2014-05-18

空蝉の部屋 飯島晴子を読む 〔 21 〕小林苑を

空蝉の部屋 飯島晴子を読む

〔 21 〕


小林苑を

『里』2013年4月号より転載

寂しいは寂しいですと春霰  『儚々』

晴子はよく「私の作り方はホトトギスの作り方とほとんど同じ」と言っていたという〔※1〕

写実についての一文では「私がホトトギス俳句において出会ったのは、やはり言葉の問題であった。ホトトギス俳句の秀作は、言葉が詩の言葉としての機能を見事に果たしているのであった」「私の写実句には、結果も過程も写実の句、過程は写実なのだが結果がそうは見えない句、過程は写実ばかりではないが結果は写実一筋の句とさまざま。写実とは何かと考え込んでしまう」〔※2〕と書く。

写実の句として < 禿鷹の翼片方づつ収む > < 茶の花に押しつけてあるオートバイ > の二句をあげて、句作の過程も述べているのだが、前者は見たものの一瞬のスケッチ、後者は見たのは茶花垣だけで想像の産物ということだ。

花鳥諷詠というホトトギスの作り方、このことで思い出すのは晴子がホトトギスの俳人と三宝寺を訪れたときの話だ〔※3〕。その俳人は「見るのと言葉とが一緒に出てくる」と言う。もちろん、そのように鍛錬するということだろう。このことは啓示的だったと晴子は言う。自分はホトトギスの俳人が自然の事物を相手にやっていることを、言葉相手にやっているのだなと気付くのだ。

作り方ということで、もう一つ。随筆「一位の木」〔※4〕では、阿部完一の句 < たとえば一位の木のいちいとは風に揺られる > に触れ、この句は白っぽい一行がゆらゆら揺れて心地よく『梁塵秘抄』のようだったという感想を持つ。一位の木を知るまでは。その後一位の木を見る機会があり、がっしりした黒い木は句のイメージからかけ離れていた。阿部氏は実物を見ていないのだと晴子は思う。ところが、聞いてみると、見たとのこと。「氏の言葉への意志の勁さを、あらためて見る思い」で、「わたしがつくるとなればこうはいかない。わたしはいつも、言葉と物の間で揺れている自分をこのたびもまた知るのである」と結んでいる。これは昭和五十一年の文章である。ともに言葉を砥ぎ澄ましていた頃だ。二人の資質の違いであり、作り方の違いが覗われる。

阿部がより抽象であろうと志向するのに対し、晴子は見たものから別の具象、場面を描こうとしているようなのだ。ホトトギスの作り方と同じと言うのも、次第に句が写実的になっていくのも、晴子にとっては見たものが醸し出す、あるいは見たものによって引き摺り出される生理的な心地よさ、あるいは悪さが、一句として定まることを求めているからだ。

生前最後の句集である『儚々』は、< 初夢の中をどんなに走つたやら > の一句目から < 北野天神大服梅の遉かな > < 牡丹焚く火のおとろへに執しをり > と続く。「どんなに…やら」「遉(さすが)」「執し」と、この三句だけ見ても心持ちを表す言葉が多いことがわかる。写生というより感慨で、以前よりさらに率直に気分を書いている。

掲句はズバリ「寂しいは寂しいです」。この措辞、朝日新聞で読んだ写真家の入江泰吉の言葉そのままだという。寂しいことは寂しいと言うよりもより寂しさがあると感じて、「そっくりそのまま頂戴した」〔※5〕のだという。入江泰吉は大和路を撮り続けた奈良の写真家。個人的には叔父が編集者時代に担当して、土門拳のものと一緒に書棚に並べられていた写真集をよく見ていたので懐かしい。大和から霞を思ったのだろうか。

春霞を配することで、寂しさのかたちが見えてくる。ことさらに言いたてるようなことではない、温もりのようでさえある、けれども消えることのない寂しさ。これが霧などだったら寂しいというより侘びしい。

人がひとである哀しさ、鬱陶しさ、言葉にできない空漠、そんな生理感覚は誰もが抱えている、かたちにならない思い。それは言葉にできないのだけれど、できないものを言葉にする、それが「詩の言葉」なのだ。

平成八年『儚々』上梓。『鷹』八月号で特集が組まれ、インタビューに応えて「見るといったって、誰でもが見えるものしか見えないけれども、言葉になったときに見えるということもあります」と言っている。

翌年、この『儚々』で飯田蛇笏賞受賞。

< わけもなく機嫌直らず土筆飯 > < 冬すみれいろのねむりに溺れたし > < さつきから夕立の端にゐるらしき > < 蓑虫の蓑あまりにもありあはせ >  < たんぽぽの絮吹くにもう息足りぬ > < 烏蝶何を為出来かやもしれぬ > < 亡年のもう一と歩きするとせむ > 等。

七十歳の時に脳動脈瘤で入院、その後は娘素子を同行しての吟行となる。娘の隣家に引越しもした。眼を患い視力が衰える、老人性鬱を発症等、謂わば老いとの競うように句作を続けたのだろう。

「寂しいは寂しいです」は晴子の声でもある。


〔※1〕『飯島晴子読本』収録「ホトトギスとほとんど同じ」平井昭敏
〔※2〕『葛の花』二〇〇年収録「写実とは」『俳句研究』一九八九年一一月
〔※3〕『飯島晴子読本』収録「写生と言葉」『青』一九七五年八月
〔※4〕『飯島晴子読本』収録「一位の木」『俳句とエッセイ』一九七六年一一月
〔※5〕『飯島晴子読本』収録「自句自解」

2 comments:

ハードエッジ さんのコメント...

春霞を配することで、寂しさのかたちが見えてくる。??

晴陽 さんのコメント...

『春霰』と『春霞』の混同があるようですね。私は『春霞』の方が好きですが。