2014-08-17

BLな俳句 第4回 関悦史

BLな俳句 第4回

関悦史




『ふらんす堂通信』第139号より転載

   噴水は筋肉質に全裸なり   渡辺誠一郎『余白の轍』

宙に盛り上がり続ける噴水の形状を詩的に把握した句ですが、観念的なものがあまりない分、意味性にとらわれることなく暗喩がイメージを鮮やかに立ち上がらせます。

行く手に突然筋肉質な、それも水のなめらかさと清冽な透明感を持った裸体が現れたようで、公園か何かの公共的な空間のはずなのに、不意に性愛的 な領域に引き込まれてしまう眩惑感があります。それに感応した途端、読者の側も、水となり、詩的言語となって、公共空間は曖昧に消え去り、「噴水」の全裸 と対峙することになる。

「水」のイメージは女性と結びつくことが多いのですが、ここではたくましい男性に見え、清冽ながら両性の魅惑を兼ね備えた少々妖しいキャラクターにも見えます。どこで何に誘われるかわかったものではありません。

   軍艦が軍艦に寄る小春凪   渡辺誠一郎『数えてむらさきに』

いかつい男性的なもの同士がひそかに接近する穏やかな一日。

「小春凪」は小春の頃の凪のことなので冬になります。

この「軍艦」を建造されて間もないピカピカの青年のようにイメージすることもできるし、あるいは、冬の穏やかさがあることを思えば、相応に職責を全うしてきた壮年期以後の落ち着いた姿を思い浮かべることもできるでしょう。

いずれにせよ戦闘により撃沈される可能性をつねにはらんだ中での、機械同士のつかの間の交情ということになります。

   悪役が子役に渡す団扇かな   渡辺誠一郎『数えてむらさきに』

役者同士、芝居の扮装のままでの楽屋でのやり取りでしょう。

「悪役」が情愛を見せた意外な場面を拾った句ですが、その気遣いは、さしあたり年長者から年少者への一方通行のもので、「子役」の方にはこの場 面全体の関係性やそれが醸し出す情趣は見えていない。自分が可愛がられる存在だという自意識も多分ない。その非対称な関係がごくあっさりと描きとめられ、 「子役」の可憐さと「悪役」の包容性が同時に見えてきます。

   奥山にもみしだかれし彼氏かな   丑丸敬史『BALSE』

丑丸敬史は音韻の横滑り(平たくいえば駄洒落のようなもの)で一句を成すことが多い作者で、この句も百人一首に入っている《奥山に紅葉踏みわけ 鳴く鹿の声きく時ぞ秋は悲しき》(猿丸太夫)の「紅葉」が「揉みしだかれし」へと横滑りし、その「揉みしだかれし」から、これも音韻で「彼氏」が引き出さ れています。

元歌の「鹿の声」が交尾期に鳴く雄の声なので、もともと恋情と孤独というモチーフは入っているのですが、それが音韻的にずらされた結果、「奥 山」という何やら薄暗い得体の知れない大質料に対して「彼氏」が「総受け」的な立場を強いられ、蹂躙されることになる。「攻め」ているのは、「自然」や 「日本の詩歌」とも取れるので、この「彼氏」の立場と経験、俳人ならば望むところという人もいるかもしれません。元歌の「紅葉」から、折り重なった赤色の イメージが一句に漂います。

この句集『BALSE』には《ダリア忌のカイゼル髭の美童かな》《敷島は美し武者武者平らげる》といった句も収録されています。

   浅蜊の舌別の浅蜊の舌にさはり   小澤實『砧』

以前取り上げたカタツムリと違ってアサリは雌雄同体ではなく、性別があるらしいのですが、テクスト上は、どちらも「浅蜊」としか書かれていないので等価、もしくは性別は度外視されているものとして扱います。

また「舌」と書かれているのも生物学的には足なのでしょうが、それもこのアレゴリカルな句を味わう上では無視してよい。現実のキツネが喋るかどうかと、イソップ寓話のキツネが喋ることが別次元の話であるのと同様です。

しかし、イソップのキツネならば「ずるいやつ」という性格類型を担っていますが、この「浅蜊」は一体何なのか。性格類型では多分ない。殻のうち にこもって「舌」だけで触れあっている肉体の状態、人間でいえば目隠しをされ、縛られて、舌の感触だけで相手を感じ合っている肉体だけを表している。そう いう、いささか変態的なシチュエーションと身体感覚の変容へのいざないを示してはいるものの、アサリにとっては殻から出るのは足(と入水管、出水管)だけ というのが常の状態なので、これで何の不自由もなく、その身体の中に充溢しきって、舌の接触を堪能している。

台所で普通に見られるアサリ同士の接触が、こうした乱歩の小説じみた幼児的、倒錯的官能の怪しさにいきなり繋がってしまうのは、ヒトとは全く別 種の持続を示すアサリの身体が、句を読んだ瞬間われわれに入り込んでしまうからです。そこに開けるのは、澄んだ、極楽的な性愛の世界。

   七夕のねこになりたい男の子   榎本 享『おはやう』

七夕の短冊に「ねこになりたい」との望みが書かれていたというだけの句なのでしょうが、しかし句中の言葉としてはこの「男の子」も「短冊に記されていた男の子の名前」ではなく、男の子本体としてイメージされてしまう。

しかも、この「男の子」は「ねこになりたい」=「ねこになりうる」潜在性を持った男の子として一句の中に定着されています。星に願いをかけ、天 体とのやり取りのうちにある「男の子」は、句の中で、体の柔軟さや見た目の可愛さといった猫の属性を、すでに身体レベルで取り込んでいるのです(BL的な サブジャンルでいえば「ケモショタ」にあたります)。

   たはぶれに美僧をつれて雪解野は   田中裕明『桜姫譚』

最後の「は」が不思議な広がりを持っていて、あまり見かけない助詞の使い方かもしれません。

美僧をつれているといっても別に思いつめた恋情などがあるわけではなく、あくまで「たはぶれ」、風狂の遊びのうちに事態はある。そして「たはぶ れ」と敢えて言うことで照れを隠しているという風情でもない。「雪解野は」の結びがそうした人間くさい解釈を許さないし、「美僧」という呼び方も、その内 面や来歴まで知った個人というよりは、外見的属性のみがかりそめに人のかたちをとって浮遊しているようです。

僧は生死の境界的な存在だし、融けかけた雪も固体と液体の境界の様相を帯びている。そこから「美僧をつれて」いる作中主体も何やら人間ではない 希薄な存在のようにも見えてきて、生身の人間がやっているとしたら、これはただの「たはぶれ」では済まないところに足を踏み入れているのではないかという 怪しさが出てきます。

「雪解野へ」でも「雪解野に」でもない「は」が、その怪しさを決定的なものにしています。作中主体、美僧、雪解野の三者ははっきり区別できるよ うな実体的な相を離れて、それぞれのキャラクター性を残しつつも、一繋がりとなって虚空的世界をかたち作っている。この句の(引いてはこの作者の)官能性 は、地から浮いて漂っているようでありながら、現実的なものの感触もどこかに残っているという、境界性から発しているのかもしれません。

   致死量の月光兄の蒼(あお)全裸(はだか)   藤原月彦『王権神授説』

藤原月彦は今では歌人藤原龍一郎となっていますが、活動初期に耽美的な句を多く残しています。

作風としては「BL」という呼び方が出てくる以前の濃密な幻想性と反世界性があり、実際に雑誌『JUNE』にも連載を持っていたようです。

この句も月光に蒼白の全裸をさらす兄が、建石修志の描く細密な鉛筆画のような風情。

ただし視覚性が強いモチーフであるだけに、状況をただ言葉でなぞっただけでは言語作品としては薄手なものに終わりかねない。言葉でしか踏み込めない何かが要る。

この句でそれを担っているのが「致死量の」と造語「青(あお)全裸(はだか)」です。これで「月光」がただの月光ではなく、生死の選択にまで観 念的に踏み込んだものとなり、全裸の兄も平板なヌーディストではなく、この世の全てを捨てて「月光」と「全裸」が作る或る絶対性へと踏み出す決断を下した 者に変貌する。視点人物は弟らしく、戦慄をもってそれを見送っていることになります。

サブカルにおける同性愛表現がことさら叫びも反体制性も負うことなく、軽やかに流通するようになった現在では、もう出て来ない高揚した表現でしょう。

   天変のさきぶれとして親友(とも)娶る   藤原月彦『王権神授説』

親友であった相手との結婚。

それだけでも眩暈を起こすような関係のねじれがあるのに、さらにそれが来たるべき「天変」とも因果関係で結びついている。個人的な恋愛関係と世 界の存亡のようなスケールの大きい話が直結している点では後の「セカイ系」を思わせますが、「セカイ系」では脱落する、遠景でも近景でもない社会的中景の ようなものもこちらではまだ出汁として残っている気配があり、性愛と世界の存亡もその解離性を通して逆説的に繋がっているというよりは、もっと有機的に一 体のままねじれ、拡大しながらバロック的に繋がりあっている感触があります。

親友が妻へと急変する関係の錯乱を、ごく平静に受け入れる二人。そこには以前から密やかな了解があったのかもしれません。「さきぶれ」の一語に 緊張が漂いますが、いやいやながらという感じはなく、逆に喜んでいる雰囲気もない。二人が察知した天変と、その後の世界はいかなるものなのかが伏せられる ことで魔界の到来が暗示されており、その中での親友=妻との結びつきの必然性が句の中心になっているからです。

同句集に《おとうとのソプラノ妬み花涜し》《少年忌昏れゆく壜の中の帆船(ふね)》《男色や生前の冬死後の夏》等の句もあり。

   少年の顔の近づく春の川   津川絵理子『はじまりの樹』

   少年の脛にて分かつ夏の川   髙勢祥子『昨日触れたる』

最近出た句集からあっさり目のを二つ。

どちらも少年と川の句ですが、その味わいは微妙に違っていて、津川句は顔が近づいているだけで水面に触れてはいません。「春の川」と少年の肌との接近が、それとなくざわつくような緊張と期待を高めています。

対して髙勢句は「夏の川」がすでに脛に触れており、流れを分断する少年の脛と水とのひしぎ合いが清冽な皮膚感覚を齎します。

川というのもやや擬人化しにくい上に、どちらの少年もほとんど皮膚のみで捉えられていてキャラクター性は乏しく、両者の接触から現れる無垢な身体を表層性で捉えることが主眼になっています。

川と少年では、洪水でも起こさない限り自分から接近できるのは少年の側だけなので、「受け・攻め」でいえば少年が攻めの立場とも見えますが、この二句の少年の身体にそんな自覚があるとは思えない。

無自覚な魅惑を一方的にふりまかれた「川」の流動する無感動ぶりからすれば、少年の身体の方が移ろいやすいのかもしれず、次元の違いすぎるもの同 士の間に感情的交流の余地はあまりありそうにありません。束の間生じた接触・未接触から、少年の肌の記憶だけが希薄に川辺に残ります。




少年(リトル・ボーイ) 関悦史


フィギュアスケート男子回転(スピン)し肉の花器

サンタガールの形(なり)でボクらの脚きれい

寒夜ひそかに金髪美童から応答(リプライ)

自己愛きらめく美童と凍る夜を歩く

指冷たき金星人といふ少年

少年の括約筋と嚔かな

フーコーの拳(フィスト)ギリシャは腸(わた)温き

天降り来し少年(リトル・ボーイ)を受胎せり

少年(リトル・ボーイ)の魔羅立つ地平 散り建つ原発

「あいつ綺麗な顔して何食つたらあんな巨根に」風光る


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