2014-02-23

俳句に似たもの 2 手品 生駒大祐

俳句に似たもの 2 
手品

生駒大祐

「天為」2012年6月号より転載



先日、手品をやっている友人と会った。

その友人に言わせれば、手品のタネというものは往々にして見ればすぐに判るものなのだという。それは手品というものが基本的に既存のタネの組み合わせであり、あとはそれを巧みに隠すための技術の集積が「手品」と呼ばれるものであるから、らしい。

俳句にも「判る」俳句と「判らない」俳句が存在する。それには句の持つ意味が判るかどうかという観点というある意味で単純な分け方ではなく、うまく説明できない「あー、判る」である。あえて言えば「作者の思考の過程を追えるかどうか」という言い方が最も近いかもしれない。

「判る」俳句、というのは例えば以下のような俳句である。

真青な中より実梅落ちにけり 藤田湘子

大数である「真青」とひとつである「実梅」のそれぞれの対比が実に的確であり、感覚的にも伝わりやすい俳句だと思う。

一方「判り」にくい俳句の例を出せば、

わが裸草木虫魚幽くあり 湘子

己が裸と自然物の明るさの対比の句だが作者の生命観が前面に出てきているようで、それを理解するのには作者の他の句の助けが必要なように思う。共に、大好きな句だ。

僕が俳句を始めて10年弱が経ったが、ようやく様々な俳句が「判る」ようになってきた。それは技術を覚えてきて、知識が付いてきて、というのもあるが、俳句の呼吸が身についてきたというのが大きい。「こうくるだろう」という予測が立つようになり、その通りだと「やはり」、躱して来ると「そう来たか」と思う。そして、その予想外が予想の範囲内になり、隠れている技術や技術が隠れていること自体が判るようになってくる。

単純な二元論として語ってしまったが、その人は同時に以下のようなことも言っていた。

一方で勿論タネが判らない手品もあって、それらは「タネが判りそうな手品」と「判らなそうな手品」に分かれる。そして、前者はタネを考えたり観察したりするために成長の糧になるが、後者は一観客として見てしまい、思考がそこで止まってしまう、と。

それはやはり俳句でもそうで、実作に生かすということを考えると「判りそう」な俳句を考えることは非常に勉強になる。そして、考えてゆくうちに「判る」と思っていた感覚がまた「判らなく」なったりして、楽しい。

しかし一方で、一読者として、「これは、全く判りませんナ」という思考が停止する俳句に出会う体験は非常に貴重であり、愛おしい瞬間である。その人に聞いてはいないが、観客として手品を最も楽しめるのは、手品を始める前の一観客として圧倒的に幻惑された瞬間を思い出せる、そのような瞬間であろう。また会った時に、彼に聞いてみたい。

口笛ひゆうとゴツホ死にたるは夏か 湘子


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