【週俳4月の俳句を読む】
詠むということ
五十嵐義知
街暮れて浪花の春はソースの香 ひらのこぼ(街暮れて)
サボテンが好きな女と春火鉢
書割の街は目覚めず雪の果
列島を春が縦断するのは、立夏を過ぎるあたりだろうか。冬の青白い澄みきった空気感が、花や土の香にとってかわる頃が春と感じる時かもしれない。一句目の「浪花]と「ソース」はありそうな景であるが、「街暮れて」が次第に長くなってゆく日の、春の日の暮れ時を端的にあらわし、春らしい一句となっている。二句目は早春の室内の多くのサボテンと、暖める熱源の火鉢。竹久夢二の女性像が浮かんできたのは、春火鉢に偏りすぎた希望的想像か。三句目。一句目と同じく街が出てくるのだが、この街は書割のような、そして目覚めない街である。どうしても被災地の街並みを思い起こしてしまうのだが、現実を強く意識した上で、新しく描かれる街並みへの作者の思いが伝わってくる句である。
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玄室の上古をのぞく春の月 天野小石(たまゆらに)
航跡の光に春の深まりぬ
薄蒼く春月出づる地震の国
月明かりの中は群青に近い青い世界である。一句目は玄室に射し込む月明かりを詠んでいる。玄室の中の闇は古代の闇であり、月の光りが細く射し入る様子は幻想的で静謐である。二句目は船が通り過ぎた後の波が光を受けて輝く景である。船に乗っている作者は穏やかな光の輝きに春の深まりを感じたが、肌に受ける風にはまだ冷たさを感じたのだろうか。三句目。永々繰り返す自然の摂理、句の中では月の出と地震である。春の月がいつものように昇ってくる。作者が見ている月は同じように、地震とそれに伴う津波によって被害を受けた地にも昇ってくる。
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春の野に触るる指先広げたり 矢野玲奈(だらり)
朧夜の西へ東へだらり帯
譲られしふらここのまだ揺れやまず
「足の指ひらいてとぢて春よ来い ひらのこぼ(街暮れて)」と一句目が結びついて離れない。「足の指」は春を呼んでいるが、「春の野に」はやってきた春に(手の)指が触れている。作者が異なるので大変に不躾ではあるが、二句を並べて読むと、大地からあふれた春が全身を通って地上に拡散するような壮大な感覚がある。二句目は「だらり」が良かった。帯の結び方であるが、朧とだらりがこのように結びつくとは思わなかった。三句目はふらここの句である。こいでいるぶらんこを譲られたが、まだ揺れている。譲られる前の揺れと譲られた後の揺れの間をよくとらえた句である。
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野火渡るいのちがいのち照らし出し 福田若之(はるのあおぞら)
3月11日。当地秋田でも県全域が停電となったため、帰宅の際には信号も街灯も消えた国道を通っていかなければならなかった。星がいつもより多く見えた。「はるのあおぞら」は句群全体を青空が覆っている。青空は青空としてあるのだが、地上がその姿を変えてしまった。少しずつ復旧していく、少しずつ点いていく灯りが、また次の灯りを照らしていく。助けられた命がつぎの命をつないでいく。それらを覆うように青空は青空としてある。
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ひとしきりあられのはねて春の芝 関根誠子(明るい夜)
アスパラガス計画されて明るい夜
ビー玉のかくれてゐたり花の屑
一句目。時ならぬ霰が、まだ整わない春の芝のそこかしこに散らばる。霰の不透明な白色と芝の色が鮮やかである。二句目の「計画」は計画停電のことであろうか。計画停電対象外の明るい夜とアスパラガスの取り合わせ。このアスパラガスがホワイトアスパラガスとすると、光のあたらない計画された暗い夜のほうがいいのだろうか。三句目はビー玉が花の屑の陰からきらきらと光る、懐かしさの句である。ビー玉と思って花屑や葉をどけて見ると、ガラス瓶の欠片や石英の小さな粒だったりする。明るい夜の下としても趣がある。
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基本的には薇のかたちだが 羽田野 令(鍵)
昏れてより花の白さの中に入る
一句目。基本的にはというのであるから例外的にはさまざまな形になるのである。玩具の笛で巻取り笛(笛の先に巻いた紙がついてあるもの)は吹く前は基本的に薇の形であるが、吹くとやはり伸びきった薇の形であるか。二句目は夜桜の光景だろうか。暗くなってからの花は殊更に白く浮かび、闇と闇との間にある白さの中に入るという表現が相応しい。
第206号 2011年4月3日
■ひらのこぼ 街暮れて 10句 ≫読む
■天野小石 たまゆらに 10句 ≫読む
第208号 2011年4月17日
■矢野玲奈 だらり 10句 ≫読む
■福田若之 はるのあおぞら 10句 ≫読む
第209号 2011年4月24日
■関根誠子 明るい夜 10句 ≫読む
■羽田野 令 鍵 10句 ≫読む
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2011-05-08
【週俳4月の俳句を読む】五十嵐義知
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