2014-07-20

今井杏太郎を読む4 麥稈帽子(4)

今井杏太郎を読む4
句集『麥稈帽子』(4) 
                                                                                
茅根知子:知子×生駒大祐:大祐×村田篠:

≫承前
『麥稈帽子』 (1)春 (2)夏 (3)秋

◆これ以上アレンジできない◆

『麥稈帽子』もいよいよ最後の章になりました。今回は「冬」ですね。生駒さん、お願いします

大祐はい。今回僕が話したいのは
十二月三十日の氷かな

です。これこそは杏太郎さんにしか許されない世界だな、と思います。2010年の角川書店『俳句』の6月号の鼎談の中で、大谷弘至さんが「(榮猿丸さんの『季語で埋め尽くしたいんだね』という言葉に応えて)季語だけで五・七・五を詠んでみたい(笑)」ということをおっしゃっていたのですが、この句はその言葉をある種究極的に体現していると思いました。

ただ、大谷さんがおっしゃっているのは、季語という「雅」の世界をどのように変奏してゆくかということなのですが、杏太郎さんの場合はほんとうに「呟けば俳句」というか、日常から地続きの言葉、たまたま季語である言葉が俳句の中に収まっているパターンです。
というより、そのように見えるように作られている。

俳句において季語を中心に句を構成すると、人によっては古典主義の方向に向かいがちなのですが、杏太郎さんは季語を気負いなく使っているところがあって、この句も、単純に日記帳の一行目のような句づくりです。

それは、言葉として考えるとふつうのことですが、俳句としてみるとびっくりする。定型を守ってこうした句をつくってくるというところが、今井杏太郎さんの面白いところだと思います。

おふたりはいかがですか、この句。

知子取り上げていただいて良かったです。訊きたかったんですよ、生駒さんに。評のしようがないですもの。「十二月三十日」でなくても良いのですが、内容が間違っているわけではなく、まさに日記帳の一行目なんです。

大晦日ではなく三十日というところが面白いですよね。

大祐それに、字面もシンプルですよね。画数が少なく、形も四角ですっとしていて、二十九日にするよりはずっと立ち姿がいいです。飯田龍太の〈一月の川一月の谷の中〉も形がスッキリしているとよく言われますが、スッキリ度だけで言えば、杏太郎さんのこの句の方がスッキリしてると思います。

言っていることも、杏太郎の句の方がシンプルですね。龍太の句は「一月」を重ねることで、ひとつ捻りが生まれています。

大祐杏太郎さんの句には衒いがないんですね。変なことをやろうとしているのですが、それが句の形にまで波及していないんです。日常の目で見るとふつうのことを書いているのですが、俳句で書くと異様な世界が立ち上がってくるところが面白いんですね。

また、〈一月の川一月の谷の中〉だったら、良くなるかはともあれ何かアレンジができそうな気がするんです。でも、〈十二月三十日の氷かな〉は、もうこれで完成されていますよね。

「自註現代俳句シリーズ 今井杏太郎集」の中で杏太郎はこの句についてこう書いています。

“氷でなくたっていいじゃないか”と林之助さんが言った。“でも十二月三十日がいいじゃないか”と稚魚さんが言った。

この句について何か言おうとすると、こういうことになりますよね。

大祐これが大晦日だと背景にストーリーが見えそうになりますが、この句ではそういうものを弱めています。

知子わざと弱めるところが面白いんですね。ここまで削ぎ落とされるとアレンジできないのかもしれません。脱力させられますが、誰にもアレンジをさせないんですね。


季語の本意

次は私がいきます。

先生の眠つてをりし蒲団かな

この句集の最後の一句ですね。季語は「蒲団」ですが、じつは、季語としては弱いのかな、とほんの少し思っています。それはどうしてかというと、上が「先生の眠つてをりし」だからなんですね。

杏太郎の句はほんとうに季語をきちんと詠んでいる句がほとんどで、句を読むとその季節、その季語が目に浮かんでくるように感じることが多いのですが、この句の「蒲団」に関しては、「先生の眠つてをりし」という景の印象があまりに強いので、「蒲団」は先生の眠っている場所であるという役割に若干甘んじているのかな、という気がします。

石塚友二先生が亡くなったときの句で、杏太郎にとっては特別な時間を詠んでいます。杏太郎にはめずらしく「眠つてをりし」と比喩を使っているところにも、先生に対する尊敬と追悼の気持ちが感じられます。この「蒲団」には季節はあまり感じませんが、逆にその時間の切実さが伝わってくるように思えます。

知子この句を『麥稈帽子』の最後に置いたことは、句集を編むときに意識されたことだと思います。季語うんぬんよりも、追悼の意を込めたかった、ということなんでしょうね。自分の思いが強く出ている句だと思います。

私たちは友二先生の亡くなったときの句だとわかっているけれど、そういう前情報のまったくない人が読むと、また別の捉え方になるんでしょうか。

どうでしょう。まったく事情を知らない人が読んでも、先生が亡くなったときの句だと分かるような気もしますけど。

大祐ほんとうにただ眠っているだけだったら、ふつうは俳句には詠まないんじゃないでしょうか(笑)。

知子でも、〈ことしまた秋刀魚を焼いてゐたりけり〉なんて句をつくる人ですから(笑)。

大祐すこし迷うところですよね。一句として読むと、杏太郎さんならば単純に眠っている景で詠む気もしますし、一方でわざわざ俳句にしているところ、また、「永眠」という言葉があるところから、半分くらいの確率で人が亡くなってしまった景かなとも思います。でも構成として句集の最後に置かれているところからも、やはりこれは追悼の句だと思います。

ただ、さきほど篠さんが、「蒲団」が季語としては弱いとおっしゃいましたが、僕は、この「蒲団」は季語として機能していると思いました。蒲団は日常性が強いので、どう詠んでもあまり「雅」の世界にはいかないのですが、「畳の上で死にたい」というか、あたたかい蒲団の中で亡くなられた、ということへの安心感といいますか、ああ、それは良かったなあ、という気持ちになります。

ああ……なるほど。

大祐これがもし夏の句だったら、蒲団は夏蒲団ということになって涼しい感じになり、追悼の句としては、ちょっと合わないのかな、という気がします。もちろん、人柄にもよると思いますが。でも、あたたかい蒲団の中で先生が亡くなっているのは、寂しいけれどあたたかい景になって、追悼句としては良い使い方をされていると思いました。

知子そのように読むと、友二先生は幸せに最期を迎えたんだ、と思えますね。じつは私は、「亡くなっている蒲団」ということで、この蒲団から受けたイメージは「冷たい蒲団」だったんです。でも、生駒さんのようにこの句を読むと、友二先生への尊敬の気持ちがうかがわれる良い追悼句なんだな、と改めて思えます。

大祐夏は涼しい蒲団だから「夏蒲団」、冬は寒いからあたたかい「蒲団」、というように季語の本意を素直に読むと、僕の中ではこの句の蒲団はあたたかく思えます。

確かにそうですね。先生への尊敬の気持ちは私もこの句から深く感じましたが、あたたかさを読みとったのは素敵ですねえ。生駒さんの解釈を聞けて良かったです。

大祐それに、この句には死をストレートにイメージする言葉が一見入っていませんが、句の構成や文脈や境涯性から杏太郎さんならではの哀しみが伝わってくる、というところもあると思います。

知子杏太郎は前書きをつけませんからね。この句は、ふつうだったら前書きをつけるでしょう。そういうところもいいですね。

句集の最後に置くことが、杏太郎の気持ちを代弁しているのでしょう。

知子そういう意味で、この句もほかに言い換えができない句と言えるのかもしれません。


「分からない」ことに正直である

では知子さん、お願いします。

知子言葉の使い方を考えてみたいのが

水鳥の眠つてゐるやうにも見ゆる

です。「やうにも見ゆる」ということは「眠っていないかもしれない」ということですよね。そんなことをわざわざ、持って回った言い方で俳句にしています。生駒くんはこの句についてどう思いますか?

大祐この句は、「眠りゐるやうにも見ゆる」だったら五七五に収まるんですが、「眠つてゐる」にすることで少し長くなっています。でも、それが逆にリズムをつくっていて、ゆったりした感じが出ているかな、と思います。

嫌いか好きか、と訊かれると、どちらかと言えば好きな句です。「眠たげな」というふうに言わないところがいいですね。「眠たげな水鳥」というものを言うのに「水鳥の眠たげに○○○けり」という言い方をしないで、「眠つてゐるやうにも見ゆる」というムダ使いな感じが面白いです。

知子自分では気づかなかったのですが、もしかしたらこんなふうにムダ使いをしている句が好きなのかもしれません。

あとは「も」ですね。杏太郎は「〈も〉はあまり使わない方がいい」とよく言っていました。「も」には意味が出てしまいますからね。でもこの句は「水鳥の眠つてゐるやうに見ゆる」でもいいのに「も」を入れています。この「も」はなんでしょうか。

大祐少なくとも「も」を入れることで漠然とします。眠っているようにも見えるし、起きているようにも見える。並列っぽくなります。「眠つてゐるやうに見ゆる」だと、眠っているとほぼ断定することに近くなります。でもこちらで見ていると、眠っているかどうかは本来分からないことですよね。ある意味、「分からない」ということに正直なのではないでしょうか。自分の状態そのままを言っています。

でも、そのままを言うことは意外にむずかしくて、断定する方が簡単だし、そこに驚きが出たりもします。子どもでも言えるようなことをきちんと俳句として言っていて、しかも格調があり、下手には見えないのがすごいな、と思います。

知子同じような情景で、同じような雰囲気で句を詠んでも、この「も」が使えるかどうかは、ちょっと分からないですね。この「も」は杏太郎独得かな、と思います。同じく杏太郎の

馬の仔の風に揺れたりしてをりぬ

という句の「たり」に近いような気がします。その一語を入れるだけでまったく雰囲気が変わってくる、という言葉を、杏太郎はわざわざ入れますね。この語を抜いても句としては成立するのですから。これは計算して入れているんでしょうか。計算なんてしないような気がしますが。

大祐確かに、計算という言葉は杏太郎さんには似つかわしくないようにも思いますね
でも、杏太郎さんは句の推敲を丹念にされた方でしたよね。

知子何度も何度も唱えて、リズムがいいものを選んだらこうなったのでしょうか。

でしょうね。ちょっとした一語を入れたり取り替えたりすることで、とたんに句がなめらかになるという現場を、句会などで何度も見たことがあります。

知子でも、真似をしようとするとやけどするんですよね(笑)。


猿が木にのぼる不思議

冬の部の最初に

道端に水車がまはり茶が咲いて

という句があるのですが、この句はどうでしょうか。

見えたことをそのまんま五七五にしつらえたようで、「道端」という言葉の素朴さも含め、景としてはとても好きな句ですが、切れがなく、句会に出したら「これは説明ですよね」と言われるタイプの句です。ふつうはあまりつくらない句という気がしますが。

大祐切れのない俳句は短歌になる、とよく言われますが、この句は短歌にしたらつまらなくなりそうですね。切れがないのに一句として完成されているのはすごいと思います。かなり自信がないとつくれないですね。

知子そうですね、冬の部の最初の一句ですから。

大祐十一月の句が三句ほど冬の部のはじめに出てきます。

からまつの十一月の林かな
栗いろの十一月の雀らよ
むささびの鳴いて十一月の山

山の風景が繰り返し描写されていて、三句を畳みかけてひとつの像をなす感じになっているのですが、句集ならではの構成で、面白い読ませ方だと思います。

知子杏太郎には十一月の句がわりに多いですよね。「十一月」という季語が好きだったのかな、と思います。十一月は一年の終わりのひとつ手前で、さきほどの「十二月三十日」も一年の終わりの一日前で、そういうのが好きだったのかもしれません。

大祐「十一月」という響きもお好きだったのではないでしょうか。

あと、面白いと思ったのは

杉の木の揺れて大雪とはなりぬ

です。「とは」の「は」は強調ですね。「とはなりぬ」とすることでゆったりしたリズムになっていて、杉の木の大きさや大雪のようすが見えます。

大祐俳句では、因果関係がないものを因果関係があるように見せたいときに「て」を用いることが多いんですね。この句も意味的には「揺れて」で切れますが、形の上でナチュラルに続いてゆくので、因果関係があるように見える、というつくりです。

ただ面白いのは、「杉の木が揺れて」というのは風に揺れた可能性もありますが、雪が積もって枝が折れ、杉の木が揺れて「ああ、大雪なんだ」と気づいた、というふうにも読めます。そう読むと、流れのある自然な景になります。完全な空想ではなく景に即しているところは、杏太郎さんの一貫した姿勢なんだと思います。

知子そう、一見すると変に思えても、景としては間違ってはいないんですよね。

目つむれば何も見えずよ冬の暮

これも面白いです。当たり前のことをわざわざ言っています。「俳人は目をつむったら何かが見えるという句をつくったりしますが」と杏太郎はよく言いましたが、もしかしたらこの句は、そういう風潮に対しての返句のようなものかもしれません。

俳句って不思議ですよね。「目を閉じて何かが見えた」という句があると、ほとんどの人がふつうに共感します。生理学的に言えば杏太郎の句の方が正しいのですが(笑)、俳句にすると、「変な俳句」というふうに思えてしまいます。

大祐杏太郎さんの言葉に

「猿が木から落ちる」という意外性は、前者の常識の範囲のものであり、そこから更に、「猿が上手に木にのぼる」ことの不思議さに思いが到達し得たとき、はじめて思考の「飛躍性」が認識されることになる。(「魚座」1997年6月号)

というのがありますが、この句はまさにこの言葉を体現しているんですね。

杏太郎の重要な言葉がひとつ確認できました。『麥稈帽子』はひとまずこれで終わり、次回からは第2句集『通草葛』を読みます。特別ゲストをお迎えする予定ですので、読者のみなさまには楽しみにお待ちいただければ、と思います。

1 コメント:

匿名 さんのコメント...

目つむれば何も見えずよ冬の暮

茅根知子氏はこの句について、

《これも面白いです。当たり前のことをわざわざ言っていま
す。「俳人は目をつむったら何かが見えるという句をつくっ
たりしますが」と杏太郎はよく言いましたが、もしかしたら
この句は、そういう風潮に対しての返句のようなものかもし
れません。》

と発言され、また生駒大祐氏は《この句は思考の「飛躍性」を体現している》と返答されています。

ここで、ふと思ったのが、
この句はそういったものではなく、石川啄木「悲しき玩具」と谷村新司「昴」が念頭にあった、ベタなジョークなのでは?ということです。

「悲しき玩具」は「凩」という語をもつ冒頭歌につづく二首目。

目閉づれど、
心にうかぶ何もなし。
さびしくも、また、目をあけるかな。

また「昴」の歌詞も当時たいへんな評判を呼びましたが、
現在でも〈目を閉じて何も見えず  当たり前〉で検索すれば
約45万件のヒットがあります。

この句がいつ書かれたか不明なので「昴」の方は単なる思いつきですが、もしも他所からの借用ではないとしたら、この句が上述の歌同様「寒の景」であったり、「さびしさ」というキーワードを内包していたりと、いくつもの共通点があることについて、ちょっとした言及があると面白いのではないでしょうか。