉にされてみると、白い花はあくまでも白く夜に向かってブラックライトに照らされた蛍光白色になって、作者も読者も補虫草に取込められたようにその花のなかに入ってゆくのだ。
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散る花は遠き鞨鼓(かっこ)を聞いてをり 関根誠子
「散る花に」ではなく少し主観の入った「散る花は」の良さ。助詞遣いの成功作だろう。この落花はひとひらかもしれないし、えんえんと散る花かもしれない。鞨鼓の音に励まされて散る後者の花のように思える。連作全体のトーンは好きだ。が地震や放射能の作はどうだろう。ご家族、縁者で被災された方がおられたのならともかく、タイムリーなだけの作なら入れなくても良かったように思った。
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さて、どの作品に醤油が一味効いていたのか、ソースが効いていたのだろうか。いやいや、ぜんたいに薄味が好きだったのが筆者。
第206号 2011年4月3日
■ひらのこぼ 街暮れて 10句 ≫読む
■天野小石 たまゆらに 10句 ≫読む
第208号 2011年4月17日
■矢野玲奈 だらり 10句 ≫読む
■福田若之 はるのあおぞら 10句 ≫読む
第209号 2011年4月24日
■関根誠子 明るい夜 10句 ≫読む
■羽田野 令 鍵 10句 ≫読む
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2011-05-08
【週俳4月の俳句を読む】馬場龍吉
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