2014-05-04

BLな俳句 第3回 関悦史

BLな俳句 第3回

関悦史



『ふらんす堂通信』第138号(2013年11月)より転載

  シャワー浴ぶ同性愛の片割が   鷹羽狩行『遠岸』

「同性愛の片割」というのはちょっと突き放して客観的に見ている感じの言い方で、当事者として詠んでいるわけではなさそうです。デイヴィッド・ホックニーの絵が題材になっているのかもしれません。

「片割」なので二人一緒にシャワーを浴びているわけではなく、相方のもう一人は別のところにいる。その相方の視線とも、三人称的な純然たる客観ともつかない視線のなかで、性愛の片割たる裸体が水を浴びている。クールな書き方の中に余熱や欲望をほんのわずかに漂わせた句です。


  男色や鱗だつ冬松の幹   橋閒石『無刻』

痛そうな肌ざわりが際立ちます。これまで取り上げてきたものとは風合いの変わった句で、小奇麗でないリアルなものとしての男色を隠喩的に描いている。

橋閒石というと《銀河系のとある酒場のヒヤシンス》《蝶になる途中九億九光年》《階段が無くて海鼠の日暮かな》といった、気品のあるなかにも不可思議で実体性を突き抜けたような句で知られている作者で、その意味でもちょっと意外性のある句かもしれません。

ヒゲやすね毛の感触を連想させますが、冬松は考えようによっては清潔感やたくましさに裏打ちされた、寒気のなかで凛然としている様式美があるようでもあり、その辺にひっかかり始めると、BLの中でも少々ディープな「オヤジ」方面へと読者が深入りしてしまう危険もあり。


  男同士もいいなあと見て松の花   能村登四郎『寒九』

「松」でもう一句。

能村登四郎は前に林翔との関わりで一度出てきましたが、本人もこういう句を詠んでいる。

「松の花」が露骨に男性器を連想させてしまいますが、「男同士もいいなあ」というのほほんとした口調が生臭さを殺いでいます。それでいて色香への関心はもちろん抜けていないので、ぬけぬけとした軟体動物的な、あるいは空気のような希薄なものの眼差しに包み込まれた「男同士」の位置に、男性なら誰もがいつすべり込んでしまわないとも限らないという軽い戦慄も秘めている。

この「男同士」も、「いいなあ」と思われる以上、それなりの美しさを持った者たちのはずで、男色が特に異常と見られていなかった江戸時代以前の美意識を持った妖怪じみた何ものかが、不意によみがえってその辺に現れたようなほのかな妖気も感じさせます。


  桐咲いてほつそり育つ男の子   飯島晴子『儚々』

並列されることで植物のイメージがそのまま「男の子」のイメージに重なる作りの句で、高貴さの象徴として紋様などによく用いられる桐の、紫色の典雅な姿が「男の子」のキャラクターを決定づけています。

一見単純な方法ですが、それだけに普通はあまり大した句にはなりにくい。

この句の場合は上五から中七への「咲いて」「ほつそり」「育つ」の合わせ技が巧妙に働いています。

これで「桐」と「男の子」が単に並べられただけではなく、植物が生長してゆき、花開くように、句の言葉自体がそのゆるやかな動きの生気と色気をなぞってゆき、「桐」が「咲く」ことが「男の子」の存在へと連続性を持って波及することになった。「ほつそり」「育つ」が貴族的な植物の生育のイメージを保ったまま、文法的には「男の子」にかかっているので、自分に見とれて百合に変身してしまうナルシスの変貌を逆回転させ、植物が変容して「男の子」が現れたような秘蹟感がすんなり腑に落ちるように描かれています。「桐の精のような」といってしまえば陳腐で性急な説明に終わってしまうところを、言葉の組織の仕方でここまで精妙にできるのだという見本のような句です。


  少年を打てば薊の香を発す   河原枇杷男『密』

この句も植物と少年がイメージを映発させあっていますが、外見的なことだけではなく「打てば」を蝶番にしてあり得ざるものを立ち上げています。

「打てば~香を発す」のつながり方からすると、単なる憎悪や懲罰として打っているとは思えない。

《天の川われを水より呼びださむ》《身の中のまつ暗がりの螢狩り》《ある闇は蟲の形をして哭けり》といった、己の内奥に沈潜することで宇宙的な生動に達しようとする作者の句だからということを抜きにしても、それらの句に通じる宇宙論的な悲哀の情がここにも満ちています。

「闇」が「蟲」になったり、「水」から「われ」が出てきたりするように、この「少年」は「薊」を内在させている。その潜在させていて、見えなかった「薊」が「打たれる」ことで不意に現れる。「少年」の本源のところをあらわにするには「打つ」という加虐が必要だった。打った者はそのことを知っていた。宇宙論的なスケールの悲哀はここから生じます。打った者のなかにも「薊」あるいはそれに類する何かが潜んでおり、それが少年に感応している。二人はこの世のものならぬ回路においてのみ結ばれており、その深い結びつきを鮮烈な苦み走った香りとして露出させるのが「打つ」行為だったわけです。


  月の出の少年眠る棘の中   高橋修宏『蜜楼』

少年の内面というよりも、その存在感覚を象徴的に摑んだ句。

「眠る」で普段の意識や感情を取り払い、それとは違う、より深部にあるものにふれようとしています。

「月の出」でそこに急にスポットライトが当たったような形になる。ここでも静かに、しかし強烈に心の奥まで届く月の光が用いられ、日の光の明視性や合理性が避けられているので、外見や個性よりは、「少年である」ことの柔らかさ、痛ましさ自体に焦点が当てられます。

マンガ表現にありそうな、ある種決まり過ぎた絵柄かもしれませんが、月光となって棘の中に浸透し、そこから少年を探り出すようにして深部をなまなましく感じ取りながらも作者は陶酔してはおらず、俳句としては下五を「~の中」で止める(飯田龍太がよく用いた)端正な句形に収め、美しい絵を浮薄にも自己愛の垂れ流しにもならない形で、静かな実在感をもって着地させています。


  少年戀ふ少年毛布乾酪(チーズ)   馬場駿吉『薔薇色地獄』

少年同士の性愛を正面から描いています。「毛布」が冬で有季句。

和歌でも恋歌は自分の辛さを訴えているものが少なくないので、毛布のなかで煩悶しているらしいこの少年はその意味でも伝統的といえるかもしれません。

毛布と少年の肌が触れ合う感覚にまずリアリティがかかっていますが、「乾酪(チーズ)色」という毛布の色の特定はどういう効果を持っているのか。派手な原色や、明暗のはっきりした白や黒では邪魔になるし、「灰色」では不毛の含みが勝ちすぎる。モチーフの邪魔にならず、適度に生気もあるこのくらいの色調が合っているのかもしれない。気をつけたいのは「黄土色」ではない「乾酪色」という言い方で、生乳が発酵して柔らかい固体になるまでの時間(悶々たる恋情が発酵するところまでこじれる時間)とにおいを含意しています。「蜜柑色」や「菫色」であれば、だいぶ印象が違っていたはずで、少年の若々しさや瑞々しさが強く出ることになる。くすんだ「乾酪色」に、少年の身体のやりきれなさがぼかし込まれています。二人の少年の差異もほとんど感じ取れず、自体愛の延長としての少年愛という要素が隠微にあらわれてきます。


  少年の味蕾ひしめく上に茱萸   馬場駿吉『夢中夢』

こちらは少年の口中、舌に焦点が合わされていて、咀嚼され押しつぶされる茱萸と「味蕾ひしめく」やや悪夢的な広がりを見せる物件としての舌とが、「少年」というスケールの違う統一性と同時に描かれ、その図法や遠近感の狂いが、マニエリスム絵画の細密描写を見るような異様な眩惑感を生みだします。そして、その体内で繰り広げられる茱萸へのグロテスクな加虐に荘厳されたものとしての「少年」が背後から浮かび上がる。少年の美しさの深奥を、迷宮化した身体として描き出していて、こういう句はありそうで意外と見かけません。

馬場駿吉は美術に造詣が深い作者で、少年を審美的に描いた句を多く作っています。《枇杷すする少年の唇(くち)すでに堕ち》《腋萌えてなほ少年期薔薇剪り魔》《天使廣場灼け少年に翼無し》《百合ひらき若者奇蹟無體験》《少年の蒐集自殺記事と蝶》《薔薇の夜の王子(ジャック)失踪せし繪札》《少年に睡魔の狙撃百合の晝》《汗つたふ聖歌隊より堕ちし喉》(いずれも句集『夢中夢』から)。


  競泳の水の強さを割つてをり   中尾公彦『永遠の駅』

これも肌ざわりから泳者の肉体を感じさせる句。

男性とは断っていないので女性の泳者と取ることもできないわけではありませんが、「水の強さを割つて」進むという内容がいかにも男根(ファロ)中心(セント)主義(リスム)風なので、男性と取って当連載に入れてしまいます。

句の見所は「水を割る」でもなければ「強く進む」でもない、「水の・強さを・割る」という言葉の配列にあって、ここに量塊としての水の抵抗感と、それを割って進む肉体の強靭さが、圧縮して表現されています。

「競泳」つまり競争であるところから、自転車で鉄道と競うアルフレッド・ジャリのシュルレアリスム小説『超男性』や、そこからミシェル・カルージュが引き出した、花嫁にたどりつかない不毛な機械的独身者という説話類型にも連想は及びます。句が描いているのはあくまで競泳する身体の力強さのみですが、清潔感のある躍動する肉体への礼賛がその裏に必ず虚無的なものを控えてしまう機微こそが、じつはこの句を即座に男性と思わせる当のものであるのかもしれません。

プラグスーツのような表面性の美に還元し得てしまうものとしての男性が、横一線の競泳を通じて味わう、力の限界のなかでの連帯感、とそこまで無理に読むとかなりBL的になります。


 

触手 関悦史

スパッツの美童にサドル冷え硬し

男なら尻さはられて秋の暮

青年ペアの買物籠に貝割菜

青年や秋もろもろの縄のからみ

湯気立や女装男子の細身と座し

少年の声の漏れゐる襖かな

少年なら春の夜風はみな触手

弟と名乗れる月下美人かな

裸にシーツの男子同士が写メールに

百年後や少年なりし百合二本

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