2014-11-16

【週俳10月の俳句を読む】俳の効かせ方 月野ぽぽな

【週俳10月の俳句を読む】
俳の効かせ方

月野ぽぽな


電柱の努力で満月のはやい  福田若之「紙粘土の港」

何本かの電柱が、ある間隔で並んでいて、その上を満月が渡ってゆく。電柱があるお陰で何もない空に見る満月よりもその進み具合がはっきりわかる。あたかも電柱と満月との間でやりとりがあるかのようだ。

この句の語り口が興味を引く。ある言語を第二言語として、習得しようとする際、初学のうちは、言葉の使い方、たとえば助詞の選択、場合にふさわしい名詞の選択などがちぐはぐになりやすい。そんな感じとも思えたり。もしくは、眠りに落ちると、言葉同士の約束ごとが緩くなるためか、本人は理にかなっているつもりで話していても、目覚めている耳にとっては不思議に聞こえる。そんな感じとも思えたり。このちょっとした違和感と、それゆえにもたらされる心地よさなどがないまぜになった得も言われぬ感覚が読後に漂う。

 

天高し行きと帰りは違う靴  二村典子「違う靴」

行きは出勤用の靴、帰りはアフターファイブのパーティ用のピンヒール。それとも帰りはフィットネスセンター用のスニーカー。句中のその人が女性でも男性でも構わない。それぞれの生活が想像できそうだ。「天高し」の働きによって、その人の明るく開放的な心のありようが伝わってくる。

 

あ、秋。海。雨。ワイパーの、変な音。  佐山哲郎「こころ。から。くはへた。秋。の。茄子である。」

俳句作りをしてゆく中では「俳」との付き合いは欠かせない。とは言ってみたものの、広くて深いため捉え難く、個人差も豊かで、たとえば俳人が十人居れば十通りあるかのようにも思えるため一言では語り難い「俳」だが、ここでは確かにあるものとしてみたい。そうすると、句読点を俳句に使うこと、というのも「俳」の効かせ方の一つになり得る、と言えるかもしれない。ざっと想像してみて、まず句読点がその一句の中で必然性をもっているか、また句点読点の差異は如何に、など検討項目はありそうだ。とは言え、いろいろな試みがあることを知るのは興味深いことだ。

さて、掲句は車に乗って海の見える場所へ出た時の光景。海近くの独特な雨、そこにある音、それらにふと秋を感じることはありそうだ 。「ワイパーの」の後の「、」と句の終わりの「。」については断言できないが、ほかの句読点の存在に意味がありそう。というより、この言葉の並びのままで句読点を除くとどのように読んだらいいか解りづらくなる。そうか、句読点の働きで、発語感、かたこと感を失わずに句を成すことができるのか。も。

 

太陽と月を引つ張り烏瓜  大西朋「青鷹」

周りの樹々や葉が枯れ色の中、鮮やかな赤橙色の烏瓜がぶら下がっているのを見ると、そこに何か神々しい力が宿っているのではないかと思えてくる。そうか、太陽と月を操っていたのか。そういえば万物はすべて繋っていたのだな。

 

煎餅の気泡を噛み砕きて秋  塩見明子「改札」

「噛み砕く」という措辞から、堅焼きの の醤油煎餅が目に浮かんだ。さらに、単に煎餅を噛み砕いたのではなく、「煎餅の気泡」とまで言ったことで、そのごつごつとした煎餅の表面の様子まで伝わってくる。秋の澄んだ空気に、咀嚼の響きと醤油の良い匂いが漂ってくる。

 

彼岸花みんなが傘を差すので差す  越智友亮「暗」

自分の内面には、唯一無二の自分でありたいと願う自分の他にも、自分はどこかに所属していたい、皆と同じでいたいと願う自分もいそうだ。なんとなく印象として後者の方が瞬発力があり強く働いていそうな気がする。もちろん意識してすることもあるだろうが、無意識のうちに気付くとみんなと同じことやっていた、というふうに。ちょっと大げさに言うと人間の性のようなもの。それが、血を思わせる色を持ち、群れを成して咲く彼岸花のありようと通じ合う。



第389号 2014年10月5日
福田若之 紙粘土の港 10句 ≫読む
第390号 2014年10月12日

二村典子 違う靴 10句 ≫読む
第391号 2014年10月19日
佐山哲郎 こころ。から。くはへた。秋。の。茄子である。 10句 ≫読む
大西 朋 青鷹 10句 ≫読む
第392号 2014年10月26日
塩見明子 改札 10句 ≫読む

越智友亮 暗 10句 ≫読む

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