俳句に似たもの 5
長距離走
生駒大祐
「天為」2012年9月号より転載
あるとき友人が、「50メートルは一つの限界である」ということを主張していた。それはすなわち陸上競技において「50メートル走」より短い距離を走るものはないという話のネタである。
長い方でマラソンは50キロメートルくらいと言ってもいいかもしれないし、50メートル走は実際小学生の時に走った覚えがある。「500メートル走はないようだが」「でも400メートル走は近距離走で存在する」。なるほど。
しかし、僕は「5メートル走」を見たことがあるのだった。
それはその名の通り5メートルを二人の大人が全力で走って競争するという映像で、まあ、いわゆるジョーク映像のひとつだった。「5メートル走は冗談でしか存在できない」ということでその場は結論がつき、次の話題に場は移っていった。
「短すぎる距離を真剣に走る」ということは笑いの対象となる。この「真剣に」ということが重要で、ふざけたのでは笑えない。
インターネット上には「『忙しい人のための』シリーズ」という一連の動画が存在する。それは通常の数分の長さの歌を1分以下、時には10数秒まで省略したもので、聞いてみるとうまく編集されたものはなぜか可笑しい。
一方で、落語の「寿限無」という演題は本来短いはずの人の名前をどんどんと長くして笑いを取る。長いものを短くする、短いものを長くするということは本来的に笑いを誘うものなのかもしれない。
俳句は省略の文芸だと言われる。
巻尺を伸ばしてゆけば源五郎 波多野爽波
炬燵出て歩いてゆけば嵐山 爽波
この「ば」は、非常に強い切れを含んだ「ば」であり、そこでは小景と大景、偶然と必然、散文と韻文という様々なものが一瞬息を付く間に繋がり、その繋ぎ目はぎゅっと圧縮されてしまっている。「長いものを短くする」という意味で俳句にもし笑いどころがあるとしたら、「ここ」以外にありえない、とも思う。
俳句が笑いではなく感動を呼ぶことのできる文芸として存在し得ているのは、17音というフィールドは人間にとって十分すぎるほど長いということを証明している。
長・中距離走にペース取りやスパートのタイミングといったテクニックがあるように、俳句にも一句を構成するうえでの山の作り方や締め方などのテクニックがいくらでも存在する。人間がスプリントで走り続けられる最長距離だと言われる短距離400メートル走よりも、俳句はおそらく、はるかに長い。
滝の上に水現れて落ちにけり 後藤夜半
この句などを見ると俳句は長距離走だとしみじみと思う。俳句という器を小さくするものがあるとすれば、それはシラブルの制約ではなく作者の技術力のなさだろう。17音を全力のまま完走するという行為は、実は非常に困難であるのだろう。
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