特集・三年目の3.11
関悦史「震災関連」文集(1) 関悦史
被災の記 (豈52号 2011/6/13送稿)
震災から三ヶ月が経過したが、私の家はいまだに落ちた屋根瓦がいくつもの頭陀袋に詰められて庭に山積み、壊れたブロック塀や門柱がごろごろと下ろしたままになっていて、廃墟のようである。
一帯が似たようなものだ。うちも含め市内の至るところブルーシートを被せられた屋根がある。みな屋根瓦が落ちたのだ。
震災直後から電話帳に載っているあらゆる屋根屋は予約数百件、三ヶ月待ちとなった。二三週間後市役所で無料相談に当たっていた建築士に聞いたらそれが三年待ちとなっていた。私が生きている間に修理に来てもらえるのか。市役所への長途、自転車で桜を見た。亀裂崩落だらけの街にはむごく白々しかった。
いま市街をまわると、一見無事と見えていた古いビルが次々に取り壊されている。公園になっている城跡は櫓門や資料館などの漆喰が大きく剥落した。私が子供の頃から 毎日舗道に台を出してルーペなどを飾っていた赤レンガの時計屋は大破し、あっという間に更地になった。うちの裏手のブックオフも震災後復旧することなく空き店舗となった。書店もろくにない土地で、古本屋もほぼなくなり、本をじかに探せる場所がなくなった。日々想像以上の閉塞感がある。
家の内壁は亀裂だらけだ。亀裂は出鱈目に走るわけではなく、壁の裏の板の継ぎ目にそって垂直、水平に大きく走る。風呂場は壁の漆喰が割れ落ちた。家が緩んでからの「震度五」は堪える。震災後最初にガスに点火するときは怖かった。築三十年経つ家なので、腐食しやすい白ガス管が埋設されており、自己負担で交換工事をするようガス会社から督促されていたのだ。昔は吹かなかったような大風でブルーシートが土嚢もろともずれ、音を立てて雨漏りがした。部屋の中までは漏らなかった、天井裏の一区画がプールと化したようでしばらく色が変だった。雨漏りは当然予測されたので、家じゅうに散乱した本は本棚に戻さず、ポリ袋に入れて床に積んだ。
震災後しばらく片付ける気力もなかったがツイッターへの書き込みを見て、三月二十一日に四ッ谷龍さんが突如ひらりと手助けに来てくれ(この時には常磐線も上野~土浦間は便数減らしつつも運行再開していたことになる。土浦以北はその後も不通の期間が長かった)、おかげで一日で 袋詰めの作業を終えられた。余震もひどいので本はそのままとなっており、調べ物のときには少々不便。このとき四ッ谷さんが土産に買ってきてくれた和食の弁当は久々のまともな食事だった。チョコやクッキーでしのいでいたので、口に入れてバリバリいわない飯は有難かった。
被災直後から携帯電話でツイートしていたおかげで、あちこちの知人が救援物資を送ってくれた。九割がたは俳句関係者で、一度句会でお会いしただけとか、さらには直接面識のないネット上だけで繋がっているような人たちまでが、こちらで要るものを訊き、飲み水、乾物、薬、マスク、見舞金等々、後には入手難のブルーシートなどまで送ってくれた。三月中は毎日送り届けられる段ボール箱の開封解体ばかりしていた気がする。これは予想外の動きだった。
三月十 一日、最初の大揺れで本と本棚の海と化した自室から、動かなくなった襖を蹴り開けて表に出、近所の人たちと顔見合わせていたとき、誰かに「関さん、あれ」 とうちの屋根を指差されて粉々に崩落しているのを見たとき、自分はもう死んだと思ったのだった。地震自体では死ななくても、家を直せる資金はなく、移る当てもない。荷物の配送は大地震の翌週辺りには復旧していた気がするが、灯油が店に入らず二週間以上入浴できずにいた。鴇田智哉さんが避難してこっちに風呂 に入りに来いと本心から言ってくれたが、行けないままになってしまった。
三月十一日は最初の、大地ごと巨人に篩にかけられたような長い巨大な横揺れで飛び出した後、一旦総崩れの屋内に戻って電池式のラジオを探し出した。電気、ガス、水道は全部止まった。ラジオは、祖母を入院させていたときに大相撲中継でも聞けるようにと買って病室に置いておいたもので、衰弱の進んで いた祖母にはあまり使ってはもらえず、没後は放置されていたのだが、約六年ぶりに役に立った。ご近所とラジオを聞き、東北が震源で大津波があったと知った。聞いている間に大余震が来た。おばさんの一人は悲鳴を上げて木につかまり、私は地に座した。曇天以外の全てが轟音を上げて突き上げてきた。うちの瓦が バラバラ落ちた。ブロックの散乱する脇道から家に戻り、とりあえず玄関から居間までの散乱物を歩ける幅だけ取り除けた。
二軒先の主人が善応寺では井戸水が汲めると教えてくれたので夕暮れに下りて行ったが、弟の同級生の若い住職に聞いたら、近所の人たちが水を汲みに来ていたが水が濁ってしまいもう駄目だという。
カラのペットボトルとラジオ、懐中電灯、貴重品を詰めた鞄を提げたまま、昵懇の氷屋に行った。ここは血縁ではないが、私が一人で祖母の介護に当たっていた頃、奥さんが度々来てくれて、入院先へ車で私を送迎してくれたり、何くれとなく世話を焼いてくれたのだ。ここはガスボンベがあったので地震後も火が使えた。ラジオを聴きつつ蝋燭の灯でその日最初の食事にありついた。石油ストーブもあった。水は濁る前に寺で入手できたらしい。停電で自販機も商店も信号も 井戸水(汲み上げにモーターを使う)も止まった。そのまま泊めてもらったが貴重な水をトイレには使えず、小用は外で足した。闇の底を恐ろしい数の車が渋滞しながらどこかへ向かっていた。何の用があるのかわからなかったが、帰宅難民になった家族を迎えに行った人もいたようだ。
氷屋の奥さんは翌朝足を引きずっていた。夜中の大余震で落ちた戸板にやられたのだった。私は一晩中ラジオを聴き、ツイッターを見ていた。氷屋のある区画は十一日深夜に停電が復旧したため 携帯電話が使えた。翌日、寺の井戸に人が群がっていたので私も並んで汲んで帰ったが、うちの辺りは翌々日まで通電せず、結局二晩泊めてもらった。
家では祖母に使っていた残りの紙オムツ等で簡易トイレを作った。うちで水道が出たのは三月十五日になってからだった。市の防災無線が放射線量を発表していて、信用していいか迷いつつやがて飲むようになった。水は品薄だった。電気は来たがアンテナが倒れ、津波の映像はいまだにほぼ全然見ていない。廃墟同然の家で放射能に脅えつつ一人乾物ばかり食う破滅SFじみた日が続いた。
屋根復旧の目途が立たず、雨音を異常に恐れるようになったほか今特に不便はないが、日の流れに取り残されるようで、気を抜いたら自然に首を吊りそうな気もする。俳句はしばらく作れなかった。長谷川櫂氏が、こんな状況で句や歌を作る気がしないという声も聞くが、それは詩歌が無力なのではなく、そういう人の作品が無力なのだと書いていた。テレビを見ている側はともかく、被災地で自失している者にとって、これは石原都知事の天罰発言に等しい言葉の暴力だった。
「かりそめに死者二万人などといふなかれ親あり子ありはらからあるを 長谷川櫂」。被災地の個人個人を数量化して片付けているのは長谷川氏自身ではないかと思った。
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2014-03-09
特集・三年目の3.11 関悦史「震災関連」文集 1)被災の記
Posted by wh at 0:24
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