【週俳5月の俳句を読む】
きわめて俳句的な
トオイダイスケ
荻原裕幸さんが第369号に「世ハ事モ無シ」20句を発表していて、おお、と思いながら読みました。
私は俳句を作り/読み始める前に、枡野浩一さんや穂村弘さんの本で現代短歌に興味を持ち、その流れで当時書店に終刊号が置かれていた「短歌ヴァーサス」を読んで、荻原さんのしている仕事が、(「週刊俳句」も似たような性格を持つ)オルタナティブなメディアを作ることであるように感じていました。その荻原さんが「週刊俳句」に登場したのを見て、おお、重なった、と自分の中で勝手に思いました。
卯の花腐し急ぎ百枚名詞刷る 荻原裕幸
内容がぎゅっと十七字に濃密に圧縮されている印象を受けました。この内容でそのまま短歌になるような印象も最初はありました。
冒頭から順に読んでいくと、「急ぎ」で、卯の花が早送りの映像のように急速に朽ちていくイメージと強く長い雨とむせかえるような湿気を思います。
「百枚」で、逆に乾いた紙片がたくさん登場します。そして「名詞」「刷る」。頭から順にじっくりじっくり一語一語噛みしめて読んでいくかのように今は書いていますが、実際最初に読んだときはもちろん、「うのはなくたしいそぎひゃくまいめいしする」とするっと読みました。めいしする、は当然のように「名刺刷る」だと思っていました。
その後よく読み返すと、「名詞」を刷る、ということに気付き、それからこの句を読み返すと、タテ5センチ×ヨコ7センチくらいの四角い単語カードのような紙片が作中主体のまわり上下左右に百枚、ばっと浮き上がって、そこに念力でばばばばっと高速で黒く太いゴシック体でいろいろな穏やかでな い「名詞」が刷り込まれ、ばーーーっとそれらの紙片がすごい速さでこちらに次々と襲い掛かってくる、というイメージが湧くようになりました。
この百枚の刷られた名詞は、どうしても失いたくない武器/防具としての言葉(およびそれらの言葉に対する、数十年かけて深めてきた自分特有のものとしてのイメージ)なのでしょうか。それらを「急ぎ」、しかも「百枚」だけ「刷る」、ということに強烈な切迫感というかサバイバルを迫られている ような気持ちになります。
吉田健一は「自分の本棚には(本当に大切な、何度も読み返すことのできる)蔵書が500冊あれば充分だ」というようなことを語ったらしい(*)のですが、自分の身体の延長としての500冊というのは少なくない、膨大かつ豊かで享楽的なものです。
それを思うと、「急いで百枚刷る名詞」というのは、多くのものを今までのようにものとして実感しながら味わったり所有したりすることが良くも悪くもかなわなくなっている状況のなかでの、以前の豊かさのなかで育ってきた人間による必死の抵抗にも見えました。
そう見ると、句の冒頭の「卯の花腐し」という季語が、当季であるというだけではなく、もっと大きな、日本や地球や人類の歴史規模での季節としての、豊かでどきどきすることが多く起こっていた春や、心地よく過ごしやすい初夏のイメージが崩れるように終わっていく、というかなしみを思わせるような気がしました。
その世界のなかで、少ない小さな言葉に自分の命や目に見える/見えないものの命を託して生きていかなくてはならない、というこの決意のようなものは、現代の様子を描写しているようでありながら、本来的に変わらないきわめて俳句的な感情のようにも思いました。
(*)吉田健一『金沢・酒宴』(講談社文芸文庫)の、近藤信行氏による「作家案内」より、篠田一士「吉田さんの本」というエッセイの引用として。
第367号2014年5月4日
■木村オサム がさごそ 10句 ≫読む
■飯島章友 暗 転 10句 ≫読む
第368号2014年5月11日
■堀込 学 輕雷 10句 ≫読む
■表健太郎 沿線物語 7句 ≫読む
第369号2014年5月18日
■荻原裕幸 世ハ事モ無シ 20句 ≫読む
第370号2014年5月25日
■池谷秀子 蝉の穴 10句 ≫読む
■仲田陽子 四分三十三秒 10句 ≫読む
■庄田宏文 絵葉書 10句 ≫読む
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2014-06-22
【週俳5月の俳句を読む】きわめて俳句的な トオイダイスケ
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