【週俳4月の俳句を読む】
ロッカールームの中から
小川楓子
東日本大震災発生の日、他の多くの人たちと同じように職場に泊まった。日が暮れた頃、非常食のカレー、シチュー、鮭ご飯など(どれも缶入りドライフードでお湯を注ぐと出来る)を作った。みんなわらわらと、給湯室に集まってきて、今まで食べた非常食の中で一番美味しいと言う。その中に居ると、午後にテレビで見た悲惨な津波の映像が遠ざかって、本当に震災などあったのだろうかとさえ一瞬思った。そうこうしている内に、先週の旅行の疲れがどっと出て、そのまま立て付けの悪いロッカーの間で眠ってしまった。震災の惨状や原発のニュースを耳にし、悲しみ、怯えつつも、いまだロッカールームの中にいるような日常にあって、これからどのように俳句と向き合ってゆくのか、最近わたしはよく考え込んでしまう。
強く生きたいと強く思ったんだ雪融け 福田若之
僕らは世界に振り回されるけど春の青空 同
震災後改めて、生きるということー命の実感として、「強く」と畳み掛けたい気分はよくわかるような気がする。二句目の「世界」を老若男女問わず共有できるのは、震災後という特殊な状況下ゆえではないだろうか。(震災前の作品であれば、セカイ系という言葉も頭をよぎったかもしれない。)震災前の「世界」と震災後の「世界」が異なることは誰の目にも明らかだ。これら二句のストレートな表現はとても心地よい。「雪融け」や「春の青空」という季節感が殊更、震災後の不安定な状況下において、気持ちよく読者に響いてくる。しかしながら、「世界に振り回される」にそれほど切実感がないのは、福田もまたロッカールームの中にいるような感覚を持っているからではないだろうか。
水槽を抱えて歩くぼくたちはきっとなにかを忘れたままで 吉田竜宇
またひとりまっさかさまを見届けて貯水タンクがふくらむ真昼 同
(2010年短歌研究新人賞受賞作「ロックン・エンド・ロール」より)
吉田の作品は、震災以前に作られたものであり、もちろん内容も異なるが、今回の一連を読んでいてなぜかわたしの脳裏をよぎった。吉田の作品には、どこか冷めていて少々屈折した、現場からは遠いわたしが登場する。俳句と短歌では、表現できることが異なるとは思う。しかし、福田の一連の調べが短歌を思い起こさせるゆえか、この一連が俳句を新たな可能性に向かわせるという期待を抱かせるゆえか、もう少し曖昧な状況にある、曖昧なわたしというものもいつか福田は提示してくれるような気がしてならない。まだ筆者が表現に戸惑っている、ロッカールームの中から見た世界をいずれ見せてくれるのではないかと思っている。
第206号 2011年4月3日
■ひらのこぼ 街暮れて 10句 ≫読む
■天野小石 たまゆらに 10句 ≫読む
第208号 2011年4月17日
■矢野玲奈 だらり 10句 ≫読む
■福田若之 はるのあおぞら 10句 ≫読む
第209号 2011年4月24日
■関根誠子 明るい夜 10句 ≫読む
■羽田野 令 鍵 10句 ≫読む
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