2014-08-17

フライング落選展 淋しくなくなくなく描く 福田若之

フライング落選展
佐藤文香「淋しくなく描く」を読む

淋しくなくなくなく描く

福田若之


たとえば、『淋しくなく描く』に使われている文字の複製たちといくらかの「、」と「。」だけからでも、こんなちょっとした物語を編むことができる――

ことばはむかし、その一つ一つがそれの照らすものに似ていると思はれてゐた。ことばは、そんなふうにして、海や、空や、鳥などと結ばれてゐたのだ。
まだからうじてさうあつたときには、それら途方もなくたくさんのことばを美術館の部屋みたいなところに集めてきて、それらたくさんのことばの顔を、柵のむかふにならべておくことが、そのまま知の営みの一つだつた。
しかし、いまや、ことばはことばにしか見えなくなつてしまつた。だから、なんのたとへでもなしに、なにかを描いたことばだと見なすことが出来るやうなことばは、ことばについてのことばだけだ。ことばは、いまも、ことばにだけは似ていることが出来るのだつた

――もちろんこれは物語でこそあれ歴史ではなく、さらに言えば、あたりまえのことだけれど、無数のありうる物語のひとつにすぎない。けれど、この物語こそ、『淋しくなく描く』に対する僕なりの答えでもある。『淋しくなく描く』がほかのなによりも克明に描いているのは、まさしくことばそのものだと感じられるからだ。

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白鳥の池を淋しくなく描く

この句は、ただ、ことばとして若山牧水の《白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ》を踏まえているんじゃないだろうかと、そんなことを思う。それとも、もっと単純に、「白鳥の湖」ということばだろうか。いずれにしても、ことばがことばに似ている。
でも、その一方で、この句には、本来あるはずの〈淋しくない白鳥の池〉の絵が見当たらない。ことばは、ほかの何かを描くことをやめて、ただ、ことばに還ってしまう。「白鳥の池」はことばでしかなく、「白鳥の池を淋しくなく描く」のもことばでしかない。そして、そのことがとても淋しい。そう、この句は明らかに淋しさへと向かって書かれている。それなのに、ことばはもはやその淋しささえ語ってはくれない。そしてそのことが、とても淋しい。

鳥やその無名の鳥を冬と思ふ

でも、それは本当は冬なんかじゃない。鳥だったはずだ。名を持たない鳥は、ことばが描くことをやめてしまった鳥で、その鳥のことをいくら「冬」だと思っても、鳥は冬にならない。「冬」もまた、ことばだから、けっして鳥を名指してはくれない。
こんな風に、ことばがことばにしか似ていなくなったとき、それはもはや僕たちの所有物ではなくなってしまう。美術館に陳列されていたことばたちは、自分を形作っている文字を組み替えるとたちまちこばとの群れに姿を変えて、エントランスの天窓からいっせいに飛び立ってしまったのだ。

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思えば、『淋しくなく描く』は、そのはじまりから、ことばが僕たちの手を離れてしまったところにある。

なんらかの鳥や椿の木のなかに

こんなふうにことばが並ぶとき、「なんらかの鳥」は決してなんらかの鳥を描いたりはしていない。「なんらかの鳥」は「なんらかの鳥」以上の何ものでもなく、「椿の木」ということばも、けっして、そこにあるはずの椿の木を言い当ててはくれない。
そして、本来、何かを喩えることでそれを描写してくれるはずの、あの「似る」という動詞さえ、もはや何かを描くことに力を貸してはくれないのだ。

紫陽花や心は都営バスに似て

この句においては、「心」ということばが意味したはずの抽象的な何かに概観を与えるために「都営バス」ということばがあるのだとはどうにも読めない。この句は、そうではなく、「心」が「都営バス」と結び付けられるときに、この二つのことばがすりかわってしまうという、ことばの世界で起きたひとつの出来事そのものでしかない。

煙ごしに祭のほとんどと逢へる

この「祭のほとんど」ということばによって、実際には、この句は祭のほとんどについて語りそこなう。でも、それは、何かについて語りきってしまったことばよりも、ずっと真実味のあることばだ。ことばは、このとき、美術館から飛び立つ以前にあった、ものや概念とのつながりの痕跡をあらわにする。ことばは、へそを出している。このへそこそ、かつてそのことばによって呼ばれたものがあったということの証だ。「スニーカー」も「屋根瓦」も「洗濯物」も「鴨」も「坂」も「蝶」も、『淋しくなく描く』のことばはどれも、こんなふうにへそを見せながら、誰のものでもない空を飛び回っている。
次の句だってそうだ。

横顔にちひさき耳や栗ご飯

当たり前のことだけれど、たとえば、「耳」ということばは「耳」と呼ばれた何かがあってはじめて、ことばとして意味をなすことが出来た。だから、もし「耳」と呼ばれる何かがこの宇宙からひとつのこらず消えてなくなってしまったとしても、この「耳」という書かれたことばがあるかぎり、そのことによって、かつて「耳」と呼ばれた何かがあったということが分かる。それは、「耳」ということばと「耳」と呼ばれた何かとをつないでいたへその緒が断たれてしまったあとでも、変わることはない。実際、ひとたび何かを意味することを忘れてしまったずっとむかしのことばたちは、このへそのことを知っているひとたちによってしか、ふたたびものに結びつけられ、その意味をとりもどすことはないだろう。

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それにしても、ことばたちはもう、あの懐かしい美術館へ帰ってくるつもりはないのだろうか。きっと、そうじゃない。

また美術館行かうまた蝶と蝶

美術館はあれからずっと、窓という窓、扉という扉を開け放して彼らが戻ってくるのを待っているのだし、ことばも、こんなふうに「また美術館行かう」と言っているのだから。でも、むかしとはちがって彼らは翼を持っているから、きっと自由に館内を飛びまわってしまうだろう。こうして、ことばは美術館を訪れては空へ舞いもどっていく愉快な来館者になった。
蝶は、蝶に似ている。

   


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