【週俳10月の俳句を読む】
秋から、冬へ
トオイダイスケ
俳句を始めて二度目の冬を迎えて、俳句を読むたのしみは、感情を動かされることではなく感覚を動かされることだ、とまだわずかだが実感を持って言 えるようになってきた気がしている。もしくは、感覚を動かされることによって感情がわずかに波立つこと、だろうか。もっと強く実感を持ってそう言 い切れるようになりたい。
電柱の努力で満月のはやい 福田若之
「電柱」は無数に立てられていて、電力を運ぶための電線をつないでいる。「電柱の努力」は、そんな電柱そのものの努力とも言えるが、「電柱である かのような、無数無名のつなぎ合わされて支えあっている努力」とも読める。
それによって満月が「はやい」。月、それも満月は古来じっくり眺めて楽しむものとされてきた気がするが、そんなことは一切構わないかのようだ。し かもひらがなで言い捨てられたような速さ(早さ)は、身体を躍動させる歓びの感触がまるでない。「はやい」満月は、デジタルデータとしての写真に 写されたもののような感触を残す。
どの言葉もあえて軽く、「絆」とか「がんばろう」みたいに、ぱっと聞いた美しさで思考を停止させるように人を縛る言葉としてあえて使われて一句を 成しているように見えて、読んだ感触が今生活していてよく見たり聞いたりする言葉や雰囲気のようで、現実味のある句だと思った。
実は実は秋の重さよ実は実は 二村典子
上五は「みはじつは」、下五は「じつはみは」と読んだ。視覚(字面)と聴覚(声に出して読んだ印象)とで、「秋の重さ」をその軽みをも含めて味わ えた句。
あ、秋。海。雨。ワイパーの、変な音。 佐山哲郎
「あ」「あき」「うみ」「あめ」の、句読点を挟んだゆったりとしたたたみかけが、あ行やま行の音の重なりも相まって、澄んでいてかつみずみずし い、広々とした空間の中での多層感をもたらす。そこに「ワイパーの」斜めの動きと、「変な音」が、意識を狭い視覚と聴覚に誘導する。
また繰り返して頭から読むと、フロントガラスのワイパーで拭かれた部分が再びゆっくり濡れていくような感じがしてくる。実は自動車の中にいたの か、外にいたのか分からなくなるような感じもしてきて、多層感がどんどん増してくる。
雨に森けぶりはじめし青鷹 大西朋
「もろがえり」という言葉を恥ずかしながら初めて知ったが、この句は「青」の字がとても美しくみずみずしく味わえる句だな、と思った。
蔦紅葉皿に平たくライス来て 塩見明子
落ち着いた古い洋食屋だろうか。「皿」に「平たく」盛られた「ライス」は、「ご飯」の「和の物」としての安心感を残しつつ、それが表層的に「洋の 物」という無邪気な憧れとしてそのまま味わえるようになるうれしさがある。そのうれしさとご飯こと「ライス」の輝きが「来る」。明治大正昭和的な 郷愁を実感する、その実感を懐かしむような句でもあって、「電柱の~」と真逆の方向と真逆の濃密さとで、同じような強度がある。
子規の忌の座りて傘を股間へと 越智友亮
座って傘を股間に置くのはおそらく電車の車内でだろう。傘は何度か払われたがまだうっすらと濡れていて、それを挟んで倒れないように、弱い力で支 えている膝の内側は衣服ごしに少しづつ湿っていく(みずみずしさ、とは程遠く)。たぶん遅い夜、終電車の、たくさん人が降りる駅を過ぎて、終着駅 に近づいているところに思える。ある一人の一日の「仕事」の終わりが感じられてきて(またそれは、さっきまで電車に乗っていた大勢の人一人ひとり の「仕事」の終わり、という多層感のある)、安堵を伴った寂しさとほの寒さとがある。かつ「子規」が格闘した江戸明治、その延長の大正昭和の「モ ダン」感への郷愁を伴ったエネルギッシュな気配が去っていく予感がある。雨の――わずかなみずみずしさの――残る冬のはじまりを思う。
第389号 2014年10月5日
■福田若之 紙粘土の港 10句 ≫読む
第390号 2014年10月12日
■二村典子 違う靴 10句 ≫読む
第391号 2014年10月19日
■佐山哲郎 こころ。から。くはへた。秋。の。茄子である。 10句 ≫読む
■大西 朋 青鷹 10句 ≫読む
第392号 2014年10月26日
■塩見明子 改札 10句 ≫読む
■越智友亮 暗 10句 ≫読む
2014-11-09
【週俳10月の俳句を読む】秋から、冬へ トオイダイスケ
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