2014-05-04

今井杏太郎を読む2 麥稈帽子(2)

今井杏太郎を読む2
句集『麥稈帽子』(2) 
                                                                                
知子:茅根知子×大祐:生駒大祐×:村田篠

≫承前
『麥稈帽子』 (1)春

◆テクニカルな「切れ」◆

篠●では始めましょう。今回は『麥稈帽子』の「夏の部」を読みます。生駒さんからお願いします。

大祐●僕が気になった句は

朝早く起きて涼しき橋ありぬ

です。切れが面白い句だな、と思います。

杏太郎さんは『魚座』の中で「俳句は切れを中心的に考えなくてはいけない」と書いておられるのですが、「や」「かな」で切れる一般的な切れだけではなくて、強い切れから弱い切れまで、すべての領域に渡って微妙に制御をされているところがあります。

この句は「起きて」で少し切れていますが、「涼しき」は「起きて涼しい」と「涼しき橋がある」のどちらにも読めます。「朝起きたら橋があって、それが涼しい」ということなのですが、テクニカルに切れが使われていて面白いなと思いました。

篠●「朝早く起きて」と「涼しき橋」を、モチーフとして1句の中でつづけてしまうというのはひねった展開だな、と思います。でも、橋が涼しいわけではないですから、じつは「涼しき橋」とはふつうはあまり言わないんですよね。

大祐●「涼しき橋ありぬ」という言い方も杏太郎さんらしいです。朝早く起きたら涼しいのは当たり前で、そこまではほかの人の句でもあると思うんです。でも「涼しき」が「橋」に掛かってゆくところに、変なことを言おうとしているな、という感じが少しあって、そういうところも非常にいいと思います。

知子●この句は、要は「夏の朝は涼しい」ということを言っているんですよね。

私は「起きて涼しき」ではなく「涼しき橋」と読みました。涼しい橋があるわけじゃなくて、ただ「橋を涼しいと思った」それは「朝早く起きたから」イコール「夏の朝は涼しい」と、それだけのことなのです。当たり前の顔をして、実は隠しメッセージを入れているから、何度か読むうちに変な切れに惹かれるのだと思います。

大祐●強い「切れ」にこだわる人だったら、もっと切って〈朝早く起きし涼しさ〉というふうにも詠めるところを、そうせずにひとつながりで詠んで、そのなかで微妙な切れを使ってくるところが杏太郎さんだなあ、という気がします。

前回の「今井杏太郎論(1)の中に書きましたが、説明にならないように気を遣っている、という感じがします。最後に情景だけが読者の前に立ち上がるようにつくられているんですね。自分がそう感じたからそう言っただけ、ということなんです。例えば〈朝早く起きし涼しさ〉だったら「朝早く起きたら涼しいんだよ」という一般的な事実のようになってしまいますが、この句だと、こういうことがあった、一個人が感じた、という書き方になっていて、主観を押しつけないところが好きです。

知子●「涼しさ」にするとその言葉が強調されて季語が目立つのですが、この句では目立たないんです。一読したときは夏の朝のイメージですが、「夏の朝」とは書いていないので、一瞬季語がどこにあるのか分からない、そういうところも面白いですね。

篠●なにかひとつの要素が突出しないで、全体になめらかです。だから、ふわっとした夏の朝の空気感が残る、という感じがします。

大祐●言葉に無理をさせないというのが、杏太郎さんらしさのひとつかなと思います。取り合わせや二物衝撃というのは、言葉の意味や象徴性に作者自身が踏み込むというやり方なのですが、この句のようなやり方だと、自然に立ち上がるものを詠むことになり、言葉に無理をさせない、ということになるのだと思います。


◆「かな」を軽く使う◆

篠●では知子さん、お願いします。

知子●

桐の木が一本あつて夏野かな

です。

例えばこういう句を杏太郎が句会で出したとき、自分の句なのに「じゃあ知子さん、一本じゃなければ夏野じゃないんでしょうかね」と(笑)、わざわざそういうことを訊いてくるんです。たしかに「じゃあ二本だと夏野じゃないのか」と訊く人もいるかもしれません。それを前提とした、杏太郎の教えだと思います。数詞は簡単に雰囲気で使ってしまいがちだけれど、使うときはちゃんと意識しなさいと。面白いなあと思います。

「一本」によって、だだっ広い野原の風景が見えてきます。「一本あつて」というどうでもいいような情報が風景を広げるんですね。

大祐●やっぱり理がつかないようにつくられているんですね。

桐の木は大きいので二本以上あるとうるさいというか、涼しさや爽快感を出すにも、「夏野」というものを観念の上で表すにも「一本」がいいのですが、それを「たまたまあったよ」とさりげなく言っていて、やはり杏太郎さんのなかで統一されている詠み方なんだな、と思います。

篠●かといって、たんなる風景の報告といった風にもならないんですよね。すらっと読むと通りすぎてしまいそうになるのですが、踏みとどまって何度か読むと、根源的に「夏野」というものを捉えようとしているような気がしてきます。

知子●「夏野」と名詞止めをすることもできるのですが、「夏野かな」と「かな」で流すところも杏太郎らしいですね。

大祐●三橋敏雄の句に〈山山の傷は縦傷夏来る〉という句があるのですが、この句は「山々の傷は縦傷である」という断定が面白いんです。ほんとうは横傷もあるかもしれないのだけれど、断定されることによってよりイメージが鮮明になる、更新されるというところがあって、三橋敏雄はわりにそういうつくりかたをしています。

この句も「桐の木が一本あることが夏野をいちばん良く見せるんだよ」というような、ある意味断定するつくりかたでもつくれる可能性はあるのですが、それをしないんです。欲がないというか、意味に対してガツガツしないということなのでしょうか。

知子●「かな」のせいもあるかもしれませんね。

篠●「あつて」で少し切れていることも、断定に至らない理由かもしれません。

大祐●僕のなかの切れの感覚では「かな」も「あつて」も切れとしては強いので、切れてまた切れるという、リズムとしては少しつんのめっているところもあるのですが、内容はすごく好きです。

知子●杏太郎の下五の「かな」は、切れと言うより流している感じがします。こんなことを言うと、「かな」は強い切れだと言われそうですが、少し余韻を感じるんです。

大祐●「かな」を強くうちすぎないように意図的に「あって」と少し切れをつくっているところがあるのかもしれません。

岸本尚毅さんは『高浜虚子 俳句の力』のなかで、

俳句は十七文字の短い滑走路です。そこから飛行機を飛ばすには何らかの仕掛けが必要です。たとえば、滑走路の終端が切り立たたった崖だとすれば、崖の高さを得て飛行機は空中に飛び立ちます。それが「かな」の効果です。

と書き、例として秋櫻子の「かな」を挙げています。杏太郎さんの「かな」はそういう「かな」ではないですね。「かな」を使ってここまで軽いつくりかたというのは面白いです。

ほかに「かな」を使った句では

あらくさのまはりの螢袋かな

とか。

篠●

馬鈴薯の花咲いて雨ばかりかな

というのもあります。

大祐●これも「て」でいったん止まって〈雨ばかりかな〉と続く形です。やはり意識してつくられているんですね。

篠●「雨ばかり」とすることで時間経過の感覚もあって、切れの強さが緩和されています。それにしても、杏太郎にはほんとに「かな」を使った句が多いですね。

知子●多いですよ。私が名詞止めの俳句をつくったら「これは〈かな〉ぐらいで止めるのがいいでしょう」と言われることがありました。「〈かな〉ぐらい」、というのは、余韻を残す感じで使うということなのだろうと思います。


◆泣く老人◆

篠●句集の標題句である

老人が被つて麥稈帽子かな

もこの形です。

大祐●そうですね。この句は、「被る」にすると「中七」でうまく収まるところを、わざわざ「被つて」とすることで「中八」になっています。

「老人が被る」だと「麥稈帽子」を修飾する語になって、詠嘆の「かな」は「麥稈帽子」にしか掛からないことになりますが、「被って」だとそれは動作になって、「かな」が全体にゆるく掛かってゆく形になります。「被つて」にして「たまたま被っていた」と読ませているんですね。

知子●私は、老人が被ることによって真の麥稈帽子になった、ということだと思っています。老人が被ってこそ麥稈帽子だと。これは麥稈帽子に対する愛情の句かもしれないですね。

大祐●あと、麥稈帽子といえば少年が被るというイメージがあるのを、老人が被ったことでまた少し違う風景になる、ということなのでしょうか。

知子●杏太郎は「老人」に涼しさを感じているのかな、と思います。この句の麥稈帽子には、格別の、乾燥した涼しさが感じられるんですよね。

大祐●

老人に会うて涼しくなりにけり

はまさにそういう句ですね。

篠●ちょうど「老人」の話になっているのですが、私が気になったのは

でで蟲を見て老人の泣きにけり

です。

「けり」で終わる強さとか、「でで蟲を見て」が「老人」に掛かっているところなど、今日の話題にはあまり当てはまらない句なのですが、「老人が泣く」ことを俳句にした、というところに、なにか杏太郎のある一面が見られような気がします。どうしてこの句をつくったのかな、と。

知子●これは、自分のことかもしれないですね。

篠●なるほど。自分のことだけれど「こんな人がいたよ」という書き方をしたのでは、ということでしょうか。

「泣く」というのはわりに激しい行為なのですが、例えばこの句集の〈白地着て老人海を見てをりぬ〉や〈老人の坐つてゐたる海の家〉、さきほどの「麥稈帽子」の句や「涼しくなりにけり」の句と並べてみると、そんなに強烈な感じがしません。「でで蟲」だからかもしれませんが、激しさだったり女々しさだったりではなく、衒いのようなものが感じられるんです。

杏太郎は「さびしい」という言葉もよく俳句に使っていますが、ストレートな感情というよりは、言葉としてふわりとそこにある、と感じることが多いです。

知子●背景を想像することに意味はないかもしれないですが、私が勝手に想像すると、たぶんこの老人は、でで蟲と自分を重ねて泣いちゃったのかな、と思いました。泣いたのではなく、泣いちゃった…。

篠●そうだとしたら、私にとっては杏太郎の新たな一面だなあ。

大祐●この句は「でで蟲」をもってきたところが手柄だと思います。「かぶと虫」だとダメで、もうこれしかない、というくらい的確ですね。

篠●力の抜け具合がいいんでしょうね。「でで蟲」と「老人」だからいいんでしょう。そして「泣きにけり」としたことで、単なる取り合わせというよりもずっと有機的な結びつきを感じます。

大祐●杏太郎さんの句の中では比較的謎が多い句ですよね。情景は分かるのですが、背景が分かりにくい。そこに意外性があります。

篠●そして、この句を句集に入れたところもまた、面白いなあ、と。

大祐●この句はどういうところに置くかによってまったく違う句になりますよね。

例えば、震災詠のなかに置いたとしたら、とても意味の強い句になります。でも、そういう場所から切り離されて、杏太郎さんの空間のなかに配されると、「泣く」という行為が抽象化されて、感情的な色合いが薄まります。一句だけだと判断に迷うことがあっても、句集の中で読むと一句の感じが掴めるということはありますね。

篠●では、今回はこのへんで。

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