2011-06-19

林田紀音夫全句集拾読169 野口裕


林田紀音夫
全句集拾読
169



野口 裕



風音の過ぎて電話の奥に母
昭和五十一年、未発表句。紀音夫は、すでにあった家庭よりも、自らが創った家庭に思いをいたす人である。父母の句は非常に少ない。思い過ごしかも知れないが、この句もちょっとよそよそしい感がある。いずれにしろ、母を詠んだということで珍しい句になる。

 

寂莫の渕へ落ちこむ鍵の音

昭和五十一年、未発表句。ちょっと物寂しいところで鍵を落としてしまった。その鍵の音が一層もの寂しさをかき立てる。鍵が何かの象徴に見えて、だがその指し示すものがはっきりせず、はっきりしないまま、鍵の物質感だけが妙にかき立てられる。発表句に類句は見当たらない。

 
船室へ降りる網膜呪符灼きつけ

昭和五十一年、未発表句。これを戦時体験と結びつけることも想像できなくはない。しかしそれにしては、「船室へ降りる」という措辞には余裕がある。「船底」とか、他の語を使用した方が戦時体験との連結は強固になるだろう。したがってこの句は、戦時体験とは切り離して考えたい。とはいえども、日常のスナップ写真のような句と見るには措辞が異様。

たまたま、船室へ降りる際に見かけた光景が呪符のごときものとして記憶されてしまった。となると、それはいかなるものかが気になるが、句はそこを素通りして、否応なく記憶されてしまったという体験そのものにこだわる。その頑なさを珍重すべき句だろう。

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