俳句に似たもの 4
漫画
生駒大祐
「天為」2012年8月号より転載
ギャグ漫画を読んでいていつも注目してしまうのは「オチ」、すなわち起承転結における結の部分の描写である。
ギャグ漫画にはテクニカルな意図がある場合を除いては通常オチがあるが、その表現方法は作者によってさまざまである。オチにおいて漫画の登場人物たちは、ズッコケたり、ツッコんだり、驚いたり、あるいは無表情を浮かべたりする。
オチに注目してしまうのは、そこに漫画の世界と読者の世界を繋ぐ橋が架かっているからだ。すなわち、ギャグ漫画のハイテンションで荒唐無稽な世界と、文字通りリアルな読者の世界の狭間において、「ここで世界を受け入れて笑え」というエクスキューズを作者が設けているのがオチの部分なのだ。
俳句というものにある種の「オチ」があるとすれば、それはおそらく切れの部分において、である。
女来と帯纒き出づる百日紅 石田波郷
椎若葉東京に来て吾に会はぬか 波郷
女が来たので帯を巻いて出て行く、東京に知人を誘い出すという作者の現実の俗の世界と、句の匂いをワンワードで決めてしまう密度の濃い季語の雅の世界をやすやすと繋げてしまうということが、切れが断絶ではなく橋渡しであるという事実を露わにしている。
桐の花昼餉了るや憂かりけり 波郷
東京の椎や欅や夏果てぬ 波郷
その意味で、吃音的なある時期の波郷のリズムは、ギャグ漫画家の増田こうすけの一部の作品の畳み掛けるようなギャグのリズムと似た部分がある、かもしれない。
一方、スポーツ漫画におけるリアリティの獲得というのはギャグ漫画とは違った有り様を持つ。
スポーツ漫画の現実性は、登場人物たちが物理法則でも法律でも道徳でもなく、そのスポーツのルールを(それを「破る」ことも含め)「必ず順守しなければならない」という一点の規範に凝縮されている。
逆に言えば、それさえ守っていればどんなに超人的な高校生球児が登場しようともその漫画のリアリティは確保される。あだち充の野球漫画H2において二人の超高校生級の主人公である比呂と英雄に読者が感情移入してしまうことは、極端に言えば野球というスポーツのルールに感情移入していることに等しい。
俳句における絶対の規範とは何かと考えたとき、それは季語でも韻律でもなく、一句がある人間の思考活動によって造られたものである、ということであろう。
それを敷衍してゆくと俳句におけるコンテクストの重要性に繋がるが、この文字列が偶然発生的に作られたものではないということを信じること、すなわち景やテクニックといった些末な問題のはるかかなたに存在する作者に触れられる唯一の手がかりがこの一句であると信じることが、俳句を俳句たらしめている規範ではないか。
静岡より私をいんどにながす夕波 阿部完市
俳句に感情移入することは作者に感情移入することに等しい。そう考えると、楽しくて良い、そう思うのだった。
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