2014-05-04

空蝉の部屋 飯島晴子を読む 〔 20 〕小林苑を

空蝉の部屋 飯島晴子を読む

〔 20 〕


小林苑を


『里』2012年2月号より転載

ぼろ市の嵐寛のブロマイドかな  『寒晴』

東京も初雪となる。身が凍る。

というので < 凍鶴となる際の首ぐぐと入れ 『寒晴』> を取り上げようと思っていたが、前回は凍蝶の句だったと気付く。別にいいようなものだけれど、違う雰囲気のものをと掲句とする。ぼろ市と凍鶴の景。雰囲気は違うが、どちらにも勢いというかスピード感がある。『八頭』から『寒晴』の頃の晴子には、そんな印象の佳句が多い。

小林貴子が < 金屏風何とすばやくたたむこと 『八頭』 > について、スピードということをいっている〔※1〕。句意がスピードそのものでもあり、表現に「一気言いおろしの迫力」があるとの指摘通りだが、この句でなくとも「凍鶴」や < 軽暖や写楽十枚ずいと見て 『八頭』 > の「ぐぐ」や「ずい」というオノマトペにも勢いがある。掲句も、「の」「の」と重ねて力づくで一気にブロマイドへと焦点を絞ってゆくとき、速さを感じる。五五七リズムや「かな」でしっかり切ることでその効果を上げている。例えば、「ぼろ市の団十郎のブロマイド」ではこうはいかない(団十郎は中七になるように任意に選んだだけです)。

これらは、すべて写生句と言ってよいだろう。写生なのだが景よりも気分が伝わってくる。むろん具象あってのことなのだが、このスピートが爽快感を生む。

嵐寛といっても、若い人たちにはピンとこないかも知れない。嵐寛壽郎を縮めて「アラカン」、ももクロみたいに、誰もがそう呼んでいた愛称である。三百本以上の映画に出演した、銀幕ということばが生きていた頃の大スターなのだが、どこか滑稽味というか愛嬌というか、俳味のある役者だった。京都人でもあり、晴子にはなおさら近しい気のする俳優だったかもしれない。

ブロマイドというのも近頃は聞かなくなっているが、この売れ行きが人気のバロメーターだった時代がある。ぼろ市は冬の風物詩で、なんでもあるが売り。そのなんでもの中に昔のスターのブロマイド。掲句が作られたのは昭和六十一年。嵐寛が死んだのは五十五年で亨年七十二歳だが、そのブロマイドには颯爽とした嵐寛がいるはずである。当り役「鞍馬天狗(のおじさん)」の姿が浮かんだりする。

そんな風に説明すると物悲しいようだが、庶民的なぼろ市の賑わいや嵐寛の持つ温みから、可笑し味のある句。「あらアラカンじゃない」と懐かしいものに出会った瞬間が切り取られている。

ながなが書いたのは、掲句の持つ味わいを少しでも伝えたいから。書かれた時の書き手と読み手にあった了解は失われていくしかないことが多々ある。それはそれでいいんじゃないかと思うと、説明は蛇足かもしれない。

芭蕉の「狂句木枯の身は竹斎に似たる哉」も教わってなるほどと納得はするが、当時「竹斎」と聞けば誰もが了解できたはずの、その了解のほんとうの中身、聞いたとたんに伝わる面白さは実感することができない。

スピード感の話なら時代が変わっても作句法として語れるが、俳句は技法と素材が混然一体となって、瞬時に伝わるのが魅力。連歌は、連衆が和歌の素養はもちろん、諸々含めて素材となる多くを共有しているという前提で成り立っており、連歌から生まれた俳句もまた、読み手を信じて書くしかないところがある。掲句の実になんでもない景が作品であるというのも、読み手の側の瞬時に働く連想力、想像力あってこそだろう。

だからといって、俳句に使用してはいけない言葉(素材)があるとは考えないが、一方に、読み手に伝わり難い新語とか略語は使うべきではないという意見もある。最近は、三歳違うと世代ギャップがあるとか聞かされるし、溢れる情報は総オタク化というか、マニアックになる環境が整っているしで、私などネット検索に頼らないとわからない句も少なくない。すべての作品がわかるわけもないが。

晴子の俳論は常に実作者の立場から語られる。―自伝風にーとサブタイトルを付けた「わが俳句詩論」で、「自分の方法を見出すのに、私ぐらい時代の落差を利用したケースは少いのではないか」「私の育った時代を裏切るのも、次の時代に乗るのも、割合しぜんであった。しぜんであるということは、方法意識より、まず先に作品がムズムズしてくるということである」〔※2〕といっている。ここでいわれるのは、論理とか理念とか、晴子に従えば「言葉の秩序」の時代性ということであるが、なによりも「作品がムズムズしてくる」のだというところに納得する。

『八頭』『寒晴』に感じる作風の変化は、意図的というより、俳句形式に身を委ねたた結果「しぜんに」という方が当たっているようだ。「ホトトギスの人たちが、自然の事物を相手にしているのと同じ作業を、私は言葉を相手にしてやってきたことに気づく〔※3〕という頃から、変化の芽生えは始まっていたのかもしれない。

〔※1〕『12の現代俳人論』「飯島晴子論 ―アナーキーな狩人―」二〇〇五年
〔※2〕『飯島晴子読本』収録 「わが俳句詩論」『俳句研究』一九七七年五月
〔※3〕『飯島晴子読本』収録 「写生と言葉」『青』一九七五年八月

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