2011-06-19

彌榮浩樹「1%の俳句―一挙性・露呈性・写生」再読 有季定型と「写生」は結婚しうるか(1) 青木亮人

彌榮浩樹「1%の俳句―一挙性・露呈性・写生」再読
有季定型と「写生」は結婚しうるか(1)

青木亮人



プロローグ 「批評」の魅力

文学研究からすると、「批評」の面白さは断言の魅力にある。

たとえば、「正岡子規の俳句革新運動」を考えてみよう。

子規達は江戸期以来の「月並」を否定し、近代的な「写生」を主張することで俳句革新を断行した、とよく語られる。子規は俳諧宗匠を「旧派」と批判する一方、自らこそ新時代の旗手と見なし、斬新な「写生」句を発表したというのである。

では、子規達の句はどの点が新鮮で、「旧派」はどの点が「月並」なのか。子規達の「写生」の斬新さは、「旧派」の句群と比較しなければ分からない……このように考えるのは自然であろう。

しかし、これを調べた人物は意外に存在しなかった。文学研究から評論、エッセイに至るまで、子規についての言及は膨大な数に上るが、「旧派」宗匠達と子規達双方の作品を検討し、そこから両者の特徴を見出そうとした論はなかったのである。

試みに調べると、子規達の「写生」句の多くは現在からすると何気ないが、実際は「月並」の趣向を裏返したり、あえて無視した点に新鮮味があったことが判明した(結論自体は予想がつくが、推定に終わるのと実際の作品に即して分析するのでは、「写生」の把握が全く異なる)。

当時、俳句作品の約99%は「月並」な措辞や類想であり――明治の俳誌群を見ると実感できる――、つまり「月並」句こそ一般の句作感覚だった。子規達はその「月並=俳句らしい俳句」を踏まえた上で、それをずらし、または固定観念を揺さぶるような句を詠むことで、新しみを獲得しようとしたのである。

ただ、子規達のような句作を是としたのはごく少数で、大部分の俳人達は眉をひそめ、ある宗匠は声を荒げて批判し、また多くの俳人達は子規達を危険人物(!)の巣窟として近寄ろうとしなかった。数でいえば子規達は1%にも満たず、彼らと立場を異にする俳人達は99%を占めたのである。

これらは当時の資料を調べると分かることだ。しかし、誰も検証しなかったのはなぜか。それは、めんどうだからである。

何年もかけて埃のかぶった資料を読みあさり、子規達と「月並」宗匠の俳句観や句作感覚を復元させようというのは、忙しい現代人にできるはずがない。そんなことに快感を感じる(?)のは研究者ぐらいなものだ。

つまり、私たちは「子規の俳句革新」を一種の“物語”として語り、当時の実態を把握することなく、また関心を持たずに述べているのである。

特に、実作者は自身の感覚に鋭敏であるため、当時の子規達の価値観を探ることより、現在の自分に響くものを「子規の俳句革新」から取り出して語ることが多い。

いずれにせよ、私たちの多くは当時の資料を見ずに「子規の俳句革新」という“物語”をなぞり続けているといえよう。

子規に関する“物語”はあくまで一例であり、私たちは当時の事実や文脈、人間関係や言葉の位相などを知らないまま――もしくは重視しないまま――、俳句史上の人物や作品、出来事を“物語”として語り続けることが往々にしてある。

では、資料にみっちり付き合い、事実を吟味しつつ、そこから浮かびあがる解釈に耳を傾けるという手続きを経なければ、過去(や現在)を論じることに意味はないのだろうか。

無論、そんなことはない。

一種の“物語”であろうと、また事実確認に少々瑕瑾があろうと、着想や解釈が魅力的であったり、それを支える筆者の信念に強烈な存在感があれば、読みごたえある「批評」として成立する場合は多々存在する。

たとえば、小林秀雄や保田与重郎。江藤淳や柄谷行人氏、絓秀美氏に福田和也氏、東浩紀氏。

彼らは、「批評」が何より信念であることを自覚していた。それが最終的には趣味に偏った断言としても、彼らは「文学」と対峙するには「文学」的たらざるをえないことを踏まえた上で、というよりその地点からしか「普遍=公共的な価値」を志向しえないことを意識した「文学」者達であった。

自らがある「文学」に心を揺さぶられたとしても、他人には価値のないもの、また意味がないものかもしれず、むしろそのように感じる他人が多いかもしれない。だからといって口を閉じることと、それでも人々に訴え、伝えようとすることは全く別の営為だ。

多くの批判と誤解にさらされ、それ以上に巨大な無関心に包まれようとも、取りかえの利かない、切実で、緊迫した「文学」像を読者に訴えようとする、その存念が文体に宿っていること。

文学研究からすると、「批評」の迫力と魅力はそこにあるといえよう。


福田:文学批判は、趣味性の批判を本質に抱えているところが、批評の強みですよね。

柄谷:そう、それは文学をやっているからできる。僕は昔、文学者以外に文学批判はできないと言って、誤解されてしまったことがある。

福田:文学を否定するためには、文学者でなければいけない(笑)。

(略)

柄谷:批評家というのは、うまく定義できないけれど、サルトルの言葉でいえば「アンガージュマン」、江藤淳の言葉でいえば「行動」が、書く行為の根底にある人のことだと思います。つまり、決断があるかどうかということですね。

福田:決断というか、価値の決定ですね。それが批評だ。

柄谷:そう。江藤淳の批評には断定の強さがありますよね。

(略)

福田:僕がフランス文学で一番嫌だったのは、それだったんです。日本では偉い、実際に仕事もきちんとしている人たちが、(略)フランス人に尊敬されていないことに耐えられるのかが、最初の疑問だった。

僕は、何とかこいつらに尊敬させようと思って、彼らが避けてきた、第二次大戦中のドイツ占領下で対独協力をしたフランス文学者のことをやりました。その『奇妙な廃墟』という最初の本をお送りした後、江藤さんが注目してくれて、いろいろ世話してくれたのも、僕がフランスに対して苛だっていたからでしょうね。

柄谷行人氏・福田和也氏対談「江藤淳と死の欲動」、「文学界」1999.11


1. いらだち

第54回群像評論賞受賞作「1%の俳句――一挙性・露呈性・写生――」は、彌榮浩樹氏(俳句結社「銀化」所属の実作者)による俳句評論である。その執筆方針は、次の発言につきるといえよう。

とても大雑把な文章になりましたが、「俳句とは何か」を約三万字で一気に素描すること、それは、いつか誰かが行うべき作業だったはずです。

しかも、<俳句について格別関心があるわけではないが機会があれば知るにやぶさかではない人たち>の眼前で。
彌榮氏「受賞の言葉」、「群像」2011.6
「機会があれば知るにやぶさかではない人たち」、つまり俳壇外の「文学」愛好者や各文壇の人々に向けて執筆したという。それも、「大雑把」でも「一気に素描」しなければならない、という切迫感に満ちたものだった。

氏は、なぜそのように書かねばならなかったのか。それは、次のような状況へのいらだちがあったためと推定される。

①『1%の俳句』は読み物として楽しく、自分まで俳句をひねってしまいたくなる評論だった。(略)俳句の入門書として、これぐらいのものはいくらでもあるという批判があるかもしれない。(群像評論賞選評、伊藤たかみ氏

②敗戦直後の一九四六年に発表された桑原武夫「第二芸術」が提示した戦後文学イデオロギーに対して根源的な批判を加え、(略)「1%の俳句」がいかに文学として、言葉の芸術として成立しているのかを示そうとしたものであることが、現在の文学論としてきわめて刺激的だった。(群像評論賞選評、田中和生氏)
順を追って見てみよう。

まず、①は「俳句の入門書」にも似通う彌榮氏の論を読み、「俳句をひねってしまいたくなる」楽しさを感じたという。

しかし、彌榮氏の論を読むと、楽しみながらひねる作者層の俳句を分析対象にしていないこと、また世間一般の俳句入門書―結社主宰が話し口調で説くような―と異なる内容なのは一目瞭然である。

それにも関わらず①が述べられたのは、俳句にさして詳しくないためであろう。

無論、それで構わない。今や「文学」はほぼ「小説」を意味し、俳句を知らなくとも差しつかえない世界である。そこでは俳句史の文脈や感覚を知っている方が稀であり、その点、①は普通の感覚といえるのではないか。

また、②は「第二芸術論」に言及した選評である。①よりは俳句史を意識した評といえよう。

ただ、考えてみてほしい。

桑原武夫論は1946年発表であり、60年以上前の評論である。「第二芸術論」から彌榮氏の論に至るまでに、いかに多くの実りある俳論があり、また注目すべき論争があったかは、俳句界にそれなりに関わった俳人ならば周知の事実であろう。

しかし、俳壇外の人々にとって、戦後から現在に至るまでの著名な論といえば「第二芸術論」なのである。「第二芸術論」の内容自体はさして問題ではない。文壇の人々がそれ以外に想起しえないのが問題なのだ。

もちろん、①②が俳壇外の反応を代表すると言いたいのではない。俳句史に強い関心を抱く「文学」者も多々存在しよう(たとえば、福田和也氏など)。

ただ、やはり①②は一般的な反応といえるのではないか。これらから垣間見えるのは、次のような「文学」状況であろう。

俳句業界に属していると忘れがちだが、その世界から一歩外に出ると、そこに広がるのは俳句に対する無関心か、教科書的な知識である。

普通、「文学」といえば小説であり、詩に他なるまい。文学選集には「小説→詩→短歌→俳句→川柳」の順に並べられ(これは字数順のみではあるまい)、書店の棚に新刊句集が並ぶことは稀である。

また、文芸雑誌に「俳句特集」が組まれることがあるだろうか。俳壇で権威ある各賞が決定したところで、どの新聞紙やニュースが大きく取りあげるだろう(総合俳誌や俳人協会発行の新聞は大々的に報じるが…)。

さらにいえば、「文学」評論で俳句が扱われることはごく少数で、文学研究者の間で俳句が話題になることは皆無に近い。

彌榮氏はこのような「文学」の状況に対し、強い違和感を抱き続けたのではないか。

俳句は凄い「文学」であり、少なくとも自分はそのように信じている。しかし、誰もが小説を「文学」の代表と見なし、小説を例に時代や社会を語り、日本語のあり方を論じあっている。なぜ、俳句はかくも素通りされるのか。

たまに俳句が取りあげられても重要なポイントは素通りされ、他ジャンルでも言えそうな内容のみ強調される。

俳句には、俳句にしか獲得しえない魅力があるはずにも関わらず、その考察は深められないまま、ありきたりの俳句観がまかり通っている……これらの状況に対し、彌榮氏はいらだちを感じていたのではないか。

これらの「文学」状況に対し、凄い俳句がこの世に存在すること、それも「文学=小説」と異なる原理でありながら、「小説」と肩を並べうる魅力があるということを、まず提示しなければならない。

たとえ強引で、独断に満ちたものであろうと、自らが最高峰と信じる俳句の凄さを、「<俳句について格別関心があるわけではないが機会があれば知るにやぶさかではない人たち>」(受賞の言葉)に突きつけよう――この時、彌榮氏が選択したのはエッセイや学術論文でもなく、これらを「批評」に近い形での散文で訴えることだった、と推測される。

従って、「1%の俳句」を捉える際、俳壇外の「文学」に関わる人々に向けた論であることを踏まえる必要があろう。この特徴を素通りすると、水かけ論に終わる可能性がある。

曰く、「こんな句は1%の俳句ではない」「独断と偏見に満ちた暴論」「無理やり論旨を通そうとするのがミエミエ」……実際、彌榮氏の評論にはツッコミどころがいくらもある。

俳句に深く関わる人ほど、「なぜ○○を取りあげて○○を取りあげないのか」「なぜその作品の○○を詳細に論じず、結論に飛ぶのか」等の疑問が浮かぶことは容易に想像されよう。

ただ、彌榮氏はそれらを百も承知で「「俳句とは何か」を約三万字で一気に素描」(受賞の言葉)しようとしたこと、その意味を考える必要があるのではないか。

また、その際に「写生」という言葉を重視したことからもうかがえるように――単に俳句用語としてでなく、子規以降の名だたる実作者が使用し続けたという歴史の重みを受けとめる覚悟、という意味で――、彌榮氏が小説や詩、短歌や川柳とも異なる、俳句にしかありえない「写生」のあり方を示そうとしたのならば、その内実がいかなるものかを、俳句に携わる私たちは「文学」に関わる人々以上に受けとめる必要があろう。



◆誰かの意見や考えに違和感を持った場合、ただ「違うと思う」とか「おかしい」としか表明できない者と、自分の考えをきちんと述べられる、なんらかの異論を提出できる者とでは、雲泥の差がある。当たり前のことだが、前者はその者以外には、なんら意味を持たない。
 
◆或る対象を前にした時、批評の構えは大きく二つある。「誰であれこう考える(だろう)」と「自分は(自分だから)こう考える」である。『批評とは何か?』でも語ったことだが、結局のところ、後者を前者だと読者に錯覚(?)させるのが強い批評だとされている。
 
◆しかし僕はいつも、書く前は出来るだけ前者であろうとして、しかし後になったら後者であることを認めるようにしているのだ。客観性と主観性はぐるぐる廻って繋がっている。どっちかしかないフリを(たとえ無意識にであれ)するのはズルである。
 
佐々木敦氏のTwitterより、2011.6.16、PM1:34~1:45)



2. もっとも近いのは……

では、彌榮氏が示した「1%の俳句」の魅力や特徴とはいかなるものなのか。

これを検討する前に、今一度あることを確認することで、先に見た彌榮氏のいらだちを俳句史に位置付けておこう。

近現代俳句史上、評論を発表した彌榮氏の立場に近いのは、おそらく正岡子規である。ここで彌榮氏の論から一度離れ、“俳人子規”の位相を述べておく。

子規の俳論は今や多くの俳人に読まれるが、当時の彼は俳壇内の人々を読者に想定しなかった節がある。

むしろ、子規は「文学」に関心を抱く俳壇外の人々に向けて論を発表しており、この点では彌榮氏も子規と似た立場にあるといってよい。

そもそも、子規が多く発表した「日本新聞」は、通常の俳人が読む新聞ではなかった。子規派が作品を掲載した「めさまし草」「早稲田文学」等も、俳壇の人々には縁遠い「文学」雑誌である。

加えて、子規の俳論は当時最新の思想用語がちりばめられ、それも翻訳語が多い。

詳細は省くが、「連想・印象・視官」等は西洋審美学・心理学等の専門用語で、日常語ではなかった。当時、子規の俳論を読んで理解しうる俳諧宗匠達(とその結社の人々)はおそらく稀であり、つまり俳句に携わる人々にとって子規の論は意味不明なシロモノに近かったといってよい。

現代に置きかえると、それはたとえばポストモダンの思想等を俳句に応用した論であり、あるいは東浩紀氏等が『思想地図』やサブカルチャー批評等で展開した認識を多用した論といえば、想像しうるだろうか。

では、子規がなぜそのように論をまとめたかというと、「文学」において俳句が等閑視されることへの、怒りに似たいらだちがあったためである。

当時、俳句は文明開化の日本を担う「文学」でなく、せいぜい隠居の嗜みごとか、点取(賞金目当ての投句)のような賭けごと程度の認識だった。新時代を牽引するのは「小説(novel)」であり、「詩(poem)」だったのである。

一方、俳壇を振り返ると状況は絶望的であった。

宗匠達は旧来の慣習や価値観を遵守し、強固や人脈と広い人気を獲得している。名誉と利権を手に入れた彼らが、従来の俳句観を手放す可能性は低い。

そこで子規が採った方法は、「文学」側に俳句を認めさせることだった。「文学」に関わる人々に俳句の魅力を説くことで、従来の俳句観を転覆させようとしたのである。

その際、たとえ強引でも俳句が新時代を担う「文学」たりえることを主張し、また独断で駄句/傑作の差異を裁断することで、子規は俳句の価値基準そのものを一気に提示した。

その結果、森鴎外等の「文学」者兼知識人や地方の高校生達(当時はスーパーエリートに近かった)など、子規俳論に強い関心を示す者が続出したが、俳壇内からは批判が噴出した。

なぜなら、子規は従来の俳壇で培われた俳句観や師系、文脈や用語その他を一切考慮せず、しかも著名俳人や俳論家を名指しで批判したためである。

そのように無礼な子規に対する俳壇の非難は厳しかった。曰く、俳句のルールや価値観を無視した学者の理不尽な論である。曰く、偏見に満ちた若造の愚論。曰く、用語が意味不明である。曰く……(後略)。

俳壇の多くの俳人達は、自らの俳句観や師系を無視されたことに怒りを覚えるとともに、子規が「印象明瞭」などと奇妙な新語で俳句を峻別し、「赤い椿白い椿と落ちにけり」という「ただごと」――宗匠達からすると完全な凡句だった――を絶賛する無礼かつ強引な価値の決定に、批判を集中させたのである。

ここで、彌榮氏の評論を振り返ってみよう。

「俳句について格別関心があるわけではないが機会があれば知るにやぶさかではない人たち」(彌榮氏の受賞の言葉)、つまり「文学=小説・詩など」に関わる人々に対し、俳句にも凄い世界があることを示そうとした点において、氏と子規は共通点がある。

また、参照の是非は別として(これについては後述する)、カッシーラーや片岡義男、グッドマンを使用するあたり(それにしても凄い組み合わせだ)、彌榮氏は一般の俳句評論と異なる感覚で論を展開しており――通常、俳論にカッシーラーやグッドマンが引用されることはほぼ存在しない――、この点も子規論に近いものがあろう。

加えて、彌榮氏は著名俳人&評論家を名指しで批判――というより、素通り――したため、彼らを信奉する俳壇の人々に批判を受けることになるだろう(現に浴びつつある)。これも子規に似通うところがある。

つまり、子規や彌榮氏は俳壇内よりも俳壇外に広がる「文学」の文脈を重視したところに共通点がある、といえようか。

ところで、これらは彌榮氏の論が子規のように百年後も読まれる俳論である、ということを述べたいわけではない(子規の論が長く読まれたのは、内容以上に他の要因が大きく関わっている)。

俳論を発表する際の立ち位置や読者層の想定の仕方、また独断に満ちた断言が連なる論の性急さにおいて、両者に通底するものがあることを確認したいのである。

では、彌榮氏と子規の論は内容も共通するのだろうか。私見では、共通点と大きな差異があると感じられる。

最大の共通点は、有季定型という俳句形式の特徴を、小説などの散文との比較から見出そうとした点であろう。

子規も彌榮氏も表立って小説と俳句を比較していないが、俳句の特質を述べる際の手続きは、明らかに他ジャンルとの差異において見出した形跡がある。

これは、俳句以外のジャンルを想定しないまま――無季や多行形式、自由律も、小説や詩ほど他ジャンルたりえないという意味で、俳句に収まる形式と見なせよう――、俳句の特徴を検討するあり方とおよそ異なる認識である。

子規や彌榮氏は、「小説・詩・短歌等の他ジャンルと比較した際、何が俳句の特徴たりえるか」という地点から俳句の特徴を抽出しようとした。つまり、他ジャンルとの差異において俳句の独自性を見出そうとしたのである。

このように捉えると、彌榮氏の「1%の俳句」は俳壇の突然変異というより、俳句史的には子規の系譜に連なる「批評」に近いといえよう。

では、両者の相違点は何であろうか。私見では、子規と彌榮氏は有季定型・「写生」に対する認識がおよそ異なると感じられる。

これを検討するには、彌榮氏が提示した「(俳句における)一挙性・露呈性」に踏みこむ必要があろう。

(この項、続く)



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