【八田木枯の一句】
流涕や夕陽まみれのオートバイ
太田うさぎ
何かの俳論だったかエッセイだったか、「しんしんと肺碧きまで海のたび」は季語がなくとも自ずから季感は明らかである、と断定するくだりに出会ったことがある。論者はそう述べることによって篠原鳳作の句を肯定していると読み取れた。全体の論旨は忘れたものの、この一文は俳句を作り始めて間もない私の不安を煽ったので今でも覚えている。解、つまりいつの季感かは示されていなかった。なんか寒冷っぽいイメージだけれど、秋か冬?それとも「碧」は夏の海の色? 分からない……。そのときの私の心情は「はい、先生!」と真っ直ぐ手を上げる生徒の後ろで虚ろに目を彷徨わせる落ちこぼれのそれだった。俳句歴的にも馬齢を重ねた今は、無季の句にわざわざ季感を覚えるのは余計なお世話というものだろう位のことは思うのだけれども。そもそも篠原鳳作じしんが有季感の無季俳句を足掛かりに無季感の無季俳句を目指していたことも後々知ったりもしたのだけれども。
というわけで八田木枯の無季俳句である。
流涕や夕陽まみれのオートバイ 八田木枯 (『あらくれし日月の鈔』)
句集にはオートバイ四句がひとかたまりに収められている。
父よ癒えよ青きひかりのオートバイ
流涕や夕陽まみれのオートバイ
どちらかと言へば猫なりオートバイ
はらわたに透明たまるオートバイ
これらの句の前後は春の季語の句と夏の季語の句が行きつ戻りつ並び、所々に無季の句が楔を打ち込むといった体をなしている。無季の句に敢えて季感を特定させないための配慮だろうか。むしろ、すべての句をどこに据えれば最も見栄えがするかに心を砕いた配列と考えるべきだろうか。『あらくれし-』は他の句集と比べても無季俳句の割合が高い。無季の作品の散らし方に目を置いて句集を読むのも面白いかもしれない。
この句の要は「流涕」。新明解国語辞典には「『涙を流して泣く』意の古語的表現」とある。激しく泣くということでもあるのだそうだ。知らなかった。
静止しているオートバイと見てもよいけれど、ほかの三句と絡めて読めば動態と捉えたい。猫とも喩えられるしなやかな車体は夕陽に染め抜かれてどこまでも疾走する。どのような悲しみがこのライダーを突き動かすのだろう。乗り物と乗り手が一体となり疾駆する姿自体が水平に流れやまぬ涙でもあるかのようだ。
涙に夕陽にオートバイ、とかなりベタに青春な展開をベタ甘にさせないのは一重に「流涕」の二字の耳慣れない(手垢のついていない、と言い換えてもいい)漢語的表現の効き目だ。感傷的な内容に対して錨の役目を果たしている。これが「号泣」だったら目も当てられない。この辺の垢抜けた言葉遣いは木枯さん自身も自負するところがあった筈だ。意匠としての俳句、ということがふと頭をよぎったりする。
数句を揚げた行きがかり上紹介すると、オートバイの句は同じ『あらくれし日月の鈔』の数ページ先にもう一句「オートバイ昏昏として青を欲る」が夏と秋の季語の句に挟まれて収められている。そして全集には『夜さり』の補遺として「オートバイ黒い卵を産み落とす」がある。二つの句集の間には九年の歳月が流れている。この句をもってオートバイという機械詠は完結を見たのか、その後も折を見て挑むつもりがあったか、どうだろう。
2014-08-10
【八田木枯の一句】流涕や夕陽まみれのオートバイ 太田うさぎ
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