2015-02-01

第6回石田波郷新人賞受賞作を読む  賞の輪郭(後編) 小池康生

 第6回石田波郷新人賞受賞作を読む
賞の輪郭(後編)   

小池康生

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前回にも断りを入れたが、わたしは『石田波郷新人賞受賞作』を読むというよりは、『石田波郷俳句大会第6回作品賞』の全体を読んで楽しみ、その感想を書いている。

波郷新人賞を狙う人は、この小冊子を手に入れて読むといい。

各審査員から仮名遣いの安易な間違いに気を付けるようにとか、二十句のなかに直喩の句をいくつも入れないようにとか、その他具体的なアドバイスが選評のなかに散りばめられていて、コミュニティを持たぬ人たちには貴重なアドバイスになることだろう。

冊子内の、選考過程について説明する一文に石田波郷新人賞は、〈「俳句甲子園」で登場した若い才能がさらに大きな注目を集める「第2のステージ」として、この新人賞が位置づけられるという見方も増えています〉とのこと。確かに、学生俳人がさらに社会人をも含めた俳句の世界で羽ばたく登竜門のような感じはする。

年齢制限三十歳までコンクールだから、学生とは限らないのだが、実際には、今年の受賞作は十八歳の大学生。準賞は十七歳の高校生。奨励賞は二十歳の大学生と、二十四歳の社会人と、三十歳の院生。

ひとり三十歳がいるが、実に若い人たちが活躍していて、二十歳以下にしても成立しそうな勢いである。

俳句は年齢ではなく、俳句を読んできた数、詠んできた数、さらにはその読みがどれだけ深いか。そこに俳人の成長が関係するとつくづく感じる。

年齢的な深みも重要であるが、月に4句5句を作ってそれで終わるだけでは、年間六十句程度の作句数。作者が年齢的深みを持っていたとしても、それを作品に載せる技は、その作数ではなかなか身につかないだろう。

高校生は俳句甲子園のためにだけ俳句を作っているわけではないだろうが、俳句甲子園に出場するにあたり集中的に作品を作る。月に4句5句では済まない。数百句は作るだろう。

初学を抜け出す方法として、まずは2000句以上作ることだと西村和子さんが総合誌で発言していたことがあり、おおいに共感したものだ。俳句甲子園強豪校の部員は、三年間の高校生活で2000句ほどを作っているものと推察する。高校卒業と同時に、「初学」も卒業していくのだ。

ただ、濃厚なコミュニティに所属し、先輩諸氏との交流を重ねたドラマチックな「キャリア」の前では、作句数の話は力なく霧散するだろうが・・・。

もとい。石田波郷新人賞へ。

応募数70編。これが多いのか少ないのかわからないが、テーマを持った20編をまとめるというのは大変なことだろう。

大半の応募者は、締切りぎりぎりに追い込みで仕上げ、仮名遣いや文法のチェック、並べ方にまでは細心の注意を配れぬ人たちが大半で、締切日を遠くから見て、段階的に二十句を完成させていく人は少ないだろう。

しかもベースとして、それまでにすでに2000句を作り、しかるべき選を受けてきた人間の数はさらに限られ、コンクールの上位進出は、応募以前から決まっているようなものではないだろうか。鍛錬の場を持っていたかどうか。その差は大きい。

さて、受賞作の話。


●新人賞 しがみつく』堀下 翔

一面に蝌蚪をりすべて見失ふ
流燈を追い越してみづ駆けにけり

に惹かれた。さらに劈頭の句も印象的。

熊ん蜂二匹や花を同じうす

たいていの18歳なら〈熊ん蜂二匹が同じ花の中〉と書く可能性が高い。この一句で、散文ではなく韻文をやっていますよとたからかに宣言しているわけだ。

しかし、四人の審査員全員が印をつけているかというとそうではなく、岸本尚樹◎、佐藤郁良〇、甲斐由紀子と齋藤朝比古は無印。これが俳句を選び、選ばれることの面白さ。

甲斐由紀子は、選評に〈自然を場として自然現象をよく観察し、写生を基本として詠出している。まだ十代であるが、俳句の骨法を熟知しており、作品の風姿が端正である〉と書きつつ、〈(略)反面、選考会では「いかにも俳句的」「若さを感じない」という意見もあった。確かに「一面に蝌蚪をりすべて見失ふ」や「秋風やかはうその尾が川のうへ」などには俳句的手口が見え隠れしている。それをあからさまにみせないのが、芸の力であろう。〉

こういう選評を若き応募者たちはどう読んでいるのだろう。わたしは興味深い。作品がある。作品を読む人がいる。そこから出てくる言葉が、どれだけ作者や座を囲むひとたちを刺激するか。この場合は冊子を手にとる人たちを、コミュニティのメンバーと考えたい。わたしには、〈俳句的手口が見え隠れしている。それをみせないのが芸の力であろう〉というところがアンダーライン。

前回、ちらりと書いたが、俳句を作り「俳句的」と言われる場合、すでにある俳句を踏襲しているという批判が含まれる。古典を学び、新しみを追求する姿勢からすると、「俳句的」であることに批判的要素が含まれることにいつも抵抗を覚えるのだが、上記の発言はとても肯える。

つまりはバランスであろう。学んだものをどう昇華し、自分の文体にひきつけ、新しみを拓くか。

わたし自身、ただならぬ新人と目を見張りながら、20句全体に心躍らされたかというと話は別。感心して読んだのは事実だが(それで十分なのだが)。しかし、18歳。これからこの作者の作品になんども心躍らされることだろう。どうすれば18歳でこれだけ韻文精神を身につけられるのか。

俳句を始めたばかりの青年は、戸惑いを覚えることだろう。いや、俳句を始めたばかりの人は、ここにある技術や、抑制に気づかないかもしれない。


●新人賞・準賞  眼を得る』 永山智郎

現役の高校生。俳句甲子園優勝開成高校の中心的メンバー。17歳。
わたしが二重丸をつけて読んだのが、

ある高さからは色なき石鹸玉
蝙蝠や玄関先に読む手紙

劈頭の

きさらぎの市場へ光りゆく轍

の「ゆく」には引っかかりを覚えたが。
選考過程を読むと、正賞の『しがみつく』と最後まで競った作品であるらしい。

この作品にもふたりの審査員が印をつけている。
佐藤郁良◎、齋藤朝比古〇。甲斐由紀子と岸本尚樹が無印。

佐藤郁良の選考評。
〈準賞に決まった『眼を得る』は最後まで『しがみつく』と議論になった作品である。とりわけ「ある高さからは色なき石鹸玉」の発見、「工具みな違ふ光やきりぎりす」の取り合わせの感覚などは秀逸である。(略)全体として抑制された表現の中に滲み出る叙情性に強く惹かれた。『しがみつく』が平明な写生を旨としているのと、ある意味で対照的な作品であった。〉

齋藤朝比古の選評は、まず、『眼を得る』と下楠絵里の『風の名』を一緒に評し、〈俳句でしか言い得ない世界観を表現しようと試みた、作者の力量が伺われる好作〉としたあとに、全体の作品に触れている。

〈いずれの作品も新人賞作品との大きな差異はなかったことは、第一次選考の集計結果や選考委員会での議論の内容から疑う余地はない。また、ここのところの本賞への応募作品のレベルの向上は著しく、先の新人賞者の活躍を鑑みるに、本賞がまごうことなく若手新人の登竜門として機能している点は、選者としてとても嬉しく思う〉

こここで言うレベルが応募作70編全体を示しているのか、最終審査に残った12編のことを指しているのかは不明。
このあと、こういうアドバイスが続く。

〈最後に少々の苦言。毎年応募作品全体を読み、選考させて頂くのだが、「不用意な仮名遣いの間違い」「安易な当て字の使用」等により最終審査から漏れてしまうという、選考する側から見てとても残念でならない。少々の時間を割いて、今一度の推敲と辞書による確認をしてから投稿するよう、切に願う。〉
最後の〈節に願う〉を読むと、相当惜しいことをした作品があったのだろうといらぬ想像をしてしまう。

準賞の『眼を得る』に戻ると、甲斐由紀子の評は、抒情にあふれた作品を褒めつつ〈全体にバラつきがあり、受賞に至らなかった〉とのこと。

一方、岸本尚樹は、
〈「ある高さからは色なき石鹸玉」「兄いもと寝網一つに入れてやる」「工具みな違う光やきりぎりす」「冬来る嵌め絵の少女眼を得れば」などが完成度の高い秀作。私自身は『しがみつく』のユニークさ(確信犯とも思われる緩い、脇の甘い文体で読者を句中に誘い込む独特の句触り)を評価したが、句の出来では『眼を得る』も十分に正賞に値するとの認識が選考委員間で共有されていた。〉

そこまでの接戦だったようだ。次回有力候補であることに間違いないだろう。

18歳と17歳の接戦。改めて、ふたりの筆力に舌を巻き、やはり俳句は一部天才的な人たちのものではないかという考えが頭をよぎるが、しかし、『しがみつく』にしても『眼を得る』にしても、どちらもダサいタイトルではないか。そこを衝く審査員はいないのかと心の中で毒づき、特別でも天才でもない全国の17歳や18歳に思いを馳せる(ホンマかいな)。


●新人賞・奨励賞 広がる町』 今泉礼奈

この人は、ネットの中で「俳句アイドル」を自称している人であることは知っていたが、作品に触れたことはなく、劈頭の句、

初空のふつくらと鳥受け入れる

を読んだ時には、軽い驚きを覚えた。本格的ではないか。もっと新しさを全面に押し出す主観的な句を作る人かと勝手な先入観を持っていたのだが・・・・。

双六の紙をおさえる係かな

も意外なところを衝かれた気持ち良さがある。私の特選は。

箸くばる手に酢のにほふ晩夏かな

その他にも、たくさん印を付けながら読ませてもらった。
気になったのは、三句目

白木蓮のおほきく昼を過ごしけり

一句目で「ふつくら」、ここで「おほきく」どちらも形容詞に大事な仕事をさせ、それがはじまりの3句までに入っているというのは損な構成ではないだろうか。


●新人賞・奨励賞 この蔦を』 黒岩徳将

審査員全員が、以下の2句を挙げて褒めた。

つまらなきものの輝く夜店かな
ポインセチア四方に逢いたき人の居り

わたしもこの2句に特に惹かれた。夜店の句は、この小冊子全体の中でも一番魅力を感じた句である。特選のなかの特選。

しかし、他の句がいただけない。作品全体のバラつきということでは、この20句が一番バラ付いているように思う。昨年も奨励賞。さて、来年は?


●新人賞・奨励賞  月白』 堀切克洋

甲斐由紀子が二重丸。選評は、

〈「うみうしの取り残さるる磯遊び」「蝸牛しづかに泡を吹きにけり」「蟷螂の尻ふるはせてゐるばかり」など対象に対する哀憐の情が静かに沸き起こる佳句も多く、地味ではあるが言い過ぎない鷹揚な句柄に惹かれた。他の選考委員から「インパクトがない」「既視感のある作品がある」との指摘もあった。今後は、取り合わせる季語については、先行作品にあたって吟味するなどの努力が必要であろう〉

このコメントにほとんどのことは言いえているだろうから、なにも足すことはないのだが、わたしは、

どちらかといへば汗かく人が好き

に強く印を付けた。作者の立場にたてば、既視感を指摘され場合、具体的な作品を提示して欲しいところだろう。句会でよく「既視感」があるという指摘がおこなわれるが、コンクールの選考の場であれば、具体的指摘が必要かもしれない。

「既視感がある」は決定的なマイナス要因でありながら、使い易い言葉であるところが怖い。

こうして、全体を見ると、賞にかかった作品群はすべて旧かなである。

これは応募要項に制約があるのだろうか。それとも石田波郷賞だから押してしるべしというところだろうか。

賞を得た作品群は、伝統から多くを学び、韻文精神を知り、俳句の骨法を知っている作品ばかりである。その後の活躍は約束されるのも、そういう基礎の厚みを認められているからだろう。

新機軸もあくまで基礎があればこそ。そういう意味では、王道を行くコンクールである。

しかし、気になることもある。

それはキャリアを見て感じることで、この小冊子に必ずしも学歴などは記されていないが、彼らは進学高校、一流大学を出て、俳句甲子園経験者であり、すでに俳句エリートとして注目を集めている人たちであるという共通項がある。

前回、自分自身が遅れてきたおっさんであることを書いた。

これからも遅れてくるおっさん、おばさん、婆さん、爺さんが俳句の世界に入ってくるだろうが、若手にも遅れてくる人たちがいるはずだ。そこがとても気になる。

俳句甲子園と縁なく、大学に入ってから、社会人になってからスタートを切る若者たち。この遅れてきた青年たちは、今、本当にやりにくいだろうと思う。先行している若者はたいてい俳句甲子園経験者で、すでに横のつながりもできていて、技術も身につけている。そんな同世代の先輩と座を囲むのは結構肩身が狭いかもしれない。

遅れてきた青年たちが、旧かなを使いこなし、文法を間違えず、魅力的なタイトルをつけ、20句の並べ方に演出を施し、見ず知らずの読み巧者をうならせるのは簡単なことではない。

遅れてきた青年たちに薦めたいのは、結社に入ることである。

最近、というよりだいぶ前から、若手の有力な俳人たちのネットでの発言は、図らずも結社のネガティブキャンペーンになっているところがあり、それを結社所属の人間がとやかくいうのも憚られていたのだが、一度書いておきたいことがある。

別にわたしの所属する『銀化』の宣伝でもなんでもない。

遅れてきた青年たちに、結社という存在がお勧めであるということ。

結社に入らないまでも師を持つべきである。ひとりで俳句力を身につけられるのは、天才的な一部の人たちだけなのであるから。

散文はひとりで学べると思うが、韻文は短い癖に、極端に短いからこそ、そうはいかない。あまりに特殊な表現なのである。

天才的な人間が、一流高校から一流大学に進み、そのなかで有力俳人のいるコミュニティに参加し、作句力や鑑賞力や俳句に関する情報を得ていく。遅れてきた青年が彼らに追いつき、自分の世界を展開し、それが独りよがりに終わらず、石田波郷新人賞受賞レベルにたどり着くのは大変なことである。

若者には、結社アレルギーのようなものが深くあるようだが、アレルギーが起こるほどたいした毒性を持つ結社などあるだろうか。あればそれはそれでたしたものである。

結社には、面倒臭いことはあるだろうが、初学のうちはない。

同人になって多少注目されるようになってからはないとは言えないが、それもせいぜい消費税程度のもので、さらに言えば、今の消費税ではなく、以前の消費税程度のものである。

それよりも、師を持つことの大きさ。良き先輩を持つことの喜びは大きいし、実際役立つ。

結社に所属する人間からは言いにくいが、結社は必要である。

確実に育つ。

俳句甲子園卒業の有力若手俳人が無所属であることが無所属に意味を持たせているのだろうが、それが勘違いのはじまりである。

彼らは俳句甲子園で有名になり、多くの知己を得て、あちらこちらの結社の句会に参加できるようになり、そこから結社の滋養も得ているのだ。無所属であるが、結社からなんらかの栄養は得ているのだ。

或いは結社で実力をつけた人たちから間接的にその栄養分を受け取っている。

一方、自分たちで新しい集団を作り、過去の俳人とは違うコースを探りつつ、その全体の活動を「運動」として自らの創作のかたりを作り上げているのだと思う。それは実に面白いことであるし、そちらに目が行きがちであるが、その前段では自力をつける場所を持っていたというところが大事で、今はその話である。

仲間作りよりもまずは、基礎を身につける場所の獲得である。

遅れてきた若者たちが、「理解しあえる同世代」と、「技術を学ぶ場」を同時に獲得できるとは中々思えない。

漠然と横のつながりばかりできていも、初歩的修練の済んでいない人間があちらこちらに顔をだしたところで、活躍も吸収も難しいのではないだろうか。

まずは、俳句文学館や柿衛文庫に行って目をつけた俳人の句集を読み、これという人を見つけるのだ。そこには毎月の結社誌もおいてある。簡単に師が見つからないのも当然。あちらこちらを見学してまわるのも一つの手だ。

エリートのことはどうでもいい。すでに道はつき、活躍は約束されている。それよりも、遅れてきた人間は、遅れてきた人間にふさわしい道筋を探さねばならない。

前々からネットの中で言っておきたかったことだが、石田波郷新人賞を読み、一層、その思いが募る。

ただ俳句に興味を持っただけの凡夫にこそ、俳句世界は面白いところであって欲しい。

高校生は2年3年で開花する。遅れてきた青年たちは何年で開花するのだろう。時間はかかるだろうが、恵まれたエリートだけでなく、ゆるゆる戸惑いながら俳句の世界に入り込んだ青年が、石田波郷新人賞を獲るなんて面白いではないか。

俳句の世界がエリートばかりではつまらない。物語の筋書きは色々あってしかるべきである。結社がネガティブなイメージを持っている時、結社にひとり飛び込み、滋養強壮を得て、突然意外なところから無名の若者が俳句の世界に登場するような物語に接したい。

凡夫たちよ、結社に潜り込め。師を選べ。いつか石田波郷新人賞を獲ってやれ。・・・まったく余計なお世話を書いてしまった。

(以上)

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