【石田波郷新人賞落選展を読む】
思慮深い
十二作品のための
アクチュアルな十二章
〈10〉選ぶ眼と、整合性のとれた世界に流れ込む騒がしい者ども
田島健一
10.異世界(中西亮太)
私たちが生きる世界は偶然に溢れていて絶えず騒然としているのだけれど、俳句の有季定型という窓から覗くと不思議と世界はそのサイズに収まってしまう。けれどもそれは世界が自然とそこに「収まって」いるのではなく、むしろ私たちの「選ぶ眼」が、騒然とした世界から俳句として書くべき「美しい」ものだけを選択し書きとめている。そうして騒がしい諸々の声は封じ込められ、世界は整合性のとれたものとして私たちの想像的な領域でバランスを保っている。
あまり知られていないことは、そこで選ばれなかった諸々の声の幾許かは、書かれた句に痕跡を残し、そこに書かれた俳句を歪ませるということだ。
異世界の入口なりし山椒魚 中西亮太
ここで言う「異世界」とは、どの位置にあって、私たちが生きる「自明の世界」とどのように関わっているのだろうか。逆に問えば、この「山椒魚」を包み込んでいる異世界ではない世界は何によって守られているのだろうか。
この「山椒魚」はあたかも「異世界」からの使者のような佇まいで、私たちには見ることができない「異世界」の存在をそこに立ち上げている。そのような気配は、「山椒魚」の佇まいが、私たちが生きる、「いまここ」にある世界から少しズレたものとして感じられる。
そのズレを「感じる」視線はあくまでも健康的な視線で、それはどこまでも「異世界ではない世界」にとどまっている。
通常、いまここにある世界と「異世界」とはパラレルな関係で、どこまでも触れ合うことはない。ところが、この「感じる」が「信じる」へと変化し、あくまでも世界の「ズレ」だったものがことごとく視線を支配するようになってしまうことがある。そして一度「信じる」ことに取り憑かれると、私たちは「異世界」の気配を感じとる「健康的な視線」を失う。そのとき異世界はもはや異世界ではない。
初恋の傷もいつしか蜥蜴かな
密め抜く初恋氷室の桜かな
「初恋」は正にそのような「信じる」視線のひとつかも知れない。「初恋」の対象がもつ些細な特徴や仕草は、恋を患った者の視線を支配し、もはやその視線の外側に立つことはできない。逆に言えば掲句のように「初恋」と名指しする作者の視線は、そのような「初恋」を「信じる」視線の外側にいる。それは「いまここ」にいる別の主体として、あるいはノスタルジーとして「初恋」をその外側から呼び出す。
実際に「信じる」視線にとって、そこはもはや「異世界」ではなく、逆に言えば、私たちが「いまここ」として暮している自明な世界も、すでに「信じる」視線をもった私たちが、信じた結果として広がっているに過ぎないのかも知れない。
暗闇に沈丁の香の溶けにけり
コスモスのたなびきたるや合唱祭
俳句をつくるときに厄介なのは、「信じる」ことの外部にいる視線にとっては、「信じる」視線に見えているものが「異物」としてうつることだ。俳句を書きながら、そうした「異物」は差し引かれ、そこには感触の良い、明朗なことばだけが書き残される。
俳句を書くとき、私たちは見えるものしか主題化することができないし、さらには名前があるものしか見ることができない。ましてや「いまここ」にパラレルに寄り添っている「異世界」に触れることは全く許されていない。
この「できなさ」に眼を見開くとき、初めて俳句に「何を書きとめるか」という議論に進むことができるのではないだろうか。
私たちが「ことば」で何かを名指すたびに、「信じる」者にしか見えない「まぼろし」たちの声を失わせ、その声たちを俳句の「美」に殉じさせる。私たちの「選ぶ眼」は、そうして世界をシミュラークルに描き尽くし、「信じる」ことを私たち自身から奪い去る。
逆に言えば、実はそこに書かれた俳句は、正にその主体が「何を信じているのか」を指し示していて、いかに「選ぶ眼」が全てを制御しようとしても、そこから零れたまぼろしの声たちによって、彼が何を「信じている」のかを露呈してしまうのだ。
俳句はそうやって主体の「信じる」領域に関わってくるのだけれど、その「まぼろしの声」は私たちにとってどのような意味を開示するのだろう。ここで実現されなかったものたちは、どこでそれを成し遂げるのだろう。
〈第十一章〉へつづく
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