2011-08-07

「未来」創刊60周年記念大会レポート・第二部 シンポジウム「ニューウェーブ徹底検証」 先生の講義を写すように 越智友亮

「未来」創刊60周年記念大会レポート・第二部 シンポジウム「ニューウェーブ徹底検証」
先生の講義を写すように


越智友亮


2011年7月16日(土) 
於・如水会館(スターホール)




さる七月一六日、「未来」創刊六〇周年記念大会にお邪魔してきた。

第一部は生駒大祐さんによって第222号の週刊俳句にて詳しく書かれていたので、本稿では第二部のシンポジウム「ニューウェーブ徹底検証」について書きたいと思う。ここであらかじめ断わっておくけども、この記事はあくまでも越智による越智のためのメモです。というのも、ぼくは「傘 vol.2」で「俳句におけるライト・ヴァース」を特集して、現代詩にあった「ライト・ヴァース」という言葉を改めて俳句に導入しようとしたのだけど、その際、「短歌におけるライト・ヴァース」を顧みなかったんですね。これにはいろんな事情があるから省略するけど、「短歌におけるライト・ヴァース」を勉強するのにちょうどいい機会だと思ったので、どうしても参加したかったんですね。その勉強をまとめたのが今回の記事になります。つまり、授業中に先生の講義を必死で写したノートのような感じになりますが、すみません。先に謝ります。



さて、今回のシンポジウムでは加藤治郎さん、川野里子さん、田中槐さん、石川美南さん、斉藤斎藤さんに加えて、司会の荻原裕幸さんの計六人で構成されている。「ニューウェーブ徹底検証」という題から考えて、その運動の中核を担った加藤さんと荻原さんがいて、同世代である川野さん、その後追い世代として田中さん、石川さん、斉藤さんというのは、妥当な人選じゃないんかなと思った。それは後追い世代がいることによって、検証をするという強い姿勢が読みとれるからである。

ちなみに、議論の進行については、まず各自が担当箇所をそれぞれが発表し、そののち、司会によって討論が行われるというかたちをとっている。

それでは、それぞれの発表を順に記したい。



まず、石川さんの話を。ニューウェーブの一連の流れが終わった後に短歌に携わったという視点から、ニューウェーブについて四層に分かれた人がいるのではないかと指摘する。

(一)短歌の新しさや何が今までとは違うのかといったことを積極的に推しだした人を「我こそはニューウェーブ」 ex. 荻原裕幸、加藤治郎

(二)記号や、新しい方法を用いたりする人を「方法論としてのニューウェーブ」 ex. 穂村弘、(西田政史)

(三)表現の多様化や極端化を穂村弘はわがままと表しているが、そのわがままで括れる人を「広義のニューウェーブ」 ex. 井辻朱美、水原紫苑、紀野恵

(四)同じ時代を共有して互いに批評をしていた世代の人を「ニューウェーブ世代」 ex. 坂井修一、米川千嘉子、川野里子

今、ニューウェーブの歌を振り返ってみると、ひとりひとりが万能感、言葉ではなんでもできるというテンションの高さを感じる。それが今では自分の言葉でできることは限られ、ルールを作り、その中で言葉を紡ぐという認識になっている。そうなることによって、他の人の歌を読むときに自分の価値観を押し付けるのではなく、自分の持ち場を意識し、他者を尊重する責任感に移行しているのでは、と提示される。また、「秀歌」については、短歌としての完成度の高さや、短歌に対してどのように向き合っているのといったようにさまざまな観点が混在しているとし、辰巳泰子さんの話を出して、ニューウェーブ以前は一つの短歌史の中で秀歌を共有することができたが、以降は秀歌自体が揺らぎ始めたと言う。

(ケチャップ+漱石)それもゆふぐれの風景として愛してしまふ  荻原裕幸
名を呼ばれしもののごとくにやはらかく朴の大樹も星も動きぬ  米川千嘉子



つぎに、加藤さんの話を。ライト・ヴァースやニューウェーブが戦後短歌からどのように生まれてきたのかというのを検証するとのこと。そもそもライト・ヴァースは「未来」短歌会――岡井隆さんが「軽い歌」を考え、議論を始めたことに発端している。「風俗的な歌」「わかりやすい詩」「言葉自体が主題化」「軽いが背後に知の堆積がある歌」「オノマトペ」「機知」「風刺」「口語的な日常会話的な言葉」「挨拶や即興の面白さ」といった話題があがる。また、ライト・ヴァースの主張と吉本隆明『マス・イメージ論』に書かれた時代の捉え方が連動し、サブカルチャーの志向へとつながったと述べる。

ふらんす野武蔵野つは野紫野あしたのゆめのゆふぐれのあめ  紀野恵
やはらかき猫のまだらにやはらかききんいろの雨ふりてゐたりき  中山明

この軽い歌は1980年代半ばに突然出てきたのではなく、戦後短歌からひとつの水脈として存在していたと言う。戦後短歌の価値観は、近藤芳美『新しき短歌の規定』における「今生きる人間そのものを打ち出す歌だ」に象徴されているのだが、軽い歌の中に文学の楽しさを見つけていこうとしていたのではないか。岡井隆の歌にある暗喩の世界や、塚本邦雄の歌にあるパロディさにそれを読みとれるのではないだろうか、と指摘する。

楕円しずかに崩れつつあり焦点のひとつが雪のなかに没して  岡井隆
雪はまひるの眉かざらむにひとが傘さすならわれも傘をささうよ  塚本邦雄



続いて、川野さんの話を。ニューウェーブとは何かと規定して捉えるのではなく、歌を始めたときに周囲にあった歌集や見てきた風景をまとめ、自身を軸にして話し始める。

宇宙船に裂かるる風のくらき色しづかに機械はうたひつつあり  井辻朱美
さくらさくらいつまで待っても来ぬひとが死んだひととはおなじさ桜!  林あまり

荻原裕幸や穂村弘による口語体の使われ方は文語的世界を否定することによって生まれたものだと述べる。また、ライト・ヴァースとニューウェーブの大きな違いは、前者は重厚な作りで、年月から経ることで来る軽みであり、後者は時間の遮断という時間を抱えないことから表れる軽みと自身の考えを示される。これらの歌から時間に対する態度が大きく変わったと考えていると言う。



では、田中さんの話を。ニューウェーブ短歌における「私」の変容について話されるとのこと。俵万智『サラダ記念日』はある意味不幸な歌集であったと言い、あとがきに「原作・脚色・主演・演出=俵万智、の一人芝居――それがこの歌集かと思う」とわざわざ明示したのにもかかわらず、等身大の二十代女性、しかも学校の教師を務める女性の恋愛や日常を描いた歌集として受け止められ、読者のほとんどが作中主体=作者と読んでしまい、本来なら虚構の「私」を描こうとした画期的な歌集であったはずなのに、その方向にいかないままに評価が定まったことを理由に挙げる。
砂浜のランチついに手つかずの卵サンドが気になっている  俵万智
万智ちゃんを呼ぶ子らがいて神奈川県立橋本高校

加藤治郎『サニー・サイド・アップ』における作中の「私」は、作者本人というよりは、当時の時代の空気を代表する青年像として描かれていると示し、治郎自身の会社員の生活や大学で何を勉強したかといったことを一切描かずに、この時代に生きる若者の一人という描かれ方によって読者の多くが共感を持ったのではないかと分析する。
ぼくたちは勝手に育ったさ 制服にセメントの粉すりつけながら  加藤治郎
マガジンをまるめて歩くいい日だぜ ときおりぽんと股で鳴らして

また、当時「私」が揺らいだ時代であり、「私」を普遍化することはステレオタイプなものしか生まれないような状況があって、だからこそ虚構の世界を詠わざるおえない。「私」を描くというときに、厳密に「私」を描くのでは描ききれないというジレンマが、当時の作者にはあったのではないかと指摘する。そういう意味で、ニューウェーブにとっての「私」の在り方は大きくずれてきたのではないのだろうかと言う。ライト・ヴァースの特徴として、会話体の取り込みがあるのだが、俵万智の歌にある対話は予定されている他者が配置され、穂村弘の歌にある対話はお互いが理解し合っているかわからず、理解不能な存在としての他者が入り込んでいる。そういう他者を取り込みたいというのがニューウェーブの最初の発端ではないだろうかと述べる。

「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ  俵万智
「フレミングの左手の法則憶えてる?」「キスする前にまず手を握れ」  穂村弘



最後に斉藤さんの話を。ニューウェーブ短歌におけるリアリティを話すとのこと。しかし、時代や短歌の世界の変化により、当時なんでリアルティがあったのかが正直わからないと述べる。

卵産む海亀の背に飛び乗って手榴弾を抜けば朝焼け  穂村弘
目薬をこわがる妹のためにプラネタリウムに放て鳥たち

前者は言葉が鮮烈なイメージを放っているのはわかるが、なんでこんなにテンションが高いのかがわからず、ちょっと引いてしまうと言う。後者にある「プラネタリウムに放て鳥たち」は「手榴弾を抜けば朝焼け」と同じ発想だと推測するが、「目薬をこわがる妹のために」と描かれるとなんとなく腑に落ちてしまうと言う。そして今の若い世代には、前者のテンションでは通せないと感じ、後者のようなレトリックといった担保をいれることによって通せるような気がすると述べる。

また、この三人がニューウェーブとくくられていている理由がよくわからないと言い、三人の特徴をまとめる。

穂村弘は「」でセリフを括り、作中主体とも、作中主体と関わっている他者ともつかないような会話が一首として成り立させることによって、作中主体と作品の関係を切り離し(たまではいえないけど)、それまでの短歌とは一線を越えたと指摘する。
「耳で飛ぶ象がほんとにいるのならおそろしいよねそいつのうんこ」  穂村弘
「自転車のサドルを高く上げるのが夏をむかえる準備のすべて」

加藤治郎は自分の記憶や身体性と交わらせようとすることによって、今までの文体では描ききれなかった世界、作者の描いている世界であるメタファーとして一首の中で機能させようとしており、記号を導入しているけど、それまでのリアリズムの拡張であったと指し示す。

二人のふるい恐怖をかたり症状がやわらぐならば濁った蜜を  加藤治郎
1001二人のふ10る0010い恐怖をかた101100り0

荻原裕幸は自分と関係のない外部として記号を用いていると言える。

▼▼雨カ▼▼コレ▼▼▼何ダコレ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼BOMB!  荻原裕幸
▼▼▼▼▼ココガ戦場? ▼▼▼▼▼抗議シテヤル▼▼▼▼▼BOMB!

記号短歌として一つに括られていた二人だが、実は違うのではないかと考察を加える。



ここでひとまずそれぞれの発表は終わり、討論に移っていくのだけど、ここから先はその場にいた人のお楽しみで、ということにしましょう。え、ずるいって。 いや、その内容の再構成ができないんですね。ぼく自身議論に聞き入ってしまったもので…。

これを機に「短歌におけるライト・ヴァース」やニューウェーブといった一連の動向をもうちょっと深く勉強したいです。ライト・ヴァースとニューウェーブとが異なることを知っただけでも今回の大きな収穫なんですから。それに「俳句におけるライト・ヴァース」を再考したいな。いや、「ライト・ヴァース」とは全く異なるものだとしても、「軽い」俳句について考えたい、と正直に思いました。

最後になりましたが、今回記事にすることをご了承してくださいました田中槐さん、加藤治郎さん、また、突然の頼みにいろいろと世話をしてくださいました本田真弓さん、ほんとうにありがとうございました。



ああ、今回も野口あや子さんの首筋を見ることができなかった。残念…。




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