今井杏太郎論2
杏太郎の「て」について
生駒大祐
杏太郎の「かな」はその前に軽い切れ、特に「て」を伴うことが多い。
桐の木が一本あつて夏野かな 杏太郎
馬鈴薯の花咲いて雨ばかりかな
老人が被つて麥稈帽子かな
『麥稈帽子』夏の部から引いた。
ところで、「かな」と「て」を同時に使った用例としてもっとも有名なのはおそらく、
田一枚植て立去る柳かな 芭蕉
であろう。
この句には興味深い指摘が既に多数なされているが、僕がこの句の「て」の効果として感じるのは、「時間の演出」である。すなわち、田を植えるという時間のかかる行為を一句の中に収めることに成功しているのは、「て」の切れの働きであるように思うのだ。
また、「て」には空間的な演出を行う効果もある。たとえば、
ソース瓶汚れて立てる野分かな 波多野爽波
湯気立てて山に稲荷の鳥居かな
などの爽波の句においては、「て」は場面転換の演出に一役かっている。すなわち、「ソースの瓶汚れて」までは抽象的な概念の世界の言葉であるが、「立てる」と言い切ることで句の世界は三次元となり、「野分かな」でその空間は一気に広がる。また、「湯気立てて」の句は「て」の前後の全く異なる空間軸にあるモノを一気に繋げるという行為が行われている。
以上のような「て」の性質は、「や」のような強い切れが持っているものとよく似たものであるように思われる。
しかし、「て」は切れが弱いが故に、二つの時間的、空間的に実質大きく離れているものを「もやっと」「なんとなく」繋げてしまう効果がある。「や」はよく言われるように(長谷川櫂氏の「古池」の句への論考などにもあるように)、言葉を意味の上でも空間的・時間的に引き離す切れであり、それは「て」が意味の上では厳密には切れていないことと大きく異なる。
そのようなことが、俳句初心者が「て」をあまり使わないようにとしばしばアドバイスされる理由なのかもしれない。「て」は便利でつい使ってしまう反面、テクニカルに制御するのは難しい切れなのだ。
杏太郎は、その「て」を多用することを選んだ。そのせいか、杏太郎の句は一見ごく素朴な印象を読者に与える。引っ掛かることなく、すっと句の世界がからだのなかに入ってくる。
しかし騙されてはならない。杏太郎は実はとても変なことを言っている。
この連載のなかで、いつか杏太郎の「変」なところについてじっくり述べたいと思う。
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