2014-03-09

特集・三年目の3.11 関悦史「震災関連」文集 4)数学に問うプルトニウムを詠むべきかと

特集・三年目の3.11
関悦史「震災関連」文集(4) 関悦史


数学に問うプルトニウムを詠むべきかと
(「現代詩手帖」2013年5月号用 2013/4/5送稿)

東日本大震災後、俳句作者たちの状況もばらばらになった。東京以西、西日本の俳人たちにとってはほぼ「一昨年の大ニュース」ということに尽きるだろうし、被害の甚大だった東北地方でも家や家族の被害状況、避難状況によってその境遇は異なる。あらゆる大災害は起きた瞬間から、風化・忘却を運命づけられている。だがどれだけ忘却できるかの度合いは各自の現状によって異なってくるのだ。

筆者個人のことを記せば、大震災で自宅の屋根が崩落し、長い順番待ちを経て修理が終わり、雨漏りしなくなって庭に積まれた瓦礫が片付くまでに震災発生から一年以上がかかった。そしてそれ以後震災が急速に遠ざかった。今はたまに大き目の地震が起きると当時の恐怖を思い出すという程度である。

大事なのは日常性の回復なのだ。

アウシュヴィッツでの経験を語り続けた作家プリーモ・レーヴィもその重要さを説いている。レーヴィは衣服、靴など、日常的なすべてのものを剥ぎとられたとき、自分の存在が完全に崩壊してしまったというのだ。

家屋が壊れ、室内いたるところに雨除けのブルーシートが敷かれていた期間、筆者の時間は膠着していた。日常性が回復したとき、初めて安らかな忘却へ向けて時間が流れ始めたのである。震災発生後、俳句総合誌などはただちに「被災地への励ましの一句」特集を企画したが、励ましを受け入れられるのは、日常の事物の剥奪による時間の膠着がとけた後の話なのである。

震災後のインタビューで金子兜太は、亡妻のイメージが生活の折々によみがえってくるさまを語っている。

「一日に二回くらいは出るんじゃないかな。お茶を自分でいれて、飲もうかというとひゅっと現れる。こんなふうに衣類のすそをつまんでいたなとか、こんなふうに笑っていたなと。淡々と現れて消えて、また次の映像が現れる。おそらく被災地でもそんな映像と一緒に過ごされている方は多いのではないですか。」
「自分が肥やされているという感じがないわけでない。日常がその分だけ豊かになっている感じかな。死者との付き合いは自然体でいいんじゃないですか。私は忘れようなんて思わない。無理に思い出す必要もない。」
(毎日新聞夕刊編集部編『〈3・11〉忘却に抗して―識者53人の言葉』現代書館、2012年)

だがこうした安らかな自然体の死の受容が成り立つのは、まさに「お茶をいれる」ことや「衣類のすそ」といった、記憶を呼び出すインデックスとなる日常性そのものの事物が健在であるからであり、生活環境の激変を被った人たちにはそのままでは通用しない。

津波被災者たちが喪った物件のなかで最も惜しむのは、家族のアルバム等個人の人生と尊厳に直結する、記憶そのものを形にしたような物たちだという。

マスメディアでは単なる数量としてしか報道されない、現在も避難生活を強いられている人々に、俳句を通して向き合わされる機会がときどきある。

同人誌「鬣」に所属する中里夏彦は、現時点での最新号第46号(2013年2月発行)まで六回にわたってエッセイ「避難所から見える風景」を連載した。

中里は福島県双葉郡双葉町に家族とともに住んでいた。爆発した福島第一原発からは約五キロメートル、一時帰宅は許されているが滞在できる時間は一時間に満たない。無住となった自宅はベランダに溜まった雨水が室内に流れ込んで天井が落ちるなど傷み続ける一方であり、今後戻れる見込みも半永久的にない。現在は避難所を出てアパートに移ったが、家族は三世帯に分離しての生活となったという。

いよいよ残る「避難所」は双葉町民が身を寄せる加須市の旧騎西高校のみということになるが、今春には双葉町役場の機能が福島県に移ることを町の議会が決定したことにより、「避難所」としての機能は維持されるものの、事実上のシニアハウスのような施設に様変わりすることになるだろう。

では、これでいよいよ原発事故被災者の「避難所」がなくなるのかと言えば、そうではない。仮設住宅であれ借り上げ住宅であれ、はたまた戸建てであれ、原発事故を原因として日々飛散を繰り返し、ふるさとの土壌や空気、そして水質を汚染する放射能から避難していることを考えれば、それぞれが現在いる場所はまさに避難所である(以下略)

(「避難所から見える風景」第6回、「鬣」46号)

中里はこれに続けて、今後の「想定外」の事故の可能性を考えれば、全ての国民が潜在的に避難所にいるのだと続ける。理屈ではその通りだが、「日常性」を回復できた者やそもそも影響を受けなかった者たちと中里たちとの間には千里の径庭がある。人は普通肉体苦そのものをリアルに記憶し続けることはできない。しかじかの怪我、病気によりこういう苦痛を味わったという言語情報が何がしかの漠然とした恐怖感とともに記憶できるだけである。日常性剥奪のただなかにいる者とそうでない者の違いはこれに似ている。


  瀑布(ばくふ)           雁首(がんくび)や
   かの       漂(とだよ)ひの
  天頂(てんちやう)の日(ひ)に       地(ち)は
  血(ち)は差(さ)しぬ     日(ひ)に痴(し)れて


 血のさした天頂の日、雁首を並べて呆け漂うしかない地など、同号に発表されている中里の多行俳句には、震災がもたらした心象の象徴化と取れる表現がある。どちらの場合も「日」が出てくるのが、一時なりとも非日常のなかにいた筆者には堪える。大災厄(それも天災だけならばまだしも明らかに人の悪が関与している)のさなかに何ごともないかのように照る日の明るさは、ときに耐え難いものなのだ。ワルシャワのゲットーから収容所に移送され、右なら生存、左なら死というナチによる選別をたまたま生き延びたヒレル・ザイトマンの激烈な憤怒の言葉が残されている。「太陽よ、お前は恥じないのか? どうしてお前はその微笑む顔を暗雲のなかに隠さないのか? どうしてお前は地獄の通路に身を隠さないのか?」(多木浩二『進歩とカタストロフィ――モダニズム 夢の百年』から、青土社、2005年から)

もっとも中里夏彦の場合、震災発生以前にも《前代未聞の/光量/そそぐ/頭蓋かな》(「鬣」38号)といった災厄を思わせる句があり、震災の影響がいかほどのものかはやや見定めがたい。この句は震災の年の年賀状に用いられ、中里の消息が途絶えたときには、知人からはこれが絶筆となるかと思われたという。

水が出るのにガスが使えず、シャワーのない一ヵ月は不便そのものであった。俳句に向き合うにはそれ以上の時間が必要だったが、俳句によって私は救われたのだと思う。俳句をしていなければ、何か他のものであったかもしれない。しかし、その縁による人たちからの思いがけない励ましは、生きる喜びをくれた。小熊座を退会した人からの気遣いの葉書、何年も前に俳句番組でいっしょだった人からの真心の電話…。もちろん、身近な家族からの力強い応援や会社からのあたたかな支援を忘れることはない。
(佐藤成之「現実を生きるということ」、「小熊座」2012年11月号、東日本大震災特集)

仙台在住の俳人、佐藤成之も被災した一人だが、ここで語られたような俳縁による思いもよらない援けを経験したのは佐藤だけではあるまい。結社に所属していない筆者ですら、場合によっては面識すらない全国の俳人たちからの多くの支援に驚いた。

安全圏からの詠嘆か、被災のただなかで一本の糸をつかむような句作であるかを問わず、震災に際して詠まれた句は、情緒化または審美化によって災厄を懐柔しようとするものが多かった。それは《瓦礫みな人間の物いぬふぐり》《車にも仰臥という死春の月》の高野ムツオにせよ、《双子なら同じ死顔桃の花》《卒業す泉下にはいと返事して》の照井翠にせよ変わらない(高野ムツオでは《陽炎より手が出て握り飯摑む》は命題やメッセージのわかりやすさを免れ、状況に即しつつ象徴と化し得て、ある不気味さを窺わせている)。

震災詠のみから成る句集『龍宮』を刊行した照井翠はその最も痛ましい例で、《なぜ生きるこれだけ神に叱られて》《毛布被り孤島となりて泣きにけり》《苧殻焚くゆるしてゆるしてゆるしてと》といった情緒化にすらいたらない手放しの嘆きや、《死にもせぬ芒の海に入りにけり》《喉に当てし氷柱を握る力かな》に見られる希死念慮など、ひたすら荒れ狂う自分の心を鎮めかねており、津波後の風景すら句集からほとんど見えてこないほどだ。

中里夏彦に限らず震災に直面した俳句作者はそれぞれの仕方で自分の資質と限界に直面したのだといえる。被災地で日常性が奪われたままの作者は、その名を言い当てさえすれば倒すことのできる怪物を前に言葉を絞り出すように震災を詠み続けることを強いられる。だが俳句の大勢、俳句表現そのものへの影響としては、震災の痕跡はほとんど残らないことになるのだろう。

「フクシマ忌」「東日本大震災忌」といった、いかにも座りの悪い新造の季語が歳時記に割り込むことができるかどうかといったレベルの話を別にすれば、早晩高濱虚子の唱えた「俳句は(地獄を背景に持ちはするものの)極楽の文学」という線に収束していくことになると思われる。災厄そのものの忘却もさることながら、過去のものとされつつあることを感じながら句材としての「瓦礫」や「放射能」にこだわり続けることへの“厭戦気分”が、作者当人にも拭いがたくなってくるのだ。震災によって筆者の眼に新たに浮上したのはむしろ、実社会と重なり合い、部外者には全く見えない網として日本中に広がっている俳縁による援けの思いがけない力強さだった。

震災発生から一年以上が経過した昨年7月と9月の二回、津波被災地いわき市への小規模なツアーが組まれ、筆者を含む七名の俳句作者が関東から参加した。原発事故で観光客も激減し、報道にも取り上げられなくなった現地の俳句作者たちからの呼びかけによるツアーだった。吟行が目的ではなかったがその後参加者たちは句を作るよう申し合わせ、それは冊子『いわきへ』として刊行された。売上を被災地に全額寄付するとはいえ、「励ましの一句」の類と同様却って被災地の人たちを不快にさせかねない営為ではあったが、さすがにここで「フクシマ忌」などを使う者はいなかった。

呼びかけた側の俳人・駒木根淳子はツアーに二度とも参加した三人の句を引いてこう鑑賞する。

  秋風や瓦礫の中の哺乳瓶   相子智恵
  累々と積む瓦礫より虫の声
  星月夜祈りの土地に祈るのみ
  小鳥来るいわきに釣りをする男   鴇田智哉
  まつくらな家にとんぼの呑み込まる
  秋の蚊にゆふぐれの血がついてゐる
  秋草の消防倉が納骨所   四ッ谷龍
  いわき市は深い卵として暮れる
  見つめなさい百の浜菊ひらくまで

再訪の作品では土地への深い情愛を感じるのだ。たとえば相子作の「瓦礫」を詠んだ二句に通りすがりの他者のまなざしはない。「祈り」という措辞に思わずという自然な心がある。「いわき」の固有名詞が入った二句も地元出身者として違和感がない。放射能のため長く禁漁を強いられた土地であったことを知る人の作だと頷けるのだ。そして四ッ谷作の「深い卵」の意味するところも、いまなお受難の地であり、時間が止まったままのような、まるでカフカの描く世界のような町を的確に表現したと共感する。特に鴇田作の〈まつくらな家〉〈秋の蚊に〉の二句は実景を離れ、描かれた昏さや不気味さが現代社会の矛盾や背理をも連想させ鋭い。
(駒木根淳子「現代俳句鑑賞 潮流'13」、「麟」44号、2013年4月)


ここでも「時間が止まったまま」という言葉が現れる。日常性剥奪の象徴である。俳縁の生じた個別具体の人々に対する、無事に生き延びてしまった者の罪責感情にも似た何かが、それを共有することを可能にした。『震災句集』で「俳句の非情性」の名のもとに、生き残った者の罪責感情を一切共有しない為政者じみた立場からの抑圧を正当化した長谷川櫂とは対照的である(被災地から遠く離れたまま俳壇を代表するかのようにいちはやく『震災歌集』『震災句集』を刊行した長谷川は、それによって震災俳句について真っ先に意見を問われる存在となった。この事例は危険な原発を受け入れざるを得ない地方と、安全圏でそこからの電力を享受する東京の格差を、俳壇が無自覚に戯画化してなぞっているように見える)。

そして駒木根の鑑賞には「現代社会の矛盾や背理をも連想させ」「昏さや不気味さ」を帯びて、もう一つの象徴的な名「カフカ」が現れる。カフカへの連想は、放射能汚染による被害が天災ではなく官僚組織と密着したものである以上必然的である。

 もはや粗野なものではなく繊細なものであるこの隷属=臣下化〔assujetissement〕から、われわれは主体〔sujets〕であるという輝かしい帰結を引き出しており、しかもこの主体たるや、自由であり、ある嘘つきの権力――われわれが神的起源の法に代えるにさまざまな規則や合理的な諸手続きをもってすることによってその超越性を忘却しなければならないかぎりにおいて嘘つきの権力の、およそ最も多様な様態を知に変容させることのできるものなのだが、それらの規則や手続きは、われわれがそれに倦み疲れるとき、なるほど人間的ではあるが、しかし怪物的な官僚組織から生じたものと見えることになるだろう(忘れずにいよう、官僚組織のおよそ最も残酷な諸形態を天才的に描き出していると思われるカフカが、同時に、官僚組織を前にして、ある神秘的な、かすかに退化した権力の異様さをそこに見て取って頭を垂れているということを)。
(モーリス・ブランショ/守中高明訳「隷属から主体へ」、『他処からやって来た声』以文社、2013年)


フーコーを論じて「重大なのは、実際、分割することである。重大なのは、排除することである――排除されるものあるいは分割されるものではなく」と、狂人自体の劣悪性など問題ではなく、それを分割し排除するものとしての権力が重大だとするブランショは、その分断が排除される側の主体形成にまで及び、ついには権力を振るう官僚組織がほとんど信仰の対象として内面を支配してしまう機微へと語り及んでいく。

原発事故・放射能をいかに詠むか(詠まないか)は、こうした領域にも関わってくる。『俳句』2011年5月号が震災特集を組んだ際、原発事故・放射能について触れた作者が極めて少ない(恩田侑布子の近著『余白の祭』によれば「7%という少数派」)のが異様で印象的だった。危険と思っていないのか、触れてはならないと思っているのか。それとも感知できない以上表現不能(または不毛)ということなのか。

こうして事物たちと語るとき、私たちはつねに、いったいどこからそれらがやって来ていったいどこへ行くのかを知るために、それら事物たちに問いかける途上にいます。これはつねに開かれた問い、決して終わることのない問いであり、〈開かれたもの〉、空虚、自由なるものを指し示しています――そこでは、私たちは遠く外にいます。詩が同じく探し求めているのは、この場所なのです。
(Paul Celan Gesammelte Werke、引用はブランショ前掲書から)

詩の根拠としての空虚、自由な「外」を探るパウル・ツェランは、そのためにこそ事物たちと語ることを要請する。ツェランは言うまでもなく「アウシュヴィッツ以後」を生きた詩人だが、この探求される「外」とは放射能とは似て非なるものだろう。俳句においてはこの「外」は季語を配することによっておこる審美化、相対化(言い換えればインスタントな救済)によって、直接には探求の対象とはされていない領域という気がする。

ここで季語を考える上で示唆的なのが、現代数学のコホモロジーの概念である。


中沢 例えば3という数字を法にしてすべての自然を分類していくとすると、4は1(4=1×3+1)、5は2(1×3+2)になります。そして、6は3の倍数ですから0(6=2×3)になる。そういう風にして循環が起こるんですね。つまり無限数の世界の何かを法にして分類すると有限性に閉じていくのです。この有限性に閉じた世界の中から、もともとの数の一個一個の情報を全部取り出せるというのがコホモロジーです。
(中沢新一・國分功一郎『哲学の自然』太田出版、2013年)


らせん状に閉じながら、無限に開かれた世界の情報が復元できるというのがコホモロジーの強みだと中沢はいうが、これは歴史上一度しかない直線的な「2013年の春」が同時に「2011年の春」や芭蕉の時代の「春」でもある季語のありかたにひどくよく似ている。『哲学の自然』では、この「閉じて開く」「開いて閉じる」「そして外からやってくるものを歓待して送り出す」「対立なき区別」として、グローバル化に呑み込まれない「群島」の概念が捉え直される。

國分 最近よく思い出すのですが、僕が大学生だった一九九〇年代後半には、「とにかく閉じられているものはいけない。開かれているのがいい」というイデオロギーがものすごく強かったんです。はっきり言って、それが新自由主義的思想の下地になってしまったところがあると思う。でも、いまから考えると「何でも開けばいい」というのはあまりにも安易です。これは「共同体/市場」という粗雑な対立を疑わない非常に単純な思考だったと思う。
(同書)

多くの俳人が持つ季語への信仰に似た感情はここに由来するのかもしれない。季語は四季という円環状の「閉じ」であると同時に短歌などの他ジャンルが持たない規制としての「閉じ」でもあるからだ。もうひとつの信教的要素「結社=師系」も明らかに閉じつつ開いた「島」を成す要素である。『いわきへ』なども俳縁という群島間の出入り、「開け」の一例だろう。俳句という詩が探求すべき「外」はさしあたり季語という「島」の形で閉じ=開けている。

小澤實は《翁に問ふプルトニウムは花なるやと》と、芭蕉への問いかけの形で放射能への戸惑いそのものを一句にした。プルトニウムは通常人為が介在しなければ世界に現れない有害物質だが、それだけではない。放射能は永遠にも近い一直線に開いた遠未来を、半減期という形で世界に導入してしまい、季語のようにらせん状に閉じることがないのである。これはおそらく「花」ではない。放射能は詩が目指す「外」のグロテスクな戯画のようなものであり、俳句が今後その馴致に努めるということもないのだろう。それは表現行為にとってひとつの衰弱である可能性もあるのだが。



1) 被災の記 ≫読む
2) わたしの一句《Eカップとわれも名乗らん春の地震》 ≫読む
3) 震災発生一年目 ≫読む

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