俳句に似たもの 8
大通り
生駒大祐
「天為」2012年12月号より転載
これは同じシチュエーションに対して多かれ少なかれ誰もが抱く感情ではあるのだろうけれども、同じ情景に僕ほどの解放感を皆が得るとは思えない。「えー、普通の風景だよ」と言う人もいるであろう。きっと、僕の中の解放感のツボを不意にこの大通りがついてしまったのだろう。
俳句に限らず成功する芸術家はその人なりの作家性を持っているものであるが、それがどういったプロセスを介して獲得されるものなのかは正直よく判っていなかった。作品を大量生産していく過程で自然に形成されていくものなのか、それとも自分で意識してある傾向の作品を作っていく内に洗練されてくるものなのか。
作家性というものは一種その作家を縛るものである。その作家性の枠から外れた作品は発表にしにくくなるし、著名な歌手のヒットナンバーのように、読者サービスとして必ずそのトーンの作品を提供することを求められる。しかもその作家性は明文化できるものではなく、読者の目になってみて味わってみてなんとなく、しかし確かに判るものである。
例えて言えば、作家性は道のようなものである。外れようと思えば外れられるが、道を歩いた方が歩きやすいし、傍目から見ても自然である。そういう意味で、作家性を見つけられない僕はごちゃごちゃとした迷路を歩いているようなものだ。
しかし、そんな僕にも、ある種の俳句を作ることができた瞬間、自分の枠から一歩「向こう側」にある作品を作ることができた瞬間には、小さくはあるもののある種の感動を覚えることがある。その感動は、きっと解放感に近いものだ。狭い迷路を歩いていてふっと広い出口を見つけた時のような、そんな種類の感動であろう。
作家性の形成は、おそらくはその解放感を高めていこうとする営みの中に生じる。ある種類の昆虫が明るい方向へと導かれるように遺伝子にプログラムされているのと同じく、作家とは自分の枠を広げてくれる、ある種の高みに導いてくれる作品を作りたいと欲望してしまう存在ではないだろうか。
高みとは、原始的には重力や周囲の物たちから解放された、密度の低い空間を指すのではないか、とも思う。解放感のもたらす快感は、縛られることへの不自由よりもはるかに魅力的である。
僕はまだその解放感の裾野に触れたにすぎない。それをてがかりに俳句を作り続けることで、いつか僕の俳句における「大通り」を見つけたいと思う。あの日大手町で出くわした、あの通りのような。
二科を見る石段は斜めにのぼる 加倉井秋を
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