2014-11-09

【週俳10月の俳句を読む】私はYAKUZA Ⅶ 瀬戸正洋

【週俳10月の俳句を読む】
私はYAKUZA Ⅶ

瀬戸正洋


ジョツキを凍らせ、25度の甲類焼酎も冷やし、ホッピーも冷やす。ジョツキには目盛があり、そこまで焼酎を注ぐ、あとはホッピーを注げば出来上がる。これを「三冷」という。氷を入れてはいけないのだ。だが、「三冷」を実践している店は驚くほど少ない。だから、ホッピーは自宅で飲むに限る。そんな、ほろ酔い加減で「私はYAKUZA Ⅶ」を書いている。不謹慎ななどと思ってはいけない。人は必ず何かに酔っている。何かに酔っていなければ、書くことも、生きていくこともできないのだから。

紅葉するさくら卵の中の街  福田若之

さくらの木の紅葉、あまり美しいとは思わない。さらに、落葉を掃除することを考えるとうんざりしてしまう。卵の中に街がある。その街は殻で守られていて繁栄している。但し、閉塞感のある街だと思う。

団地の芝生がざりがに臭い秋の風  福田若之

ざりがに臭い芝生の上を秋風が通り過ぎる。ざりがにの臭いと秋風が交じり合ったのである。背景には、それほど高くない古ぼけた団地の連棟が見える。

露の世の鼻を交換する工事  福田若之

はかない世の中だから鼻を交換するのだという。そして、鼻を交換することを工事だという。鼻を交換することで、何か、すこしぐらいは良くなるのではないかなどと思ったりしている。

愛憎の虎が歩道橋に銀河  福田若之

愛憎とは同じ人に対し誰もが思う感情である。愛が深ければ憎しみは増し、愛がそれほどでもなければ憎しみもそれほどではない。その相手が人ではなく虎なのである。それも歩道橋にいるのだ。作者は、どれほど深く虎を愛しているのだろうか、何のために、全てを賭けて虎を憎んでいるのだろうか。仰ぎ見れば都会の空に銀河。

こおろぎを轢いた地下鉄同士の会話  福田若之

轢かれたこおろぎが落ちている。複数、落ちている。それを轢いたのは地下鉄であり、その地下鉄同士が会話をしているという。私鉄やJRのように空の下を走るのではなく、加害者には地下を走る電車が相応しいのかも知れない。「地下鉄同士の会話」とイメージできた時、死んだこおろぎに気が付いたことに、作者は感謝したに違いない。

電柱の努力で満月のはやい  福田若之

努力とはよい言葉だ。月が出たのは、それも満月のはやく出たのは、電柱の努力によるものなのである。もしかしたら、天空を満月が円盤のようにはやく動いているのかも知れない。もちろん、何もかもが電柱のご努力によってなのだ。

原子力空母をコスモスが覆う  福田若之

コスモスの咲く丘の向こうに東京湾が見える。亜米利加の原子力空母が横須賀基地に入ろうとしているのだろう。遠近法を使い原子力空母がコスモスに覆われているような情景にした。この方法は、弱者が強者に対抗するひとつの手段なのである。

ところで、強者のように振舞っている人はどこにでもいるが、その誰もが本心を隠している。生きるということは、淋しくて悲しくて、孤独なことなのである。もしかしたら、遠近法とは弱者が病んだ社会に対し対抗する手段なのかも知れない。

秋の虹電話線上の暴動  福田若之

秋の虹を電話線が妨げている。作者は秋の虹の全てを眺めたいのだ。その不快感の原因を秋の虹であるとした。好かれている人から暴動などと言われても秋の虹は困るだろう。秋の虹に原因があるとしたことは言いがかりなのである。作者が立つ位置を工夫すればいいだけの話なのである。

林檎A落ちて林檎Bは昇る  福田若之

JAの林檎の出荷場を想像した。林檎を選別しているのだ。Aは規格外、Bは規格内。そして、林檎を洗浄し磨く。洗浄機の中で林檎は上下に動いている。私といえば、おそらく「林檎A」であり選別され落とされ割れてしまう運命にあるのだろう。確かに、私は、誰からも選ばれるような生き方はしていない。

むむむむといわしぐも舌長い人  福田若之

いわしぐもの下に人がいる。いわしぐもは、「むむむむ」としいて、人の舌は長い。ただ、それだけのことなのだが、「いわしぐも」と「舌長い人」が、何故か面白いし、食い意地の張っている私は、その長い舌でいわしぐもを食べてみたいなどと思ってしまう。野原に寝転んでいると、雲は、それなりに美味そうなかたちをしていると思ったりもする。

手も足も届かない椅子秋日和  二村典子

座ったまま椅子を動かそうとしたら手が届かない。足に引っ掛けようとしたがそれも難しい。秋の良く晴れた日であった。

水澄むや澄めば澄むほど遠ざかる  二村典子

汚れていた方が暮らしやすいということだ。欲しいものでさえも遠ざかってしまう。とかく世間とはそういうものなのである。美し過ぎると邪心がうしろから近付いて来て悪さを仕掛ける。汚れることは生きていくために必要なことだと言われれば、身も心も汚れきっている私は、心の底から安堵し、今宵も、旨い酒が飲めるのである。

天高し行きと帰りは違う靴  二村典子

私にとって靴は履き心地が良く疲れなければ、それで十分なのである。駅ビルにも郊外にも靴の量販店はいくらでもある。靴を買う時、履いていった靴は処分してもらうことにしている。捨てる手間が省けるし、靴が増えることもないからだ。季節は秋、履き替えたあとの爽やかな気持ちで私は珈琲店に入る。

銀杏を割る難題を聞き入れる  二村典子

銀杏を割るにはコツがいるし、心乱されることなく難題を聞くためにはコツも必要である。しかしながら、それを会得してしまえば、それはその人にとって難題を聞くことも苦痛ではなくなるのだ。

台風がまた来る週末三連休  二村典子

作者にとって体育の日が絡んだ三連休は、何らかの思い入れがあるのだろう。忘れてはいけない何かがあったのである。俳句作品とは、他人が読むためのものではなく、あくまでも自分が読むためのものなのである。既に他人となってしまった過去の自分を、現在の自分が読むためのものなのである。

ねじの谷から虫の声ねじ山へ  二村典子

ねじの山がある。その中にコオロギか何かが入り込んで鳴いているのだ。ねじの谷から聞こえていた虫の声がねじの山から聞こえるようになったとは、移動したのではなく鳴いたり鳴き止んだりしている。そんな状況を、このように表現したのである。

今日の月息子の同級生がいる  二村典子

仲秋の名月、傍らには息子の同級生がいた。その時、息子は、そこに居たのか居なかったのかは不明である。息子の同級生は男性なのか女性なのかも不明である。だが、このことは詮索する必要はないのだ。不明のままにしておくことの方が面白いのだ。作者は息子の同級生がいることに気付いた。ただ、それだけのことなのである。

こころ。から。くはへた。秋。の。茄子である。  佐山哲郎

これは、作品ではなく題名である。だが、これも作品と同じく17音であり季語もある。句読点を使い遊んでいることも同じだ。これらの作品は、お経なのである。お経だから、本人には意味がある。だが、お経なのだから、読み手(聞き手)には心地良い文字(音楽)であり、句読点も含めた言葉のオブジェなのである。

星、色の。さかな。くはへて霧の、猫。  佐山哲郎

猫がさかなを咥えて飛び出したのである。だが、そのさかなは「星、色」であり、咥えた猫はただの猫ではなく「霧の猫」なのである。

振って、いま。野菊の。墓。へ。葬らん。  佐山哲郎

「野菊の墓」は、伊藤左千夫の小説である。悲しく淡い恋のものがたりである。政夫が民子を「振って、今。」なのだろうか。小説では、野菊の好きだった民子の墓の回りに野菊を植えたのだが、この作品は反対なのである。そのへんのところが「振って、いま。」を考える切っ掛けになるのかも知れない。

触るな、の。早良親王。秋、旱。  佐山哲郎

作者は「早良親王のことが好きだ」と言っている。早良親王には、「秋、旱。」が似合うのかも知れない。

反対に、触らぬ神に祟り無しだと思ってみる。臆病者の私は、どんなちっぽけなことでも、祟られることだけはご免被りたいのだ。それには、目立ってはいけない。人知れず、うつむいて、静かに暮すのだ。生きている人間に祟られることほど厄介なことはないと思う。

月。田毎。やや。あたかも。と。いふ、副詞。  佐山哲郎

棚田に月が映っている。作者はそれを、「やや」「あたかも」という副詞で表現した。「すこしばかり」あるいは「さながら」という意味である。姥捨の棚田も有名である。ほろ酔い気分で、この文字の塊をいくら眺めても、月光の降り注ぐ棚田しか見えてこない。それでいいのだと思う。

そういえば、神奈川県は西の外れ、某城お堀端の近くに「田毎」という蕎麦屋がある。こんな風景を眺めながら、蕎麦味噌を舐め熱燗というのも悪くはないと思う。

あ、秋。海。雨。ワイパーの、変な音。  佐山哲郎

海までのドライブ。季節は秋である。雨が降ってきた。ワイパーを動かすと調子が悪く変な音がしている。助手席に座っているのは愛人なのだ。ワイパーが壊れるのは、そんな時だと決まっている。もうひとつ、はじまりが「あ、」なのだから、絶対、愛人なのである。

あんた、皺。それ干柿。の、やうな、それ。  佐山哲郎

これは、老人の会話である。会話を作品にしたのである。句読点が一番生きている作品のような気がする。その上に、干し柿は甘くて美味しいのである。

私が子供の頃、縁側に皮を剝いた柿が簾のように干されていた。現在、そんなことをする家は見かけなくなった。老人が干し柿を作らなくなったのだ。手間をかけずに美味しいものがいくらでも食べることのできる時代になったということなのだろう。

できちやつた婚。の。夜長。の。已然形。  佐山哲郎

已然形がこのドラマを象徴している。「できちやつた婚」には無数のストーリーがあるし、私のような老人にとっては、絶対に経験することのできない世界なのである。「できちやつた婚」ができちゃつたら、私は、法律によって罰せられるのである。

啄木鳥、の。自傷行為。を。疑はず。  佐山哲郎

啄木鳥に自傷行為があるのかないのか私は、知らない。ただ、人間には間違いなくある。私は、啄木の歌集「悲しき玩具」を思い出したりしている。石川啄木には、「我等の一団と彼」という作品が残ってはいるが、彼は、本当は、小説が書きたかったのである。

秋。遺影。イエイ。を。叫ぶ。だれですか。  佐山哲郎

六十歳を越えると人生は「秋」なのだという。(既に、真冬なのだろうと私は思うが)そろそろ、「遺影」用の写真のことを考えるべき年頃なのである。そして、思わず「イエイ」と叫ぶのである。もちろん、これは洒落である。誰ですかなどと気取って尋ねる必要などないのである。叫んでいるのは本人に決まっているし、叫ばれているのも本人なのだから。

遺影用。写真。撮りつこ。する。花野。  佐山哲郎

花野で遺影用の写真を撮りっこするのは三十歳代の夫婦であって欲しい。子育ての真っ最中、ふと、そんな気持ちになることがあっても当然だと思う。

でも、佐山さんと、そのお友達のことだから、大勢のお爺さんお婆さん同士が、けらけらと笑いながら遺影用の写真の撮り合いつこをしているのだろう。「イエイ」などと言ったりして。

雁や竹垣すこしづつ緩び  大西朋

竹垣がすこしづつ緩んできているという。竹垣は、緩むことはないのだが雁を眺めていたらそんな気持ちになってきたのだ。

鵙の贄音なき雨の大粒に  大西朋

鵙の贄が枝に刺さっている。雨が降っている。だんだん大粒になってきたが雨音はしない。子供の頃、鵙の巣を見つけたり、鵙の贄を見つけたりした記憶が蘇ってきた。

鬼の子の揺れていささか眠きかな  大西朋

鬼の子が揺れているのは日陰である。蓑から出ている棒状の先の一点がどこかにくっ付いている。従って、揺れているのはくっ付いている細い枝なのである。枝と鬼の子が揺れているのを眺めた作者は、揺りかごのようだと思い、いささか眠くなったのである。

秋高し薬缶と如雨露並べ置き  塩見明子

薬缶と如雨露を並べて置いたのだが理由がわからない。理由なんてどうでもいいじゃないかと作者は言っているのだろう。たとえば、それは、家庭菜園のための如雨露、その如雨露に水を補給するための薬缶。少し離れたところに、その菜園はあるのだ。それにしても「秋高し」とはいい言葉だ。

虫の音や消しゴムに角なくなりて  塩見明子

使い込んだ消しゴムがノオトの傍らにある。いまどき、鉛筆と消しゴムなどというと郷愁を誘う。窓の外より虫の音が聞こえる。使い込んだ鉛筆とノオトと消しゴム。そして、虫の音、作者は当然のようにやさしさにつつまれている。

鳥渡る食堂の窓開け放ち  塩見明子

海辺にある働く人たちが主として利用する食堂のような気がする。窓は開け放たれていて爽やかな海風が入ってくる。窓から空を見上げれば南の島に向う渡り鳥の群れが見える。どこかからやって来た根無し草の旅人が飯を食べていたりして。女将さんは亭主の自慢話などしていたりして。

改札をはさみて話す秋彼岸  塩見明子

春と秋のお彼岸にしか会えないのだから話すことはいくらでもあるのだろう。駅員や乗降客がいてもお構いなしだ。深刻な話ではなく、どうでもいい世間話なのである。ホームの土手には曼珠沙華が咲いている。

蔦紅葉皿に平たくライス来て  塩見明子

壁には蔦紅葉、それがレストランの中に居ても見えるのだ。ライスが皿に盛られて運ばれて来た。思ったよりも平らに盛られていることに気付いた。消費税が3%上がったからなのかなどと思ってはいけない。それなりに工夫された盛り付けなのである。昼間のビールはことのほか美味しい。

いわしぐも駅から次の駅が見ゆ  越智友亮

これは間違いなく都会の駅である。田舎では、こんな近くに駅を作るというような無駄なことはしない。近ければ歩けばいいのである。都会の駅のホームで秋を感じるのは、ふと、見上げた空に、鰯雲を見つけたときぐらいなのかも知れない。

虫しぐれ眠くても手紙を書くよ  越智友亮

これは間違いなく愛する人に手紙を書いているのである。それも、虫しぐれの中で。「眠くても手紙を書くよ」とは相手に訴えているのだが、心で訴えているに過ぎない。行間を読むなどというが、作者のあまえているようなやさしさは、他の綴られた言葉の端々から必ず伝わるものなのである。だが、伝わった方が良いのか悪いのかは別の話だとは思うが。

ひとを待つすすきと自動販売機  越智友亮

ローカル線の無人駅の駅舎の前、あるいは、田舎のバスの停留所の前に一台の自動販売機がある。その傍らにはすすきが風に揺れている。作者は人を待っているのだ。さて、「すすき」と自動販売機、いったい作者はどんな人を待っているのだろうか。

カップ酒あたため秋の星明るし  越智友亮

カップ酒を温めるとは、それを湯の中に入れるのだろう。しばらくして、湯から取り出し蓋を外し口に含む。ほっと一息、これが、また、たまらないのだ。ふと、見上げると、夜空が、いつもより明るく感じられた。秋だからなどと思う。今日は、何故か不思議に穏やかな一日であった。

ホッピーの話からはじまりカップ酒の作品で終わる。私にとっても穏やかな休日であった。自己を抑制することのほとんどできない私にとって、酒は危険この上ない液体なのである。酒神に守られているというのは自分で思っているに過ぎないのなのかも知れない。飲み過ぎるから人に嫌われ、食べ過ぎるから体重が増加する。

デルポイのアポロンの神殿に奉納された碑文「汝自身を知れ」「度を越すなかれ」は、馬鹿な私にとって身に詰まされる言葉だとつくづく思うのである。壁に貼り、毎日、唱える価値は十分過ぎるほどある。

また、一週間が始まる。往復4時間掛けて会社へ通うのである。サラリーマンにとって幸福な日とは、休日の前日と給料日である。不幸な時といえば休日の午後十時あたりか。身も心も貧しいのだから意気がる必要もなく、明日からの金儲けのために、少しでも眠る時間を確保しようなどと思っている。


第389号 2014年10月5日
福田若之 紙粘土の港 10句 ≫読む
第390号 2014年10月12日

二村典子 違う靴 10句 ≫読む
第391号 2014年10月19日
佐山哲郎 こころ。から。くはへた。秋。の。茄子である。 10句 ≫読む
大西 朋 青鷹 10句 ≫読む
第392号 2014年10月26日
塩見明子 改札 10句 ≫読む
越智友亮 暗 10句 ≫読む

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