俳句に似たもの 12
単純
生駒大祐
「天為」2013年4月号より転載
子供の時に読んだ漫画において、トラウマのように覚えているシーンがいくつかある。例えば、名前すら憶えていない野球の四コマ漫画のワンシーン。巨人の長嶋監督(と思われる)が満面の笑みで胴上げされていて、実況のセリフ「巨人135勝0敗で優勝!!」というものである。
なぜ、このコマが怖かった(そう、怖かったのだ)のかを今になって考えてみると、やはり135勝0敗という狂気じみた現象と、それに加えて監督が笑顔であったことが僕にとって大きいと感じる。
すなわち、絶対的かつ過剰な慶事があり、それを人間が否応なしに受け入れさせられ、喜びしか感じられない、ということ。個人の感情がコントロールされる、それも外部からというよりも(社会的に外部から感情が制御されるのは子供でも経験的に諦めがつく)自身の目指したまさにその目標の完璧な実現によって。そういうことが怖かったのだ。
人生において目標が完全に達成されることは、ない。どんな成功にも探せば何らかの瑕疵はあるし、反省点のない成功に価値はない。結果に対する人間の通常の感情は喜怒哀楽が配合量を変えて複雑に混ざり合ったものだ。単純なものが複雑なものに比べて存在が難しいことは、物理学的にも正しい。そう考えると、純度の高い宝石を人間が美しく感じることは自然の不思議ではなくごくごく当然のことだと思えてくる。
俳句において、一般的に好まれる題材は「単純」な情景である。
鶏頭の短く切りて置かれある 岸本尚毅
この句に登場する体言は「鶏頭」のみで、あとは用言だ。「鶏頭という単純な一物にその在り方の描写を複雑に加えているところに一句の面白さがある」、とも言うことは可能だろう。
しかし、本質はそうではないと僕は思う。この句はむしろ、「鶏頭という複雑な一物にその在り方の描写を単純に設定しているところに一句の面白さがある」というような句であると思う。鶏頭、とただ言われた場合人間が抱くイメージはひどく複雑である。それを短く切られているという状況を付け加えることでイメージの焦点を絞り、単純化を試みている。この句はそういう句だと思う。
雪舞ふや鶯餅が口の中 尚毅
そのアナロジーで言えば、この句の方が前者よりもよほど単純である。なぜなら、一句の登場人物が多いために、読者の抱く印象の標準偏差が小さいためだ。一句の情報量が増えれば増えるほど句の世界はミニマムになり、読者の抱くイメージは単純になる。
俳句における単純を極めるとおそらく狂気を孕んだものになるだろう。なぜなら狂気とはある方向に突き抜けた現象で、一方向に対して極めて単純な性質を持っているものだからだ。そしてその狂気をおそらく恐ろしく感じてしまうのも、ごくごく自然なことなのだろう。
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