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2014-08-10

俳句に似たもの12 単純 生駒大祐

俳句に似たもの 12
単純

生駒大祐

「天為」2013年4月号より転載


子供の時に読んだ漫画において、トラウマのように覚えているシーンがいくつかある。例えば、名前すら憶えていない野球の四コマ漫画のワンシーン。巨人の長嶋監督(と思われる)が満面の笑みで胴上げされていて、実況のセリフ「巨人135勝0敗で優勝!!」というものである。

なぜ、このコマが怖かった(そう、怖かったのだ)のかを今になって考えてみると、やはり135勝0敗という狂気じみた現象と、それに加えて監督が笑顔であったことが僕にとって大きいと感じる。

すなわち、絶対的かつ過剰な慶事があり、それを人間が否応なしに受け入れさせられ、喜びしか感じられない、ということ。個人の感情がコントロールされる、それも外部からというよりも(社会的に外部から感情が制御されるのは子供でも経験的に諦めがつく)自身の目指したまさにその目標の完璧な実現によって。そういうことが怖かったのだ。
人生において目標が完全に達成されることは、ない。どんな成功にも探せば何らかの瑕疵はあるし、反省点のない成功に価値はない。結果に対する人間の通常の感情は喜怒哀楽が配合量を変えて複雑に混ざり合ったものだ。単純なものが複雑なものに比べて存在が難しいことは、物理学的にも正しい。そう考えると、純度の高い宝石を人間が美しく感じることは自然の不思議ではなくごくごく当然のことだと思えてくる。
俳句において、一般的に好まれる題材は「単純」な情景である。

鶏頭の短く切りて置かれある  岸本尚毅

この句に登場する体言は「鶏頭」のみで、あとは用言だ。「鶏頭という単純な一物にその在り方の描写を複雑に加えているところに一句の面白さがある」、とも言うことは可能だろう。

しかし、本質はそうではないと僕は思う。この句はむしろ、「鶏頭という複雑な一物にその在り方の描写を単純に設定しているところに一句の面白さがある」というような句であると思う。鶏頭、とただ言われた場合人間が抱くイメージはひどく複雑である。それを短く切られているという状況を付け加えることでイメージの焦点を絞り、単純化を試みている。この句はそういう句だと思う。

雪舞ふや鶯餅が口の中  尚毅

そのアナロジーで言えば、この句の方が前者よりもよほど単純である。なぜなら、一句の登場人物が多いために、読者の抱く印象の標準偏差が小さいためだ。一句の情報量が増えれば増えるほど句の世界はミニマムになり、読者の抱くイメージは単純になる。

俳句における単純を極めるとおそらく狂気を孕んだものになるだろう。なぜなら狂気とはある方向に突き抜けた現象で、一方向に対して極めて単純な性質を持っているものだからだ。そしてその狂気をおそらく恐ろしく感じてしまうのも、ごくごく自然なことなのだろう。

2014-07-13

俳句に似たもの11 俳句 生駒大祐

俳句に似たもの 11
俳句

生駒大祐

「天為」2013年3月号より転載



友人に「ピーナッツと落花生が同じものだとは到底思えない」という人がいた。その人いわく、ピーナッツは「つぶつぶ、ぴかぴかした、ちょっと洋風を気取ったナッツ」で、落花生は「どろくさい和風の豆類」らしい。同じものだと分かっていても、脳内のイメージがどうしても一致しないのだ。

別の友達で、数字や文字に色のイメージが付随しているという人もいた。「あ」なら赤、「3」はオレンジという風に。言葉というものには必ず意味が付きまとうが、それらの人たちにとって、言葉には意味情報だけでなく、なんらかの抽象的なイメージもおまけで付いてくるようだ。

数学に「一対一対応」という言葉がある。辞書によれば「数学で、集合Mから集合Nへの写像fによって、集合Mの異なる要素に対して集合Nの異なる要素が必ず対応するとき、この写像fを1対1対応である」という意味だが、誰かにとってある一つの言葉と一対一対応するものは何かと考えた時、その答えは意外と難しい。

落花生とピーナッツは物理現象レベルで考えると明らかに一対一対応しているが、友人にとって明らかにそれは偽である。

逆の例として「味」があって、メロン果汁を一切使っていなくても、メロンソーダを飲めば、ああ、メロンだなと感じる。それは言葉でメロンとついているからだけでは、おそらくなくてもっと原始的な風情の話だと思う。言葉と一対一対応するのは脳内にあるぼんやりしたイメージだと答えたくなるが、本当にそれは真なのだろうか。

俳句において、一句の意味がひとつに定まらないので良いor悪いという言説があるが、そもそも意味が一つに定まるということが僕にはにわかに信じられない。俳句の意味なんていうものは読んだときの気分やシチュエーション、バックグラウンドにある情報の有無によって変わるものだと思っているからだ。意味をイメージと言い換えたとしても、抽象度が上がるだけで本質的にそれは変わらない。

一見矛盾しているが、「ある俳句」と一対一対応するものは、「その俳句」を除いたすべての事物の集合ではないかと思う。それは直観的なイメージだし、きちんとは説明できないが、ある素晴らしい俳句の存在価値を説明することは、その俳句が存在しない世界の素晴らしさを説明する行為に等しい。なぜなら、ある俳句の「素晴らしさ」は世界から「素晴らしさ」の可能性を少し奪って、身に着けて、世界に返すことで存在するように思うからだ。

妻がゐて夜長を言へりさう思ふ  森澄雄

俳句が作られるたびに、世界から新しい俳句の可能性は少しずつ減っていっていると言う人がいた。しかし、俳句はその俳句以外の全ての素晴らしさを更新し、新しいものにしてくれる。

そんな庭中にホースで水を掛けて回るような行為を、僕は目指しているし、これからも続けていこうと思っている。

2014-07-06

俳句に似たもの10 ものまね 生駒大祐

俳句に似たもの 10
ものまね

生駒大祐

「天為」2013年2月号より転載


最近、ものまねの大会の映像をまとめて見る機会があった。ものまねと言っても有名な歌手の歌をまねて歌うといったものではなく、市中の人々の何気ないしぐさであったり、有名人のものまねだとしても視聴者のあまり見たことがないだろうという所作を真似たりするといった類いのものまねである。

見たこともないシチュエーションのものまねを見ていったい何が面白いのだと思われそうなのだが、これが、滅法面白い。

特に面白かったのは野球選手の様々なシチュエーションでの動きを真似るというものだ。その野球選手が内角高めの球に手を出して内野ゴロを打ってしまうところ、ライナーを億劫そうにさばくところ、契約更改に臨むところ…etc。僕はその現場のいずれをも見たことがないにも関わらず、笑いをこらえることができなかった。

いったい何が僕をそうさせたのか。

その大会の映像を見ていてわかってきたのは、ものまねが面白いどうかというのは、その真似られる対象とその真似が似ているかにはよらない、ということであった。たとえクローンのように似ている人を連れてきて喋らせたとしても(当然声帯も似ているので声も似ているのである)、必ずしも可笑しいものにはならない。

面白いものまねはまず動きが洗練されており、神経が隅々にまで通っている。センスと練習量が、所作に如実に表れるのである。洗練がゆきとどくにつれ、ものまねは真似の対象から離れ、擬似的なリアリティを獲得していく。視聴者はリアルの世界に偽のリアルが現れたことに驚き、その別世界に感情移入することを愉しむのだ。

ものまねは「真似される対象」が居るためにこれらのことが判りやすいが、これらはおそらく芸術のほとんどに当てはまることではないか。

音楽にしても、絵画にしても、インスピレーションやイデアと言ってよい脳内の「描き出したい何か」があり、「それ」を真似ることで「それ」に近づきたいという純粋な衝動が人を芸術に駆り立て、その芸が洗練された結果として型や手法が生まれる。

しかし、芸が型や手法となり、万人に手の届く道具になった時点で芸は「描き出したかった何か」とは遠く離れた存在となる。我々が洗練された芸術を通して眺めているのは、芸術家のイデアの痕跡にすぎない。

それは勿論俳句にとっても同じである。写生が情景を微分する言語上の操作であるとすれば、俳句における型は神降ろしの憑代のようなもので、その型で言葉を形作ることによって降ろされる「何か」は、先人が求めたイデアを真似た何かである。

イデアを真似て型が出来て、型を真似て新たな型ができる。それが洗練されていくうちに、イデアは忘れられ、元とは似ても似つかない擬似的なリアリティを獲得した言葉が生まれるかもしれない。しかし、それはきっと、滅法面白いものに違いないのだ。

流氷の離れむとして渚あり  岸田稚魚


2014-06-29

俳句に似たもの9 子供 生駒大祐

俳句に似たもの 9
子供

生駒大祐

「天為」2013年1月号より転載


ドラえもんという藤子・F・不二雄の創作した有名なキャラクターが居る。2112年生まれの猫型ロボットで、好物はドラ焼き、ネズミが大の苦手である。また、同じ作者には「パーマン」という作品があり、パーマンセット(マスク、マント、バッジ)を装着すると怪力や空を飛ぶ能力などを授かり、その力を生かして正義のヒーローになるという物語である。

一方、子供というものは知の体系においては二次元に生きているようなもので、得られた知識を全て平等に地べたに並べて眺めているような生き物だ。

上の両者が交わると何が起こるかというと、創作物が生まれた背景であるとか経緯というものに兎に角気づかない。

すなわち、ドラえもんは「猫」型ロボットなのに「ネズミ」が嫌いであるという逆転が味であり、「パーマン」は先行のキャラクターである「スーパーマン」の断片として名づけられたという、大人にとっては自明であることに気づかない。

そして、恐ろしいことに、一端知識の並列・平等化が起こるとそれがなかなか解けないのか、いい大人になってようやくそれに気づく、という現象が起こり、驚くというか、その「気づかなかった」ということに一種の感動すら覚えることがある。少なくとも僕の場合はそうだった。

知というのは本来構造的であり、土台となる前提があって初めて帰納的・演繹的に結論が導かれるはずのものである。初等教育というものは、その科目を問わずして、「世界は体系的に構成されている」というメッセージをゴールとしてなされる。そして、子供は大人になっていく。

俳句における写生という方法のもたらす一種の効果は、世界は体系的には成り立っていないという事実を示すということにある。

鶏頭や海近くして蟻聡し  波多野爽波

かき冰食ひ桔梗の花を見る  田中裕明

俳句の切れは各事象の二次元化を引き起こし、作者、あるいは世界にとって何が原因であり何が結果であったのかを無効化する。さらには、「写生」という言葉が、その無効化された構造体が現実に確かに存在していたのだということを証言する。

そこに現れるべったりとした風景は、大人にとっては奇妙で面白いものであり、子供にとってはごく自然な風景である。「俳諧は三尺の童子にさせよ」という芭蕉の言葉があるが、写生を子供にやらせると大人にとってはとても面白いものができると同時に、子供にとってはその面白みが全く分からないのではないか。

写生俳句の面白さが俳句を見慣れない人に伝わりづらいと言われるのは、そこが原因ではないかと思う。季語の世界という非常に三次元的な言語体系の性質を知らなければ、それを無効化する写生の刃の切れ味は判らない。三次元における連続曲線を二次元に射影すると点が離散的に存在するようにしか見えない。

写生の面白さは、そのアナロジーで語れるのではないだろうか。

涎掛縫へば鶯飛んで来し  岩田由美


2014-06-22

俳句に似たもの8 大通り 生駒大祐

俳句に似たもの 8
大通り

生駒大祐

「天為」2012年12月号より転載


東京駅周辺をタクシーで訪れたことがあった。そのとき、狭い道から大手町のビルが左右に立ち並ぶ広い通りにいきなり出たのだが、その広々とした道路の真ん中において座った視点で辺りを眺める解放感には、ちょっと泣きそうになるほどの感動があった。

これは同じシチュエーションに対して多かれ少なかれ誰もが抱く感情ではあるのだろうけれども、同じ情景に僕ほどの解放感を皆が得るとは思えない。「えー、普通の風景だよ」と言う人もいるであろう。きっと、僕の中の解放感のツボを不意にこの大通りがついてしまったのだろう。

俳句に限らず成功する芸術家はその人なりの作家性を持っているものであるが、それがどういったプロセスを介して獲得されるものなのかは正直よく判っていなかった。作品を大量生産していく過程で自然に形成されていくものなのか、それとも自分で意識してある傾向の作品を作っていく内に洗練されてくるものなのか。

作家性というものは一種その作家を縛るものである。その作家性の枠から外れた作品は発表にしにくくなるし、著名な歌手のヒットナンバーのように、読者サービスとして必ずそのトーンの作品を提供することを求められる。しかもその作家性は明文化できるものではなく、読者の目になってみて味わってみてなんとなく、しかし確かに判るものである。

例えて言えば、作家性は道のようなものである。外れようと思えば外れられるが、道を歩いた方が歩きやすいし、傍目から見ても自然である。そういう意味で、作家性を見つけられない僕はごちゃごちゃとした迷路を歩いているようなものだ。

しかし、そんな僕にも、ある種の俳句を作ることができた瞬間、自分の枠から一歩「向こう側」にある作品を作ることができた瞬間には、小さくはあるもののある種の感動を覚えることがある。その感動は、きっと解放感に近いものだ。狭い迷路を歩いていてふっと広い出口を見つけた時のような、そんな種類の感動であろう。

作家性の形成は、おそらくはその解放感を高めていこうとする営みの中に生じる。ある種類の昆虫が明るい方向へと導かれるように遺伝子にプログラムされているのと同じく、作家とは自分の枠を広げてくれる、ある種の高みに導いてくれる作品を作りたいと欲望してしまう存在ではないだろうか。

高みとは、原始的には重力や周囲の物たちから解放された、密度の低い空間を指すのではないか、とも思う。解放感のもたらす快感は、縛られることへの不自由よりもはるかに魅力的である。
僕はまだその解放感の裾野に触れたにすぎない。それをてがかりに俳句を作り続けることで、いつか僕の俳句における「大通り」を見つけたいと思う。あの日大手町で出くわした、あの通りのような。
二科を見る石段は斜めにのぼる   加倉井秋を


2014-05-18

俳句に似たもの7 全力 生駒大祐

俳句に似たもの 7
全力

生駒大祐

「天為」2012年11月号より転載



スポーツに限らず、人と人(または物)が全力でぶつかりあう姿を「観戦」することは、古来よりの重要なエンターテインメントであった。

人が何かを全力でやろうとするとき、そこには必ず何らかのルールや戦法が生まれる。

たとえばじゃんけんという簡易籤引きのように機能しているものであったとしても、「よし、全力でやろう」と決意した人がいたとすれば、力を注ぐ対象として最高のものとするように自然にルールが生まれては消え、淘汰されて洗練されるのであろう。そしてそこには観衆がエンターテインされる「何か」がきっと生まれることだろう。

一見、その知覚的な快楽は観衆がルールや戦法を理解していなければわからないように思える。スポーツや囲碁、将棋などの放送番組に往々にして「解説」が付くのはそれを裏付けているのかもしれない。

しかし、本当にそうだろうか。

解説が観衆へ与えてくれる情報は、基本的に「結果」についてのものである。

ある高みがあって、その高みが「なぜ高いのか」を解説は説明する。しかし、その観られている競技者たちが全力で行っているのは、解説されるところの高みに「いかに自分を押し上げるか」という一点をもってしてのことである。

そのWHYとHOWの違いは、非常に大きい。

いわば、WHYは万人に開かれた扉であるが、HOWは実際に競技の場に立ってみないと入ることのできない狭い路地である。観衆はWHYを知ることでHOWの道への手がかりを得るが、それは十分ではない。観衆が真に熱狂し、感動するのは、競技者がその競技に対して「馬鹿」になって全力を注いでいるということをただただ直感した瞬間である。

俳句において作者の「全力」を感じられる瞬間があるとすれば、一句を読んだときというよりも、あるまとまった量の連作を読んだときであると思う。

一句を為すところのインスピレーションは、それこそ偶然「降って」来てしまうものであるので、一句の完成度や面白さは「はいくのかみさま」に愛されているかどうかで決定してしまう非情なものだ。

連作には、その神様に愛されなかった句がどうしても入ってきてしまう。それを人間の力でどうにかしようとする試みを全力で行っているかどうかを、読者は直感し、熱狂する。

それは俳句を読んでいると共に、その俳句作者の生き様を読んでいるのと全くの等価ではないかとすら思う。

俳句はルールが明らかな文芸のように思える。しかし、明文化・意識化されていない「はいくのかみさま」が決めたハイコンテクストなルールはいくらでも存在している。

それは俳句作者が作者と読者をいったりきたりして見つけ出していくしかないものである。その意味で、俳句はまだ洗練されていない。

俳句は、きっとまだまだ面白くなる。神様と馬鹿になって全力で取っ組みあう価値は、まだ存在すると信じている。

猫柳眺めている猫沖へ行けよ  大穂照久 
(週刊俳句 2012年落選展より)


2014-05-11

俳句に似たもの 6 パラレルI/F 生駒大祐

俳句に似たもの 6
パラレルI/F

生駒大祐

「天為」2012年10月号より転載


最近業務で出てきた単語でインターフェイスというものがある。

【インターフェイス】二つのものの間に立って、情報のやり取りを仲介するもの。また、その規格。「IF」「I/F」の略号で示されることもある。

というようなものだが、具体的な例を挙げると電子機器のケーブルからPC上の「アイコン」まで、平たく言えば誰か(何か)の中の伝えたいものを誰か(何か)に伝える、媒介となるものだ。

業務で扱っているデータのI/Fに「シリアルインターフェイス」というものがある。2進法の0と1で表されたデータを一列に並べ、ひとつずつ順番に伝達する形式。

その逆が「パラレルインターフェイス」で、データを並列に並べて伝達する。パラレルインターフェイスの方が伝達のタイミングを合わせるのに技術がいるが、大きなデータを高速に伝えられるという特徴があるという。

さて、自分が持っている感動なり感情なり情景なりを人に伝えるI/Fとしては、まず発声による「ことば」がある。

「ことば」は順番に紡がれ、一語一語伝わってくるので、シリアルI/F的であると言えるだろう。

ではパラレルI/F的な伝達方法は何かと考えると、絵画がそれにあたるかもしれない。一目で多くの情感や情景を伝えることができると同時に、ことばよりも情報の伝達には技術がいる。

それを敷衍させていくと、小説、自由詩などは文字を順番に追ってゆくという点でシリアルI/F的であろう。

では、俳句や短歌はどうか。

俳句は絵画的であると言われることがある。

畑うつやうごかぬ雲もなくなりぬ 蕪村

それは俳句において「写生」という方法論が一般的であることもあるだろう。

山本健吉が「時間性の抹殺」と、鴇田智哉が「俳句は一目で見通せる長さを持っている」と指摘しているように、俳句はシリアルI/F的に読み下すというよりも、パラレルI/F的に各単語が同時に体内に入ってくるような感触が、ある。

愉しまず晩秋黒き富士立つを 山口誓子

「黒き富士が立っていることを愉しく思わない」というシリアルな情報にパラレルに挟まってくる「晩秋」が、コラージュのように効いてくる。一句の構成を散文のように順序正しくしないことで効果を付けるのも、パラレルI/F的である。

パラレルI/Fは長距離伝送に不適だと言われる。俳句にとって「長距離伝送」にあたるのは地理的距離というよりも時間的な隔たりであろう。

実際、古の名句を当時の感動を以て理解するのは難しい。

しかし、それを読み解けたときに時代を超えて当時の作者の感動を共有できることはなんともいえず味わい深い。

受信側にも相応の技術が必要なのがパラレルI/Fなのだ。


2014-04-06

俳句に似たもの 5  長距離走 生駒大祐

俳句に似たもの 5 
長距離走

生駒大祐

「天為」2012年9月号より転載


あるとき友人が、「50メートルは一つの限界である」ということを主張していた。それはすなわち陸上競技において「50メートル走」より短い距離を走るものはないという話のネタである。

長い方でマラソンは50キロメートルくらいと言ってもいいかもしれないし、50メートル走は実際小学生の時に走った覚えがある。「500メートル走はないようだが」「でも400メートル走は近距離走で存在する」。なるほど。

しかし、僕は「5メートル走」を見たことがあるのだった。

それはその名の通り5メートルを二人の大人が全力で走って競争するという映像で、まあ、いわゆるジョーク映像のひとつだった。「5メートル走は冗談でしか存在できない」ということでその場は結論がつき、次の話題に場は移っていった。

「短すぎる距離を真剣に走る」ということは笑いの対象となる。この「真剣に」ということが重要で、ふざけたのでは笑えない。

インターネット上には「『忙しい人のための』シリーズ」という一連の動画が存在する。それは通常の数分の長さの歌を1分以下、時には10数秒まで省略したもので、聞いてみるとうまく編集されたものはなぜか可笑しい。

一方で、落語の「寿限無」という演題は本来短いはずの人の名前をどんどんと長くして笑いを取る。長いものを短くする、短いものを長くするということは本来的に笑いを誘うものなのかもしれない。

俳句は省略の文芸だと言われる。

巻尺を伸ばしてゆけば源五郎 波多野爽波
炬燵出て歩いてゆけば嵐山 爽波

この「ば」は、非常に強い切れを含んだ「ば」であり、そこでは小景と大景、偶然と必然、散文と韻文という様々なものが一瞬息を付く間に繋がり、その繋ぎ目はぎゅっと圧縮されてしまっている。「長いものを短くする」という意味で俳句にもし笑いどころがあるとしたら、「ここ」以外にありえない、とも思う。

俳句が笑いではなく感動を呼ぶことのできる文芸として存在し得ているのは、17音というフィールドは人間にとって十分すぎるほど長いということを証明している。

長・中距離走にペース取りやスパートのタイミングといったテクニックがあるように、俳句にも一句を構成するうえでの山の作り方や締め方などのテクニックがいくらでも存在する。人間がスプリントで走り続けられる最長距離だと言われる短距離400メートル走よりも、俳句はおそらく、はるかに長い。

滝の上に水現れて落ちにけり 後藤夜半

この句などを見ると俳句は長距離走だとしみじみと思う。俳句という器を小さくするものがあるとすれば、それはシラブルの制約ではなく作者の技術力のなさだろう。17音を全力のまま完走するという行為は、実は非常に困難であるのだろう。


2014-03-23

俳句に似たもの 4  漫画 生駒大祐

俳句に似たもの 4 
漫画

生駒大祐

「天為」2012年8月号より転載

ギャグ漫画を読んでいていつも注目してしまうのは「オチ」、すなわち起承転結における結の部分の描写である。

ギャグ漫画にはテクニカルな意図がある場合を除いては通常オチがあるが、その表現方法は作者によってさまざまである。オチにおいて漫画の登場人物たちは、ズッコケたり、ツッコんだり、驚いたり、あるいは無表情を浮かべたりする。

オチに注目してしまうのは、そこに漫画の世界と読者の世界を繋ぐ橋が架かっているからだ。すなわち、ギャグ漫画のハイテンションで荒唐無稽な世界と、文字通りリアルな読者の世界の狭間において、「ここで世界を受け入れて笑え」というエクスキューズを作者が設けているのがオチの部分なのだ。

俳句というものにある種の「オチ」があるとすれば、それはおそらく切れの部分において、である。

女来と帯纒き出づる百日紅 石田波郷
椎若葉東京に来て吾に会はぬか 波郷

女が来たので帯を巻いて出て行く、東京に知人を誘い出すという作者の現実の俗の世界と、句の匂いをワンワードで決めてしまう密度の濃い季語の雅の世界をやすやすと繋げてしまうということが、切れが断絶ではなく橋渡しであるという事実を露わにしている。

桐の花昼餉了るや憂かりけり 波郷
東京の椎や欅や夏果てぬ 波郷

その意味で、吃音的なある時期の波郷のリズムは、ギャグ漫画家の増田こうすけの一部の作品の畳み掛けるようなギャグのリズムと似た部分がある、かもしれない。

一方、スポーツ漫画におけるリアリティの獲得というのはギャグ漫画とは違った有り様を持つ。

スポーツ漫画の現実性は、登場人物たちが物理法則でも法律でも道徳でもなく、そのスポーツのルールを(それを「破る」ことも含め)「必ず順守しなければならない」という一点の規範に凝縮されている。

逆に言えば、それさえ守っていればどんなに超人的な高校生球児が登場しようともその漫画のリアリティは確保される。あだち充の野球漫画H2において二人の超高校生級の主人公である比呂と英雄に読者が感情移入してしまうことは、極端に言えば野球というスポーツのルールに感情移入していることに等しい。

俳句における絶対の規範とは何かと考えたとき、それは季語でも韻律でもなく、一句がある人間の思考活動によって造られたものである、ということであろう。

それを敷衍してゆくと俳句におけるコンテクストの重要性に繋がるが、この文字列が偶然発生的に作られたものではないということを信じること、すなわち景やテクニックといった些末な問題のはるかかなたに存在する作者に触れられる唯一の手がかりがこの一句であると信じることが、俳句を俳句たらしめている規範ではないか。

静岡より私をいんどにながす夕波 阿部完市

俳句に感情移入することは作者に感情移入することに等しい。そう考えると、楽しくて良い、そう思うのだった。



2014-03-02

俳句に似たもの 3 もらい泣き 生駒大祐

俳句に似たもの 3 
もらい泣き

生駒大祐

「天為」2012年7月号より転載



最近友人の結婚式に出ることがあった。そこでうっかり感情移入してしまい「これで新婦やご両親が泣きだしたら僕も泣いてしまうな」という感覚が、式中で何度かあった。いわゆる「もらい泣き」というやつの一歩手前の段階だ。そういう言葉がある位なのだから、他人が泣いていると人はおそらく泣いてしまいやすい状態になるのだろう。そこで悔しいのは自分の涙の閾値が環境の如何ではなく他人の涙という視覚的情報に規定されているという点だ。人間はふっと脈絡とか状況ということを超越して、遠隔操作的にびびびと「伝わってしまう」ことがある生き物なのだろう。自分の涙くらい自分で制御したいものであり少し悲しいが、人間にはもともと「伝わる」器官がプリインストールされてしまっているのだ。

取り合わせや切れという技術が多用されることを見れば判るように、俳句は言葉ごとのイメージ喚起力に多分に依存した文芸である。摂津幸彦がインタビューに答えて、「ある人がある名前で呼ばれて、それがその人のすべてを象徴するというのは、非常に不思議なことじゃないか、っていう気がすることってありませんか。(中略)ただ単なるシンボル、記号であるべきものが、なにかその人の生涯とか運命とかも決定してしまうような、そういう姓名というものはなかなか怖いものだなあ、と。」〔*〕と語っていた。姓名は特にそうであるが、言葉はひとつのものを指し示すかのように思えて、当然場合によって違うものを指しているという事実を巧妙に隠した記号である。そう考えたときに俳句において意味を伝える方法というのはおそらく二つあって、ひとつは文脈がすっと通るような言葉の使い方をすることで文脈による力を単語に与え、本来は通らない言葉の意味を伝える方法。もうひとつは文脈を薄くしてヴェールのように言葉に纏わせ、勝手に漏れ出てくる意味を読み取らせる方法である。簡単に言ってしまえば、伝わることを「信じる」か「信じない」かという宗教裁判にも似た身も蓋も無い話になる。

これは作者論であるが、翻って読者論の立場から見るとどうか。読者にとって作者がどういう意図を持ってその俳句を作ったのかを真に知ることはできない。作者に聞いたところでその意味を伝える記号も言葉であるので性質が悪い。よって読者にできるのは文脈とか作者情報ということを超越して、意味が伝わることを信じるか信じないかということを無視して、びびびと伝わってしまう意味を感じることだけではないかと思う。そういう思考停止的な俳句の読み方は少し抵抗があるかもしれないが、人間には嬉しいことにもともと「伝わる」器官がプリインストールされてしまっているので、仕方がない話なのである。

大海のうしほはあれど旱かな 虚子

よこぶえ吹くに横むく少年ころせえ 幸彦


〔*〕インタビュー「できあがった瞬間、全く無意味な風景がそこにある、という俳句が書きたいんです」:『攝津幸彦選集』(2006年/邑書林)所収
 


2014-02-23

俳句に似たもの 2 手品 生駒大祐

俳句に似たもの 2 
手品

生駒大祐

「天為」2012年6月号より転載



先日、手品をやっている友人と会った。

その友人に言わせれば、手品のタネというものは往々にして見ればすぐに判るものなのだという。それは手品というものが基本的に既存のタネの組み合わせであり、あとはそれを巧みに隠すための技術の集積が「手品」と呼ばれるものであるから、らしい。

俳句にも「判る」俳句と「判らない」俳句が存在する。それには句の持つ意味が判るかどうかという観点というある意味で単純な分け方ではなく、うまく説明できない「あー、判る」である。あえて言えば「作者の思考の過程を追えるかどうか」という言い方が最も近いかもしれない。

「判る」俳句、というのは例えば以下のような俳句である。

真青な中より実梅落ちにけり 藤田湘子

大数である「真青」とひとつである「実梅」のそれぞれの対比が実に的確であり、感覚的にも伝わりやすい俳句だと思う。

一方「判り」にくい俳句の例を出せば、

わが裸草木虫魚幽くあり 湘子

己が裸と自然物の明るさの対比の句だが作者の生命観が前面に出てきているようで、それを理解するのには作者の他の句の助けが必要なように思う。共に、大好きな句だ。

僕が俳句を始めて10年弱が経ったが、ようやく様々な俳句が「判る」ようになってきた。それは技術を覚えてきて、知識が付いてきて、というのもあるが、俳句の呼吸が身についてきたというのが大きい。「こうくるだろう」という予測が立つようになり、その通りだと「やはり」、躱して来ると「そう来たか」と思う。そして、その予想外が予想の範囲内になり、隠れている技術や技術が隠れていること自体が判るようになってくる。

単純な二元論として語ってしまったが、その人は同時に以下のようなことも言っていた。

一方で勿論タネが判らない手品もあって、それらは「タネが判りそうな手品」と「判らなそうな手品」に分かれる。そして、前者はタネを考えたり観察したりするために成長の糧になるが、後者は一観客として見てしまい、思考がそこで止まってしまう、と。

それはやはり俳句でもそうで、実作に生かすということを考えると「判りそう」な俳句を考えることは非常に勉強になる。そして、考えてゆくうちに「判る」と思っていた感覚がまた「判らなく」なったりして、楽しい。

しかし一方で、一読者として、「これは、全く判りませんナ」という思考が停止する俳句に出会う体験は非常に貴重であり、愛おしい瞬間である。その人に聞いてはいないが、観客として手品を最も楽しめるのは、手品を始める前の一観客として圧倒的に幻惑された瞬間を思い出せる、そのような瞬間であろう。また会った時に、彼に聞いてみたい。

口笛ひゆうとゴツホ死にたるは夏か 湘子


2014-02-16

俳句に似たもの 1 ラジオ……生駒大祐

俳句に似たもの 1 
ラジオ

生駒大祐

「天為」2012年5月号より転載


突然であるが、僕はいま「Haiku Drive」という俳句のラジオ番組をやっている。ラジオ番組と言っても俳句にまつわるあれこれを自分で撮影して自らインターネット上で配信しているだけで、視聴者数は毎回10人程度である。
 
ラジオを始めた理由はいくつかあるが、直接のきっかけになったのはあるとき西東三鬼の肉声を聞かせていただく機会があったことだ。その中で三鬼は句の解題やその良さについて語っていた。

それを聞いたときに、三鬼があるとき確かに生きていて、何か面白いことを確かに考えていたのだということを、直観的に悟った。そして、三鬼の死と共にその情報の大半が失われてしまったことを非常に惜しく思った。

僕の周りには俳句について面白いことを考えている人間が沢山存在する。

そして、面白いことというのは、その人の書くたとえば評論だけでは掬いきれないものが大半を占めていると常々感じていた。評論には論理性が要求されるが故に、非論理的な思考や散漫な思いというものは表現することができない。しかし、人の面白いところである個性や人間性というものは、本当はその矛盾した思考やとりとめのない思索の中に存在するのではないかと思うのだ。

それらを丸ごと掬い上げる方法として僕が選んだのが、ラジオ番組という形式だった。僕が注目している俳人を招いて、テーマを決めてトークを行い、それらをできるだけナマなかたちで配信、記録する。僕が面白いと思う俳人たちが歴史の中で何人残っていくかどうかはわからない。しかし、その誰かが大俳人となったとき、この記録は実はものすごい価値を孕むのではないか。僕はそう夢想している。

ラジオをやってみて判ったのは、僕の求める「洗練されていないとりとめのなさ」を記録するのには、実は番組構成における洗練された技術が必要になるということだった。

番組は構成が散漫すぎてもかっちりしすぎていてもパーソナリティの面白さが伝わらない。番組が個性を容れる器であるとすると、その器をできるだけ薄くして、中身が透けるまでにするのが理想である。それには構成を構成と思わせないような、ラジオ収録という不自然な環境を自然なトークに見せかけるような、そんな洗練が必要であった。

俳句とは、作者の個性を容れる器である。俳句を一番面白く見せるには、表現したいと思う、ある種の非論理的な感情の動きを表現するその技術において、それを技術だと見せないような擬似的な自然さが必要となる。

紺絣春月重く出でしかな 飯田龍太

良い俳句というものは、一見なんということもない表現なような顔をしていながら、改作しようとすると毅然とそれを拒んでくるようなところがある。それこそが洗練であり、僕が俳句とラジオにおいてずっと目指していく山の頂上にあたるのだと思う。