俳句に似たもの 1
ラジオ
生駒大祐
「天為」2012年5月号より転載
突然であるが、僕はいま「Haiku Drive」という俳句のラジオ番組をやっている。ラジオ番組と言っても俳句にまつわるあれこれを自分で撮影して自らインターネット上で配信しているだけで、視聴者数は毎回10人程度である。
ラジオを始めた理由はいくつかあるが、直接のきっかけになったのはあるとき西東三鬼の肉声を聞かせていただく機会があったことだ。その中で三鬼は句の解題やその良さについて語っていた。
それを聞いたときに、三鬼があるとき確かに生きていて、何か面白いことを確かに考えていたのだということを、直観的に悟った。そして、三鬼の死と共にその情報の大半が失われてしまったことを非常に惜しく思った。
僕の周りには俳句について面白いことを考えている人間が沢山存在する。
そして、面白いことというのは、その人の書くたとえば評論だけでは掬いきれないものが大半を占めていると常々感じていた。評論には論理性が要求されるが故に、非論理的な思考や散漫な思いというものは表現することができない。しかし、人の面白いところである個性や人間性というものは、本当はその矛盾した思考やとりとめのない思索の中に存在するのではないかと思うのだ。
それらを丸ごと掬い上げる方法として僕が選んだのが、ラジオ番組という形式だった。僕が注目している俳人を招いて、テーマを決めてトークを行い、それらをできるだけナマなかたちで配信、記録する。僕が面白いと思う俳人たちが歴史の中で何人残っていくかどうかはわからない。しかし、その誰かが大俳人となったとき、この記録は実はものすごい価値を孕むのではないか。僕はそう夢想している。
ラジオをやってみて判ったのは、僕の求める「洗練されていないとりとめのなさ」を記録するのには、実は番組構成における洗練された技術が必要になるということだった。
番組は構成が散漫すぎてもかっちりしすぎていてもパーソナリティの面白さが伝わらない。番組が個性を容れる器であるとすると、その器をできるだけ薄くして、中身が透けるまでにするのが理想である。それには構成を構成と思わせないような、ラジオ収録という不自然な環境を自然なトークに見せかけるような、そんな洗練が必要であった。
俳句とは、作者の個性を容れる器である。俳句を一番面白く見せるには、表現したいと思う、ある種の非論理的な感情の動きを表現するその技術において、それを技術だと見せないような擬似的な自然さが必要となる。
紺絣春月重く出でしかな 飯田龍太
良い俳句というものは、一見なんということもない表現なような顔をしていながら、改作しようとすると毅然とそれを拒んでくるようなところがある。それこそが洗練であり、僕が俳句とラジオにおいてずっと目指していく山の頂上にあたるのだと思う。
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