俳句に似たもの 10
ものまね
生駒大祐
「天為」2013年2月号より転載
最近、ものまねの大会の映像をまとめて見る機会があった。ものまねと言っても有名な歌手の歌をまねて歌うといったものではなく、市中の人々の何気ないしぐさであったり、有名人のものまねだとしても視聴者のあまり見たことがないだろうという所作を真似たりするといった類いのものまねである。
見たこともないシチュエーションのものまねを見ていったい何が面白いのだと思われそうなのだが、これが、滅法面白い。
特に面白かったのは野球選手の様々なシチュエーションでの動きを真似るというものだ。その野球選手が内角高めの球に手を出して内野ゴロを打ってしまうところ、ライナーを億劫そうにさばくところ、契約更改に臨むところ…etc。僕はその現場のいずれをも見たことがないにも関わらず、笑いをこらえることができなかった。
いったい何が僕をそうさせたのか。
その大会の映像を見ていてわかってきたのは、ものまねが面白いどうかというのは、その真似られる対象とその真似が似ているかにはよらない、ということであった。たとえクローンのように似ている人を連れてきて喋らせたとしても(当然声帯も似ているので声も似ているのである)、必ずしも可笑しいものにはならない。
面白いものまねはまず動きが洗練されており、神経が隅々にまで通っている。センスと練習量が、所作に如実に表れるのである。洗練がゆきとどくにつれ、ものまねは真似の対象から離れ、擬似的なリアリティを獲得していく。視聴者はリアルの世界に偽のリアルが現れたことに驚き、その別世界に感情移入することを愉しむのだ。
ものまねは「真似される対象」が居るためにこれらのことが判りやすいが、これらはおそらく芸術のほとんどに当てはまることではないか。
音楽にしても、絵画にしても、インスピレーションやイデアと言ってよい脳内の「描き出したい何か」があり、「それ」を真似ることで「それ」に近づきたいという純粋な衝動が人を芸術に駆り立て、その芸が洗練された結果として型や手法が生まれる。
しかし、芸が型や手法となり、万人に手の届く道具になった時点で芸は「描き出したかった何か」とは遠く離れた存在となる。我々が洗練された芸術を通して眺めているのは、芸術家のイデアの痕跡にすぎない。
それは勿論俳句にとっても同じである。写生が情景を微分する言語上の操作であるとすれば、俳句における型は神降ろしの憑代のようなもので、その型で言葉を形作ることによって降ろされる「何か」は、先人が求めたイデアを真似た何かである。
イデアを真似て型が出来て、型を真似て新たな型ができる。それが洗練されていくうちに、イデアは忘れられ、元とは似ても似つかない擬似的なリアリティを獲得した言葉が生まれるかもしれない。しかし、それはきっと、滅法面白いものに違いないのだ。
流氷の離れむとして渚あり 岸田稚魚
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