週刊俳句時評第36回
吉野の花見 角川春樹『白鳥忌』に思うこと
五十嵐 秀彦
この時評を担当することになって、月一回書くべきテーマを見つけそこそこの分量の文章を用意することのむずかしさを今更のように感じている。
時評といいながら、内容はエッセイでもいいや、というつもりではいるのだが、それにしても、書くことなんて毎月ありゃしないよ、という思いもある。
という具合で、グチから始まってしまった。
おそらくこれから書くことに内心危機意識をもっていて、出だしで予防線をはっているつもりなのかもしれない。
時評ってさ、おそろしんだぜ、だって予想もしないところで虎の尾を踏んでしまうこともあるかもしれないんだから。
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あんまり自分で金を出して句集を買うことのない私が、新刊の句集を一冊購入したところから話は始まる。
それは、角川春樹の『白鳥忌』(文學の森)であった。
「なぜ?」と思う人もいるだろうし、「ああ、そうだろうね」と思う人もいるだろう。
あの「魂の一行詩」の角川春樹さんである。(このあとはお約束で、敬称は省略)
「なぜ?」という疑問には、これが森澄雄への追悼作品だから、と答えよう。
「ああ、そうだろうね」と思う人には、きっとふた通りあるのではないか。
ひとつは、角川春樹ファンの人たち。そういう人たちには御断りしておく必要がある。
私は角川春樹という作家に、あまり好感は持っていない。おいおい書いてゆくが、気になる人ではあるけれど、俳句にまつわる(あるいはそれ以外の)言動に共感できないことが多い。
「ああ、そうだろうね」のもうひとつとは何かというと、それは、案外私を知っているごく少数の人たちの中にあるような気がする。つまり、目立たないところに継続して書いている私の論考や、あるいはブログ等を読んでいるという実に奇特な人種のことである。
五十嵐は、折口学の信者だから、春樹と森澄雄とくれば、ストライク・ゾーンだろうな、という思いの人もひとりふたりはいるやもしれない。
今回は、えげつないことに、そのひとりふたりのために書こうと考えているのである。
そうでも思わなければ書きにくいテーマを選んだというお粗末な件に関して、見苦しい言い訳をしつつ、さて話を進めよう。
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この句集も、著者は句集とは呼ばず「一行詩集」としている。
そこはとりあえず目をつぶって中を読む。
そこには彼の句とともに森澄雄の句もところどころに載っている。
著者があとがきにあたる「死者との対話」で、《私が『白鳥忌』で試みたのは、私と森澄雄先生の作品を対話形式にしたことである。現実には存在しない死者との対話を、一行詩を通して実現してみた。いわば、二人だけの句会である》と、この作品集を説明している。
つまり、森澄雄と角川春樹の魂のコール・アンド・レスポンスということなのだろ
う。著者と森澄雄との関係を思えば、特に不遜なこととも思われない。
たとえばこんな具合である。
(人間の下転や鳥は雲に入る 森澄雄)
生きること時に切なし雲に鳥
(われ亡くて山べのさくら咲きにけり 森澄雄)
われ亡くて花の岬の吹雪きゐる
(おうおうと金春家いま薔薇のとき 森澄雄)
淡海てふ昏き器に薔薇の雨
(さるすべり美しかりし与謝郡 森澄雄)
約束の旅にしあれば百日紅
そしてこの『白鳥忌』は次の追悼4句にて締めくくられている。
白鳥の蕊を零して帰りけり
白鳥の残せし水の蒼さかな
汝もまた白鳥となり帰りゆく
この道の果てはいづくへ雲に鳥
私の印象を正直に言おう。
いい、と思った。
「案外」とか「意外に」とか言うこともできそうだが、そう言うよりも、すなおに感心したし読み進むのが楽しかった。
そして、あとがきである。
そこで私の足りない頭がグルグルと駆け巡り出したのである。
角川春樹と森澄雄との関係。
そこにはさまざまの意見や批判がかつて(今も?)あった。
しかし、それらのあまり美しくないエピソードの向こう側に、私がいつも気になっている人間群像が見えてくるのだ。
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それは「吉野の花見」である。
春樹は澄雄と毎年吉野に花見に出かけていた。その花見にはこの二人だけではなく、山本健吉や中上健次も一緒だったのである。
そのいきさつについて、中上健次はこう回想している。
何年か前、小田原で尾崎一雄氏の葬儀に出た。(…)お祈りを済ませて帰りかかって、山本先生と森澄雄氏に声を掛けて頂いたのだった。(…)山本先生が角川源義の親友だったのを思い出し、角川源義はどんな人だったのか?と訊ねた。
山本先生は若い作家からそんな問が出るとは思えないという不意を衝かれた表情になり、次に、どの葬儀にも漂う重い気持ちが晴れたように小田原の駅前に、やはり故人になった立原正秋氏の好んだ小料理屋があるからそこへ行こうと誘って下さった。
そこで私は本ではなく生身の、俳人であり、国文学者であり、出版人であった角川源義の話をうかがったのだった。
山本先生は角川春樹氏や辺見じゅん氏の事も言った。私が、二人に面識がないと言うと、「会ってないのか」とあきれたような顔になられ、それでは花見に吉野へ行くから一緒に来ないか、と誘って下さったのだった。
『ユリイカ』2008年10月号より(p34) (初出『角川源義全集第一巻 古典研究Ⅰ』月報2、角川書店、1988年)
中上健次。
彼は角川春樹に関して日頃「会ったらぶん殴ってやる」と言っていたそうである。
山本健吉と森澄雄が尾崎一雄の葬儀で中上を見かけたとき、呼び止めて話をしようと思ったのはそのせいでもあったらしい。「ぶん殴ってやる」とは、いかにも中上らしい発言であった。
しかし、そう言わず一度会ってみろと説得されてから、両者の交友は始まったのである。
中上は春樹をぶん殴らなかった。
それどころか、山本健吉を中心とした吉野の花見の常連となったのである。1983年(昭和58年)のことだった。
吉野の花見はそれからしばらく毎年続けられたようだ。
今回『白鳥忌』のあとがきで角川春樹は、その花見のことをこう述懐している。
一枚の写真のところで手が止まった。昭和六十三年四月の花見の景である。吉野の飯貝にある寺の枝垂桜の下で、弁当を広げている。しかし、そこに登場する人物の、大部分はこの世にいない。山本健吉先生ご夫妻、森澄雄先生ご夫妻、母・照子、作家の中上健次、俳人の秋山巳之流。
この花見の顔ぶれの背後に私は折口信夫の姿を見てしまう。
そしてそこにはきっと角川源義もいるのである。
山本健吉は、師折口信夫と、盟友角川源義という盟約を結んだ精神を通して、角川春樹という青年(当時)を見ていたのに違いない。
そうでなければ、いくら才気あふれる作家であろうとも、名著『現代俳句』(角川選書)の巻末に38頁も割いて角川春樹論を追加するようなマネはしなかったのではないか。
そして、山本のその思いは森澄雄に引き継がれた。まるで春樹の後見人のように二人はふるまった。
それは誰も否定できない事実だろう。
そうして角川春樹は力強い「後見人」を得た中で、自分の道を驀進した。
しかしその姿は見る人によっては、どこか奇妙なものとして映ってはいなかったか。
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彼が実刑を受けたことなどを言っているのではない。私にとってはそれは非文学的な事件であって、なんら重要な問題ではない。
それより、句集『JAPAN』に見られる不自然な「日本主義」、あるいは「魂の一行詩」の提唱などが、どうしても角川春樹という人物の文芸の本質を表しているものとは思えないでいることと、そうした彼の立ち姿がかつての「吉野の花見」とつながり難い印象を持ってしまうのである。
ところが、その違和感の証人であるべき人物である中上健次が、もうこの世の人ではないのだ。
著者が言うように、花見の座で残ったのはいまや著者ただひとりなのである。
すると、吉野の花見が今に遺したものは、彼の「日本主義」と「魂の一行詩」提唱という「思想」なのだろうか。
折口信夫、角川源義、山本健吉、森澄雄、中上健次らの帰結するところがそれなのかという思いに襲われてしまうのである。
「違う」と呟いている自分を見つけてしまうのだ。
「違う」あるいは、自分自身の姿やバックボーンが角川春樹には正確には見えていないのではないだろうかという疑心がわいてくる。
今更もうわかるはずのないことであるが、森澄雄はそのことをどう考えていたのだろう。
しかしそんな問いへの回答は、もはやかなわないことである。
中上健次は、もっとはるかに明確な主張として「座」の継承をしていた。その主張がどのように作品化し、新たな主張を生み、次の作品へと結実していくのか、それは彼の早すぎる死で、途絶させられてしまった。
彼の作業を振り返ったとき、本当にくやしい思いをするところである。
この国の文化における被差別民の力というもの、そこに着目していた中上の姿勢は、折口信夫のまなざしと同じ方角を向いていたのだと思う。
部落解放の政治的ベクトルとは異なる道を、中上は必死に模索していた。
それが彼の志なかばとなってしまった熊野大学であり、彼の俳句への接近でもあった。
中上もまた「日本主義」を探っていたように思う。
その「日本主義」は折口の追い求めた民俗的アプローチと重なっていた。
しばしば今も折口を国粋主義者のように誤解している人々があるが、折口学はけっして右翼思想ではない。
民俗学的手法で古来の風習を探る中から日本的な精神の本質を見つけようとする道であったはずだ。
自身被差別民出身である中上健次が、折口信夫・山本健吉の流れに自らの思想の舟を浮かべたのは、実に的を射たことであった。
しかし、中上は死んでしまった。
ひとり遺されたのが、角川春樹なのである。
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彼の俳句には、折口・山本の精神がかすかに香っている。それが私には感じられる。
しかし、彼が俳句実作から離れて口を開くと、なんとも私には理解しがたいことばかりが発せられてしまう。
彼の俳句作品も、彼の文学論や宗教観も、すべて良しとする人から見ると、私の言っていることはナンセンスなことなのかもしれない。
だが、ともかくこの句集を読んで、感じてしまった私のモヤモヤを時評の枠の中で語らざるをえない思いになることを止められなかった。
吉野の花見。その座から中上健次は熊野大学を開き、速玉神社双鶴殿での連続講座として、山本健吉の『いのちとかたち−日本美の源を探る−』を講義したのである。
一方、同じ座にいた角川春樹は、「吉野の花見」のただひとりの生き残りとして、これからどうするのだろう。
私はまだ角川春樹という作家に絶望しているわけではない。彼の言動も笑うつもりはない。
彼は神になどならない。それだけはわかっている。
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