〔週俳8月の俳句を読む〕
世界をゆっくりと包んでいく
小野裕三
とりあへずあをい夏空折り紙に 湾夕彦
夏空が折り紙になったのだろうか。あるいは、何かもっと別のことがあったのか。折り紙に、の後の動詞がないのでそこが想像力を刺激する。そして、その空白の動詞に「とりあへず」が掛かる。ここが、いかにも巧みだ。「とりあへず」は、その時点までに繋がる何かの状況を想像させる。そしてさらにそれを受けた結末の動詞がない分、その後の動作もいろいろと想像させられる。そんなわけで、俳句で詠まれた時点の前にも後にも想像力が働く。俳句の短さを逆手にとった、実に巧みな句である。
ががんぼにつまらなき昼ありにけり 陽美保子
これはまたシンプルな句。意味があるようなないような、極めて希薄な句である。しかし俳句の真骨頂のひとつに、何も言わないよろしさ、があるのはおそらく周知のことかと思う。この句もきわめて意味性は希薄で、「つまらなき」には何も具体性はないし、最後は「ありにけり」だから、五字分は要するに字数稼ぎである。しかし、その希薄さこそが、逆に夏の昼の持つ倦怠感のようなものを的確にあぶり出す。句の希薄さが逆に、イメージが純粋に結晶していくような、そんな効果を引き寄せる。
噴水の気高く上がり無惨に散る 奥坂まや
噴水が出続けている光景とも取れるのだが、これを噴水の出始めた瞬間と捉えると面白いと思った。それまで止まっていた噴水が、まるでむっくりと起き上がるように出始める瞬間は、不思議な興趣がある。ぱっと水が上がる瞬間は、重力に逆らい、意思を持って立ち上がり、その眼差しは高く天を目指している。あくまでも気高い気配に充ちているのだ。ところがその後と来たら、当初の気高い意思はどこへやら、文字通り腰砕けとなって落下し、そのうちには、たらたらとどこかに流れてゆく。水は低きに流れる、とは言うけれど、その転身ぶりはあんまりだ。そんな噴水のありさまを、実にユニークな視点で捉えた句だと思う。
夕涼の祇園に小さき芸の神 前北かおる
芸の神にもいろいろあるが、一体どの神様なのか。しかも小さき神とある。祇園だから八坂神社の摂社・末社のどこかかも知れない。その界隈の夕暮れの雰囲気が、頭の中に浮かぶ。その雰囲気も勿論この句の中で捨てがたい味わいとなっているが、それよりもこの句の手柄は、小さき、だろう。小さかろうとなんだろうと、人々は祈る。たぶん芸能上達の神様だろうが、その道を究めたいという真摯な思いがそこにはある。そのような、祈りという市井の人の日常的な思いが、小さき、とうまく響き合う。
ひと雨に秋めく庭を掃く母よ 藺草慶子
愛情のこもった句は好きだ。この句も、いささか平凡とも見える情景を切り取った句だが、それでも肉親に対する愛情が、じわじわと伝わってくる。そしてその肉親に対する愛情を軸にして、そこから世界へと張り巡らすように、愛情の温度が広がっていく。さっと来た雨。そこに兆す季節の気配。そういった天地の機微に対する愛情。そして、自分の家やその庭に対する愛情。自分たちの生活に対する愛情。愛情は幾重にもなりながら、世界をゆっくりと包んでいく。俳句という形式ならではのやさしい世界観が、そこにはある。
第224号2011年8月7日
2011-09-04
〔週俳8月の俳句を読む〕小野裕三
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