俳句に似たもの 7
全力
生駒大祐
「天為」2012年11月号より転載
スポーツに限らず、人と人(または物)が全力でぶつかりあう姿を「観戦」することは、古来よりの重要なエンターテインメントであった。
人が何かを全力でやろうとするとき、そこには必ず何らかのルールや戦法が生まれる。
たとえばじゃんけんという簡易籤引きのように機能しているものであったとしても、「よし、全力でやろう」と決意した人がいたとすれば、力を注ぐ対象として最高のものとするように自然にルールが生まれては消え、淘汰されて洗練されるのであろう。そしてそこには観衆がエンターテインされる「何か」がきっと生まれることだろう。
一見、その知覚的な快楽は観衆がルールや戦法を理解していなければわからないように思える。スポーツや囲碁、将棋などの放送番組に往々にして「解説」が付くのはそれを裏付けているのかもしれない。
しかし、本当にそうだろうか。
解説が観衆へ与えてくれる情報は、基本的に「結果」についてのものである。
ある高みがあって、その高みが「なぜ高いのか」を解説は説明する。しかし、その観られている競技者たちが全力で行っているのは、解説されるところの高みに「いかに自分を押し上げるか」という一点をもってしてのことである。
そのWHYとHOWの違いは、非常に大きい。
いわば、WHYは万人に開かれた扉であるが、HOWは実際に競技の場に立ってみないと入ることのできない狭い路地である。観衆はWHYを知ることでHOWの道への手がかりを得るが、それは十分ではない。観衆が真に熱狂し、感動するのは、競技者がその競技に対して「馬鹿」になって全力を注いでいるということをただただ直感した瞬間である。
俳句において作者の「全力」を感じられる瞬間があるとすれば、一句を読んだときというよりも、あるまとまった量の連作を読んだときであると思う。
一句を為すところのインスピレーションは、それこそ偶然「降って」来てしまうものであるので、一句の完成度や面白さは「はいくのかみさま」に愛されているかどうかで決定してしまう非情なものだ。
連作には、その神様に愛されなかった句がどうしても入ってきてしまう。それを人間の力でどうにかしようとする試みを全力で行っているかどうかを、読者は直感し、熱狂する。
それは俳句を読んでいると共に、その俳句作者の生き様を読んでいるのと全くの等価ではないかとすら思う。
俳句はルールが明らかな文芸のように思える。しかし、明文化・意識化されていない「はいくのかみさま」が決めたハイコンテクストなルールはいくらでも存在している。
それは俳句作者が作者と読者をいったりきたりして見つけ出していくしかないものである。その意味で、俳句はまだ洗練されていない。
俳句は、きっとまだまだ面白くなる。神様と馬鹿になって全力で取っ組みあう価値は、まだ存在すると信じている。
猫柳眺めている猫沖へ行けよ 大穂照久
(週刊俳句 2012年落選展より)
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