2012-08-05

こもろ日盛俳句祭・シンポジウムレポート 「いまどきの二十四節気」は企画中止へ? ……上田信治

こもろ日盛俳句祭・シンポジウムレポート「いまどきの二十四節気」は企画中止へ?
……上田信治



さる7月28日、今年4回目となった俳句イベント「こもろ・日盛俳句祭」において、シンポジウム「私にとって季語とはパート2」が行われました。

シンポジウムのパネリストは、下記の方々。

金丸努(日本気象協会)
筑紫磐井
片山由美子
櫂未知子
司会 本井英

このシンポジウム、日本気象協会から提案された「いまどきの二十四節気」についての討論になるということが、予告されていました。

http://weekly-haiku.blogspot.jp/2012/07/24_15.html

「寒いのに立春?」の疑問を解消!  “日本版”二十四節気をつくる取り組み
http://www.excite.co.jp/News/bit/E1327640881758.html




冒頭、金丸努さんから日本気象協会の成り立ち、理念、活動などについて紹介がありました(協会は、気象に関するコンサルティングを主幹事業とする企業(一般財団法人)なんですね)

そして理念の中心に「防災」ということがあり、一般の気象についての関心、意識を高めることも、活動の大きな目的である、と。そのための「いまどきの二十四節気」の提案だったのだそうです。

ところで、ここで、金丸さんから、衝撃の発言が。

"日本版"二十四節気については、協会として、認識不足、勉強不足があり、新しい二十四節気の提案については実施しないことになりそうだ、というのです。

ただ、二十四節気の言葉が、一般に浸透していないことは確かなので、よりやさしい日本語で言い添える、あるいは言い足すということを、考えているそうです。

え、それだと、このシンポジウムの意味は!?

(「俳句」8月号の座談会は、すでにそのことを前提に話されていたのですね。知りませんでした。≫「詩客」俳句時評 第60回 山田耕司



気を取り直して、筑紫磐井さんの発言から。

筑紫さんは、現代俳句協会の歳時記編纂事業に関わったのだそうです。

春は3月からでいいんじゃないか、という金子兜太さんの発案もあって(「現俳協歳時記」は「金子兜太編歳時記」でもあります)、基本的な方針を決定するまでに、大変な議論を経る必要がありました。

結果、春は、一般人の実感に即して、三月から(夏は六月から、秋は九月から、冬は十二月から、それぞれ3か月づつ)。

立春が二月なので冬季になってしまう問題は、「さきがけ季語」という用語のもと、冬季の二月ではあるけれど春の言葉でもある、というWスタンダードをもって、解決したそうです。

そのような苦労があったため、気象協会さんの気持ちは、たいへんよく分かる。しかし、新しい言葉を作って、古い言葉を消してしまうというのは、言葉狩りの発想であって、好ましくないのではないか。

磐井さんは、以上のような感想を述べられました。



続いての発言は片山由美子さん。

言葉を先に作っても、それがどれだけの人に支持されるかが問題である。二十四節気は、一般の人に理解されていないというが、沖縄には「すーまんぼーすー」という言葉があって、どういう意味かというと、本土でいう梅雨のこと。二十四節気の「小満芒種」から来ている言葉で、まさに5月20日ごろから6月6日くらいまでの小満と芒種の時期が、沖縄の梅雨なのだそうです。

二十四節気は一般的ではないと決めつけるよりも、こうして言葉として生きている実態の方に注目すべきではないか、というようなことを言われました。



櫂未知子さんは、自分は北海道生まれで、歳時記の記述と、自分が育った環境、とりわけ花の咲く順番などがかけはなれていることに驚いた経験を語り、歳時記の言葉が、季節の実態・実感とすべて一致するわけはない、実感と一致させようとすることには無理がある、と指摘しました。

さらに、気象協会が公募というかたちで、新しい言葉を作りだそうとしていたことを「パンダの名前でもあるまいし」と厳しく批判しました。



会場からは、まず、岸本尚毅さん。

二十四節気の言葉を使った名句は数多いが、それが何月何日であるかというようなことは、あまり重要ではない。俳人は寒ければ、大寒と書き、虫を見ると啓蟄と書いてしまうような、わりといいかげんな人種なので、節季の日にちが変わっても、あまり書くものには変わりがないだろう。俳人の言うことなどは、あまり気になさらなくてよいのではないかと思います、と笑顔で語られました。

また、島田牙城さんは、持参のプリントを配布しながら、暑さの盛りで立秋になり、寒さの盛りで立春になるのは、農耕民族的な季節感なのだと述べられました。

小林貴子さんは、地貌季語の考え方について、説明されました。(懇親会のあいさつでは「現俳協編の歳時記は、一目見て怒りのあまり焚書坑儒という言葉が頭に浮かびましたが、さいわい、譲って欲しいという方が現れたので、無事売りつけることができました」と語られました。)



今回のことで思ったのは、言葉というのは、基本的に借り物であるということです。

赤ん坊が、自分に向けられた言葉をかき集めることによって、自分の外側にある母語の世界を、自分の内側に構築していくプロセスは、奇跡的なものですが、言葉というのは、実はいつまでもそういうもので、本質的に自分に先行して外側にある。

だから、今回、気象協会が、あたらしい二十四節気を自分たちの手で「作れる」と思ってしまったことは、まあ、やはり勘違いと言っていいくらいのことであったような気がします。

もっとも、そのことに対する俳人のかなり激しい反発にも、自分たちがもっぱらに使っていた言葉についての「私有」意識のようなものを感じてしまって、それはそれで、おかしなことであるような気もしました。

立春という言葉が、もし将来、変質したり消失したりということがあったとしても、それは言葉の運命であって、じつは文句が言える筋合いではないのではないか。

(そういう意味では、今回のシンポでは、岸本さんがもっとも、「私有」意識から遠いところから、発言されていたように感じます)



気象協会の金丸さんが語られるには、協会にとってもっとも重要な社会的使命は、気象情報を通じての「防災」にあり、その意味で、昨年の大震災において、津波警報が多くの被災者にとどかなかったことに対して、たいへんな無念の思いがあるそうです。

今回の「二十四節気」についても、どうやって、より広く、気象を含む自然に対する関心を惹起できるかという問題意識が根底にあった。そのことについては理解していただきたいし、今後ともご協力をお願いしたい、と。

ここに至って、会場の参加者はみんな、かなり金丸さんの立場や気持ちに共感してしまって(気象協会に対する感情も、すっかり解消してしまい)、いや、人と会って話してみるのは意味があるなあと、つくづく思ったことでした。

1 コメント:

野口裕 さんのコメント...

>自分たちがもっぱらに使っていた言葉についての「私有」意識のようなもの…

 小説などを映画化するときに、配役された役者のイメージが、元の小説の登場人物のイメージと合わない、とする意見はよく聞きます。根は同じものなのかなあ、と思いながら読ませてもらいました。
 この手の議論は、どうも苦手なところがあるのですが、その理由の一端もこの辺にあるのかと、納得しました。