2011-11-13

奇人怪人俳人(6) ヘンテコ博士・田川飛旅子 今井 聖

奇人怪人俳人(六)
ヘンテコ博士・田川飛旅子(ひりょし)

今井 聖







「街 no.84 」(2010.8)より転載


昭和46年(1971年)、二年間の浪人中に滞在した京都に別れを告げて上京した僕は、誰に誘われるということもなく、自分の意思で加藤楸邨の自宅に押しかけ「寒雷」誌を一冊もらい、それを見て寒雷の東京句会に参加し一般投句欄に投句し始めた。

句会に出てすぐ、僕に声をかけてくださったのが時の編集長平井照敏(しょうびん)さん。照敏さんのおかげで僕は二次会などの仲間にすんなりと入れてもらえたのだった。句会後の二次会での当時の話題はもっぱら前年に創刊された「杉」の噂であった。

僕と同じ、やはり大学生の投句者だった国学院の大塚青爾が言った。

「俺にはまだ杉から同人として参加してくれと言ってこない。言ってくれば参加するつもりなんだけどな。あんたはどうするんだ」

青爾はすでに寒雷集の巻頭を獲っている。自分を遇するには同人参加してくれと誘ってきて当然と思っていたらしい。参加するにしても会員としてか同人参加かは大きな問題であったのだ。

「寒雷」からはそれまでにも多くの有力同人が雑誌を立ち上げて独立していた。

楸邨という人は弟子の独立というようなことにもまったく無頓着。誰が何をしようと自由な結社であったのだが、こんどはいままでとは事情が違う。

森さんは13年もの長きにわたって「寒雷」の編集長を務め、その影響下に集まった川崎展宏、中拓夫、櫻井博道、矢島渚男、池田義弘など「寒雷」の中で油の乗った中堅は根こそぎ、他の会員を合わせるとかなりの数が「杉」創刊に参加していた。

さすがに楸邨一筋の「寒雷」の古参同人はおもしろくない。当時幹事長だった久保田田月鈴子(げつれいし)さんが、「寒雷」誌上に「松だか杉だか知らないが」いうくだりを書いて、一斉に「杉」になびく風潮を揶揄する騒ぎとなった。

ついに楸邨が東京句会でそのことに触れた。

「みんな森君を応援して欲しい。ただ、これまで通り「寒雷」一誌でやろうとする人はもちろんその気持も貫いて欲しい」この発言のあとの方のくだりは月鈴子さんの要望を聞き入れての発言ではなかったかと思っている。

楸邨選に入るのは難しい。たまに成績がよくても次の月には一句しか採られないなんていうのはいつものこと。

普通、主宰誌なら定期的に行われる同人推挙という慣例が寒雷にはない。楸邨が判断するまで三年でも五年でも平気で同人をひとりも出さないから、一般投句欄「寒雷集」には投句三十年、四十年というつわものが山ほどいた。

東京句会では百人近く出席して一人二句づつの出句だから全部で二百句。そのうちの楸邨選は五句のみである。

そんなわけで楸邨選への投句も句会への出句も途方もないシジフォスの岩に思えてくる。「寒雷」以外に、訓練というか、稽古の場を持ちたいと思う方向に会員の気持が向かうのは当然の帰結であった。

大塚青爾は僕も誘うつもりだったらしいが、僕は「杉」には興味がなかった。というより森さんの持っている抒情には魅力を感じなかったと言ったほうがいい。

僕が「寒雷」に来たのは、一番敬愛している山口誓子からの出口を探すためであった。

誓子が好きならば「天狼」に投句すればいいのにそうしなかったのは、誓子選の方向に魅力を感じなかったからだ。最大に評価している俳人の「選」を評価しないという言い方を奇異に思われる向きもあるかもしれない。

誓子の選句の幅は誓子の持っている魅力の一部でしかなかった。誓子の魅力は理詰めの構成とウィットだけではない。あふれるような抒情と突き放すような非情緒の冷徹さという両極端を併せ持つこと。また、作品が作者だけに向いているモノローグ性。

季語使用や方法としての「写生」などのそれまでの俳句の要件を選択的にピックアップしてこなしながら、古いいわゆる俳句的情緒に凭れず、詩のモダニズムにも媚を売らない。誓子作品は多彩な魅力に満ちている。それなのにこれらの魅力が誓子選の幅の中では、構成とウィットだけが強調されて定規を当てるように投句作品を規定する。

それが嫌だった。

たとえば、

 悲しさの極みに誰か枯木折る

という青春性と感傷に満ちた誓子自身の句を仮に誓子選の「遠星集」に投句したら誓子本人は果たして採るだろうかという疑念すら湧いてくる。そのくらい天狼発刊以前と以後の誓子は違ってきていた。こういう傾向は誓子の幅の中の大きな魅力のひとつなのに。

僕は『激浪』『遠星』に誓子の卓越した詩性の原型を認め、そこからの出発を期して楸邨門を叩いたのだった。構成とウイットだけのエピゴーネンにはなりたくなかった。

僕は「寒雷」で楸邨選のいわば前哨戦としてそういう自分の志向に合う格好の存在を見つけた。

それが田川飛旅子(ひりょし)という存在であった。

飛旅子さんはこの時点ですでに『花文字』『外套』『植樹祭』の三冊の句集を刊行していた。その中から

 夜の雪に駅の時計の機械透け
 玉葱の皮が落葉に交り飛ぶ
 冬のガラスにビラを剝ぎたる四隅残る
 炭俵の底に大分県の落葉

                 (以上『花文字』)
 眼のまわりに虻つけて牛こちら向く
 納涼映画に頭うつして席を立つ
 霜を掃くや犬がスカートに首つつこむ
 冬の朝日看護婦は帽に髪押し込む
 冬の管楽器の輪の中に首入れて吹く
 草刈より帰る二人目が池に映り
 礼拝の最中の暖炉つぎ足さる

                 (以上『外套』)
 踊の輪縮んだところにて手を打つ
 唐手学生青田に出ても蹴る稽古
 雉子の尾が引きし直線土にあり
 柏餅口へ集まる老の皺

                (以上『植樹祭』)

飛旅子さんの句のこれらの即物傾向はどうだ。これが、「鰯雲人に告ぐべきことならず」の楸邨の弟子かと驚くくらい感情を出さない即物写生派、そして非俳句的情緒。

飛旅子作品の傾向を誓子と比べてみると、類似点も多く見られる。

 干梅の上を念仏流れけり      飛旅子
 干梅の上来る酸の風絶えず     誓子


 冬の航紙投げられて月へ飛ぶ    飛旅子
 冬の航木箱を海に棄てて去る    誓子


 青む田に来て女教師にぶら下がる  飛旅子
 遠足の女教師の手に触れたがる   誓子


 牡蠣食うやテレビの像に線走る   飛旅子
 海べりの寒さテレビの白画面    誓子


素材や情緒を限定せず、今の感興を詠むという点で飛旅子俳句と誓子俳句には共通の詩情が感じられた。

「寒雷」に所属する俳人の作品傾向の多彩さは当初はとまどいの連続であった。

例えば、一例として昭和47年の「寒雷」の350号記念の9月の同人欄をみると、

 物すべて貌に見ゆる日夏に入る   田川飛旅子
 寒鯉を見て雲水の去りゆけり    森澄雄
 便器一つ海辺に転ぶ夜の花嫁    金子兜太
 暗黒に五月まひるま鮫干場     和知喜八
 半島内海泊つ人覚めて咲くとべら  古澤太穂
 椅子工場に椅子らの会話桜咲く   寺田京子


これらの傾向の俳句が果たして一誌に拠っている根拠はなんなのかがわかるまでに、長い時間がかかる。とうてい共通点を見出すことの不可能のような作家群を統べることのできる共通理念とはなんなのか。これらの傾向のすべての形成に関わってきて、今もその中心にいる楸邨とはいったいどういう存在なのか。

そのことについての僕なりの現在の結論は出ているがここはそのことのついての論述の場ではないので別の機会にしたい。小著『ライク・ア・ローリングストーン 俳句少年漂流記』ではそのことについて触れてある。

入門当初はそんなことより自分の訓練の場を見出すことに精一杯。何とか楸邨選の厳しさに一矢報いることが気持の中心にあって、これらの俳人のいずれかにそのきっかけを求めようとしたのであった。

次の表は寒雷に拠った主要俳人の傾向を僕なりに分類整理したものである。歴史的仮名遣い使用か現代仮名遣いか、無季容認か否か、などまで要件に入れるとこれ以上にもっと複雑な図になると思うが。



昭和46年飛旅子主宰の「陸(りく)」が誕生し、僕はこちらの方を楸邨選前哨戦の場として選択することにした。

田川飛旅子。本名は田川博。俳号は田川さんが自分でつけている。本名をもじってつけたが、読み方は「ひりょし」。

人が飛旅子をひろしと読むと「ひろしではありません。ひりょしです」ときっぱり言われた。

大正3年東京生まれ。父親は東京工業大学の前身東京高等工業学校出身の技術者で帝国堅紙という会社の工場長を勤めている。

府立六中を経て一高、東大工学部に進む。学科も父親と同じ応用化学を選んだ。小学校から学業優秀で全科目が甲であった。父母の勧めで13歳から油絵を後の芸術院会員の耳野卯三郎画伯に習っている。また、一高時代は剣道部(当時は撃剣部といった)に所属。同じ頃にキリスト教の洗礼を受けている。21歳で短歌も始め、土屋文明主宰の「アララギ」に入会した。

こういうふうに年譜を見ていくと、まぎれもなく、頭も育ちもいいお金持ちエリート家庭の坊ちゃんの典型のような人生である。

人もうらやむような順風満帆はまだまだ続く。

東大工学部応用化学科を卒業すると古河電気に入社。電池製作所に配属。この時点で俳句を始める。すぐに応召。海軍短期現役士官となり、同年に海軍中尉として任官。この年、「寒雷」が発刊。その創刊号の巻頭となった。「創刊号巻頭」は自他共に認める田川さん生涯の勲章となった。その巻頭句三句

 胸の湿布替へゐるひまも聴く野分
 蚊帳透きて昧爽の書架見えはじむ
 かなかなに窓の朝焼須臾の間ぞ


余談だが、このときの次巻頭が永田軍二(耕衣)。

「何かのパーティなどで耕衣さんと会うとこのときのことを僕が言うんですが、なぜか耕衣さんは迷惑そうでねえ」と田川さん。田川さんはいつでもどこでも創刊号巻頭の自慢話をした。ほんとうにうれしかったのだろう。

翌年、太平洋戦争勃発の年、海軍少将(後に中将)橋本信太郎の娘信子と見合い結婚。海軍でもエリートであった。

昭和20年、義父は第五戦隊司令官として巡洋艦羽黒に搭乗。ペナン沖で戦死。

 (前書 二十六回終戦記念日)
 父と艦沈めしペナン沖灼けてゐむ    飛旅子

軍艦の模型を作るのが小学校の頃の趣味だった僕は、この重巡洋艦羽黒に憧れ、小遣いを貯めてプラモデルを買って組み立てた。模型は埃をかぶったままいつまでも鳥取の僕の部屋の本箱の隅にあった。

 重巡羽黒の模型の部屋に帰省せり   聖

 こんな句も作ったくらいで、この羽黒と運命を共にした橋本中将の名もまた戦記好きの少年として知っていたのである。

田川さんは海軍軍人で終戦時は造兵大尉。軍艦や兵器の製造や購入に携わる部署であり、軍艦に搭乗せずにすんだらしい。洋上に赴いていたら果たして俳人飛旅子は在ったかどうか。もっとも戦争末期は乗りたくても乗る艦すらなかった状況ではあったが。

田川さんは戦後、本職では工学博士の学位をとり、会社の専務取締役となり、俳句の方では現代俳句協会副会長を長く務める。「寒雷」では楸邨の信頼がもっとも厚い人物であったと言ってもいい。

謹厳実直を絵に描いたような人柄。社会的にも俳句の世界でも功成り遂げたといっても遜色のない人生。

どこからとってもこのコーナーに登場する資格はないように思えるかもしれない、

ところがこれまでの文章からはうかがい知れないようなヘンテコが時折顔を出す。かつて陸誌の編集のお手伝いもした経験のある僕から見た飛旅子さんのヘンテコ度ベスト10をご紹介する。

ヘンテコ度第10位。

田川さんは自分の略歴を記すとき、句集や編著、今でも楸邨研究の嚆矢とされる著書『人と作品・加藤楸邨』などとならべて『電池及び蓄電池』を自著として加える。そりゃあ自著には違いないでしょうが。

ヘンテコ度第9位。

田川さんは誰に対しても敬意を示す。三十六も年の差がある僕にも今井さんとさん付けで呼ぶ。

なのに、喫茶店などでにこにこと話をしていてウエイトレスを呼ぶときに、いきなり「おい!」と言う。ニコニコのまま「おい!」である。

どうもこれは海軍時代からの影響のようだ。

田川さんは寒雷創刊の頃、兜太らと楸邨家を訪ね、お酒が出ての談論風発の折、何かの話題に感激して泣いたらしい。それ以来楸邨に田川くんは泣き上戸だといわれてきた。

のちのエッセイでその話を披露したあと、今は日の丸を見ると必ず涙腺がゆるむと書いている。

これも戦争体験に起因しているのだろう。

ヘンテコ度第8位

田川さんの俳句論を述べた文章は分析をきちんとして組み立てる構造になっているので論理的だがときにそれが行き過ぎる。四十歳の頃に俳論にこんなのがある。
 
(前略)簡単な数式を用ひて以上の結論をしめすと、fa’ fb’ fc’ fd’をそれぞれ音楽性、造型性、内容、及び全体性に対し評者の置く重点を示す因子(factor)とするとき、

 fa+fb+fc+fc+fd=1

になるやうにfa’ fb’ fc’ fd’を定める。

次に音楽性、造型性、内容、全体性の各要素に就ての分類評価の採点を各々一〇〇点満点として、評者がそれぞれにA’ B’ C’ D’の採点を与へたとすると、俳句の価値評価Vは、


   V = faA + fbB + fcC + fdD

を計算することによって与へられる。

これでは読者が文章にいくら食いついていこうとしても限度があろうというものである。

ヘンテコ度第7位。

酒癖。

田川さんの酒癖は僕が目撃した寒雷のさきほどの表の中の誰彼の中でもっとも良い方の部類に入る。あの中には最悪の人がいたけど。

田川さんは極めて明るいお酒。田川さんは酔うと踊り出す。身長は175センチくらいか、体重はゆうに百キロは超えようという巨漢。その巨漢が扇子を拡げて頭に巻いた鉢巻に差し身振り手振りを加えながら「モーモタロさん、モモタロさん」と歌いながら宴席を踊って進み、ついには宴席の柱にしがみついて「ミーン、ミーン」と鳴きだす。どうやらこれも海軍仕込みの座興である。

酔っての座興は珍しくはないが、これが、会の初めの挨拶で

私は俳句は自分の挫折を嘆いて止まない荒ぶる心を鎮めるための鎮魂碑のようなものであると考えています。私は俳句を作って人を感心させようと思ったことは決してありません。私の句は句会などに出しても、高点をとったことはありません。ただ、私は私の作品に願わくばその作品によって私自身の魂が鎮められる鎮魂歌になって欲しいと願うのであります

こんな言葉に皆が大いに啓発されたあとの「ミーン、ミーン」である。初めて目にした人は唖然とし、すぐに田川さんの中に庶民性を見つけてうれしくなるのである。

ヘンテコ度第6位。

田川さんは昭和60年代だったか、「陸」誌上でいきなり「人間探求派宣言」というのをやった。やらかしたといった方がいい。

楸邨の弟子の中で、「人間探求派」を継承すると宣言したものはいない。私がそれを継承すると言いだしたのだ。

先生、待ってください。「人間探求派」というのは山本健吉がいわば勝手に名づけた名称で、楸邨自身、自分が人間探求派だと言ったことはないのですから。

近くにいる人間としてそういいたかったが、本人があまりにも力を入れて言うので反対もできない。

楸邨がそんな呼称を認めていない(もちろん拒否もしていないが)ものを田川さんが継承すると宣言するのはおかしい。まして、健吉さんが名づけたのは楸邨のヒューマニズムや観念傾向に即してのこと。党派的ヒューマニズムの古沢太穂さんや職場俳句を標榜する和知喜八さんが言い出すのならともかく、硬質、即物、非情緒の田川さんがいうのはまったく筋違いというか支離滅裂そのもの。

寒雷の師弟関係というのは独特なものがあって、金子兜太、森澄雄、安東次男などは楸邨の弟子には違いないが、師から学びながら逆に師を叱咤するような関係を常に続けてきた。安東次男などは、寒雷誌上で楸邨作品を添削する始末。それを許す楸邨も楸邨。とても従来的な師弟関係では測れない集団の論理(倫理)があった。

その点、田川さんは、創刊以来の重鎮の中にあって唯一といっていいくらい紳士的な弟子であった。師の作風には似ても似つかないという点では彼らと同じだが、師に対する一途な思慕というものを常に抱いていた。

それだからこその「人間探求派宣言」だったのだと僕は思っている。それはわかるけど今考えてもやっぱりヘンテコ。

ヘンテコ度第5位。

ヘンテコ度第5位から第1位までは俳句を取り上げたい。まず第5位は、

  犬交(さか)る街に向けたり眼の模型

昭和40年に刊行された「前衛俳句」を解読する画期的な金子兜太の著書『今日の俳句』に収められている。

  暗闇の眼玉濡らさず泳ぐなり   鈴木六林男
  怒らぬから青野でしめる友の首  島津亮
  騎馬の青年帯電して夕空を負う  林田紀音夫


など同著所載の他の「前衛俳句」と比べるとその違いがはっきりする。後者は心象風景である。そういう分類が不適切なら、戦後の現実(鬱屈)を自己の内に内面化してみせた作品とでも言おうか。これは実は戦後の現代詩派「荒地派」の態度、傾向であったのだが、それを俳句形式に取り込んで見せたのがこれら俳句の「前衛」であったといえる。

飛旅子作品も最初は同趣の句に読める。犬が交る街は時代の象徴、眼の模型は人間の視線の象徴というふうに。

ところが、自解を読むと愕然とする。

街角を歩いているとき、眼鏡屋の店先に置かれていた眼球の模型の前に立った作者は、折りしも交尾していた犬の方へその模型の「視線」を向けたのであった。当時は街中(まちなか)で犬が交尾している風景は珍しくなかった。

この句、戦後日本と敗戦国の鬱を抱え込んだ個を象徴した作品ではなくてタダの写生句だったのである。

実はここが俳句の方法の要諦である。最初から象徴性を意図して書かれた俳句を、「言葉を用いて書く俳句」と称するとすると、「写す俳句」より、「書く俳句」の方がポエジーが獲られるかのように錯覚しがちであるが、それは違う。

同時代の現代詩が持つ象徴性を俳句形式にそのまま持ち込めば同様の感興が得られるという思い込みこそ短絡的と言うべきである。

素材を限定せず眼をあらゆる範囲にひろげた「写す俳句」こそが俳句形式の固有の可能性を広げることになるということをこういう句が実証しているのである。

タダの写生句こそが、鬱然たる内部意識やシュールレアリスムを超えることができる。そのことの実証がここにある。

ヘンテコ度第4位。

 次は三鷹職安日本白蟻研究所前です

この句には参ったなあ。バスのアナウンスをそのまま句にしたものだが、このバス停は実際にあるらしい。

僕はこの句を
 
 次は三鷹職安白蟻研究所前です

と、日本をとばして覚えていた。その方が韻が合うのである。だから、日本を入れたのはそれが真実であるからで、このバス停が実際にあることは疑いの余地がない。フィクションなら日本を入れられない。

こういう句に必要なのは、じっと現実にアンテナを張り、事実を凝視する眼を持つことである。つまり、それは子規が切り拓いたことであって「写生」の本質である。諷詠とは違う、「現実」「事実」そのもの。

ヘンテコ度第3位。

 寒夜の尿感謝感謝と走り出づ

前立腺手術後の句。尿が出るうれしさが手放しの表現になっている。感謝を二度繰り返す。そのシャが尿の出る擬音シャーに通じる。こう書くとこれを俳諧の笑いと誤解する人がいる。そうではない。病を克服できた歓喜以上の何ものでもない。音の象徴性や笑いはあとからついてくる。

ヘンテコ度第2位。

 非常口に緑の男いつも逃げ

正真正銘のヘンテコ。最初見たとき?と思ったが、よく考えると、非常口を示すマークの中に緑色の走る姿勢をした人間の形が書いてある。そのさまを「写生」したのである。

この句には意図的にか結果的にか不明だが、ひとつの実験がある。季語の問題である。現在の俳壇には有季派と無季派があるが、それぞれがまたさまざまに分類される。

有季派の中には、季語があり季感がなければならないという人と、季語がなくても季感があればいいという人、季感がなくても季語があればいいという人がいる。
無季派の方は、季語も季感もなくてもいいという人、季語はなくても季感があって欲しいという人がいる。

季語がなくても季感があって欲しい人は厳密には無季派であると同時に、季感がなければならないという立場では有季派でもある。

田川さんのこの句、「緑」は夏の季語だが、この句に季感はまったくない。そういう意味では、右記のパターンの中では、季語があっても季感のないという一番珍しい例になる。

つまり、この句は結果的に季語派への皮肉となっているのである。あくまでも結果的に。それもまた凝視がもたらしたことである。

ヘンテコ度第一位。

 遠足の列大丸の中とおる

明るくて、都市の今の現実があって優しい眼差しがある。しかも平明で驚きもある。従来の情緒から入って俳句を考える人には永久に出来ない句だ。

西東三鬼は

 夏の河赤き鉄鎖のはし浸る   誓子

を至上の句と言ったが、この句の横に

 遠足の列大丸の中とおる

を置いてみると両者の共通性と違いがわかる。

旧情緒の否定と季語の本意を見直すという点では共通。誓子の都市には末世感が漂い、飛旅子の都市には未来への希望がある。どちらも魅力的な文学だ。

ヘンテコ度番外篇。

田川さんが軍歌を歌うのは聞いたことがないが、いつだったか鶴田浩二の歌う軍歌「同期の桜」「♪貴様と俺とは同期の桜」が流れてきたとき真顔で呟いた。

「軍歌は、あんな感傷的に歌うものではありません。もっと元気よく怒鳴るように歌うものです」

また別の機会に、

「僕が死んだら教会に来て賛美歌で送ってください。ただし、沈鬱に歌わず元気よく歌うこと。賛美歌は感傷的に歌うものではありません」

と真面目な顔で言われた。

平成11年4月25日、田川さんが亡くなられた。

氏が長く長老の役割を努めておられた日本メソジスト東中野教会で葬儀がとりおこなわれた。

参列した僕は賛美歌(405番)「神ともにいまして」を声を張り上げて歌った。

神ともにいまして 行く道を守り
天の御糧もて 力を与えませ
また会う日まで また会う日まで
神の守り 汝が身を離れざれ

荒れ野を行くときも 嵐吹くときも
行く手を示して 絶えず導きませ
また会う日まで また会う日まで
神の守り 汝が身を離れざれ

大好きだった田川さん、また会う日まで。
                        (了)

(飛旅子作品は歴史的仮名づかいと現代仮名使いの両者がある。文中では初出のときのものをそのまま用いた)

田川飛旅子四十句撰(文中に記した作品を省く)

梨剥くと皮垂れ届く妻の肘
裸の子抱いているうち昏くなる
夜番の柝ひとの年譜の三十路の頃
本を買い苺の箱と重ねもつ
貨車の扉を開くる手力飛び飛ぶ雪
昼の電球指紋と冬の窓うつる
追いつめられて今年の落葉記憶なし
煉炭の匂う改札口とおる
秋の夜の書架に鋸横たえおく
子の臀を掌に受け沈む冬至の湯
泉に垂らし足裏を暗く映らしむ
寝入り子の眼球うごく冬の汽笛
楽団の大きな荷物春の駅
木枯や小鳥の足を皿に残す
舞初めの扇が当る電燈に
冬の轍の中の一つがひき返す
押し入れより子が飛び下りて梅雨ふかむ
蜥蜴の交尾雄ずるずるとひきずられ
冬の運河に光渡してバス廻る
納涼映画に頭うつして席を立つ
霜を掃くや犬がスカートに首つつこむ
田川博氏の蓄尿瓶へ寒く尿る
工場の便所に裸の肩見えカマス匂う
硝子負い寒波の天を映しゆく
暖房車に柏戸のいる茶畑添い
桐咲くやあつと云う間の晩年なり
唐手学生青田に出ても蹴る稽古
黄落期みんなが合った時計持ち
祝辞みな未来のことや植樹祭
柏餅口へ集まる老の皺
落椿昨日は沖のごとくあり
生きがいという語干潟に居て思う
社会鍋の喇叭の唾を道へ振る
校庭の桜へバスの尻入るる
悪しき日のために黒穂をつみて挿す
上下のゴンドラ影がぶつかる蜜柑山
我が名に潜む十字架三つ落葉せはし
岸に黒く待てり流燈を突く係
人形を射つ流燈の町の辻
(前書・その息いでゆけば、かれ土にかへる。その日かれがもろもろの企ては亡びん。(詩編一四六))
雁仰ぐ身体の中に水の音




「街」俳句の会 (主宰・今井聖)サイト ≫見る

1 コメント:

匿名 さんのコメント...

読みました。