2023-04-23
「麒麟」発足座談会
2021-03-14
祝祭 中西亮太 10句
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祝 祭 中西亮太
なめらかに光をつなぎ春の雪
艸魚忌や午後がまつたく暇であり
片足の潦水に触れ垣繕ふ
布物のまとめ置きある畑打
水温む机の脚を組み上げて
卒業の朝はこんなに眩しいか
春光をも貫いてゐる瑞鳥図
永き日や黒鍵白鍵より軽く
掃く人の椿壊してしまひけり
祝祭のあとしづかなる春の村
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2018-07-15
背景を描く季語 島村元の一句 中西亮太
背景を描く季語
島村元の一句
中西亮太
最近、高浜虚子編『ホトトギス雑詠選集』を読んだ。無知だからだろうか、興味を持った「はじめまして俳人」を何人か見つけることができた。この『ホトトギス雑詠選集』、いざ読んでみるとなかなか読み終わらない。がんばって読み切った感じである。今回は、はじめまして俳人の一人を取り上げたい。
島村元。『現代俳句大事典』〔※1〕を紐解いてみると、若くしてこの世を去ったことがわかる(1893~1923年:享年31歳)。あるサイト〔※2〕によると、1900年の平均寿命は41歳、1950年は61歳なので、やはり早世だ。「虚子も元の俊敏な頭脳と才能を愛し、大いに将来を嘱望した」と同事典にもあるように、ホトトギスでも一目を置かれていた存在だったのだろう。元の句は『ホトトギス雑詠選集』に(おそらく)全部で52句収録されている。
花黄楊や蜂おとなしく食ひこぼし
ミツバチだろうか、花粉を集めている。蜂と言えば、攻撃性を含め、静的な印象はあまり感じない。けれども、この句に描かれる蜂はどこか間抜けでかわいらしい。そんな蜂がぽろぽろとこぼすパステルイエローの花粉。
さて、この句の季語は「花黄楊」である(虚子はこの句を「黄楊の花」の句として分類している。)。この季語は、蜂のかわいさを句全体に敷衍する効果を持つと考えられる。間抜けなかわいい蜂。そこに黄楊の花が持つ淡い色味を足すと、句全体が「かわいさ」に満たされていく。漫画やアニメで、「わはははは~」と走ってくる子のシーンがスローかつきらきら背景で描かれるあの手法と同じようなものだろうか。
上五に「花黄楊や」と据えることで、読者は、一輪の花黄楊だけでなく、周りにある黄楊の花を背景に間抜けな蜂を連想することができるようになる。こうして考えると、この句は背景という細部まで一コマを描きぬいていると捉えることができるのではないだろうか。蜂という対象も、背景を支える花黄楊によって一層かわいらしく描かれているのだ。
ところで、元の死後、句集が出ている(1924年に私家版として出されているようだ)。せっかく見つけ出した「はじめまして俳人」なので、いつの日かこの句集を手にしてみたい。
【参照】
〔※1〕稲畑汀子・大岡信・鷹羽狩行監修(2005)『現代俳句大事典』三省堂.
〔※2〕「平均寿命の歴史的推移(日本と主要国)」http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/1615.html (2018/7/8閲覧).
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Labels: 久留島元まるごとプロデュース号, 中西亮太
2015-08-16
【週俳7月の俳句を読む】中西亮太 俳人の目とその共有
【週俳7月の俳句を読む】
俳人の目とその共有
中西亮太
高浜虚子が「客観写生」を謳って以来、それがある種、俳句を象徴する言葉となった。以来、俳人はその目に映るさまざまな景を各々の感性をもって俳句に描き続けている。われわれは俳人の目を通して詠まれた句の解釈し、そこに描かれる物語を鑑賞するのである。
俳句を鑑賞する際に、作者が見ている景を完全に共有することは困難が伴う。しかし、詠み出された句を通してその景に思いを馳せるとき、われわれは「俳人の目」をまさに共有する存在となろうとするのである。
シャワー浴ぶまなうらに日の沈まざる 安里琉太
作者は「まなうら」を見ている。と言っても、目を閉じながら思いを巡らせているのは外の景色である。「沈まざる」から、一日の疲れをとるシャワーを浴びているときの句だと読める。自身は一日の終わりを迎えようとしているのに、夏の太陽はまだ一日を続けている。
狭く暗い「スクリーン」としてのまなうらに投影された太陽は、まなうらのイメージに対比されることで生き生きと描かれ、夏らしさがうまく表現される。「夏」という季節からいやがおうでも逃れられない「運命」を思い知らされるようだ。
割腹のあとのうつろも夕焼くる 竹岡一郎
ここで描かれるのは割腹した人の視点である。登場人物は割腹の果てに視界がぼやけ始める。そのような状況にも関わらず、自然は無情にも動き続けている。ここでの「夕焼」は自然を象徴すると同時に、命を象徴するのではないだろうか。夕焼けの美しい景色を最後に、彼は命を落とすのである。
絶命を控える命の脆さと取り合わせられた夕焼けの力強さは、読み手に対して圧倒的な景を連想させてくれる。
台詞つかへて背後に海のあるごとし 青本柚紀
台詞がつかえるという出来事から、広大な海へと展開されていく。半ば強引に海へと想像を操作されるわれわれ読者は、「うまく乗せられた」のである。失敗(=台詞がつかえる)という「小さな出来事」を広大で穏やかな「海」へと転換する効果は絶大だ。この失敗を「小さな出来事」と言える所以は、まさに「海」にあると言えるだろう。
「海のあるごとし」をどう解釈するかという点で、上述では「広大で穏やかな海」とした。一方で、「荒々しく岩を打ち付ける海」と解釈した場合、「台詞つかへて」のイメージは変わる。決まりきらない詠み方が、読み手に対して解釈の余地を与えている一句である。
邂逅の窓汚れゐるごとく夏雲 生駒大祐
この句において、窓は「邂逅の窓」として描かれる。「邂逅」とは、「偶然の出会い」を意味する。ふと窓を見ると、人びとはたくさんの(広義での)邂逅を成している。窓越しに外を見る作者はこのさまざまな邂逅を第三者的に見ているのだろう。
「出会い」は相互認識において生じる。AとBが「出会う」ためには、互いにAとBの存在を意識している必要がある。一方的な認識は「(誰々を)見た」に過ぎない。第三者的に見る作者は邂逅は成し得ていないのである。そこに描かれる視線は孤独に満ちている。
しかし、ふと気が付けば夏雲が窓越しにこちらを「見ている」ではないか。その視線を感じ取った途端に作者は邂逅を体験する。「汚れゐるごとく」という若干の皮肉と照れともとれる表現が、この句の味わいを深くしてくれるのだ。
第429号2015年7月12日
■仮屋賢一 誰彼が 10句 ≫読む
■安里琉太 なきごゑ 10句 ≫読む
第430号2015年7月19日
■馬場古戸暢 一日 10句 ≫読む
■竹岡一郎 炎帝よなべて地獄は事も無し 30句 ≫読む
第431号2015年7月26日
■青本柚紀 円 10句 ≫読む
■生駒大祐 夏の訃 10句 ≫読む
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2015-05-03
【石田波郷新人賞落選展を読む】 思慮深い 十二作品のための アクチュアルな十二章 〈第十章〉 田島健一
【石田波郷新人賞落選展を読む】
思慮深い
十二作品のための
アクチュアルな十二章
〈10〉選ぶ眼と、整合性のとれた世界に流れ込む騒がしい者ども
田島健一
10.異世界(中西亮太)
私たちが生きる世界は偶然に溢れていて絶えず騒然としているのだけれど、俳句の有季定型という窓から覗くと不思議と世界はそのサイズに収まってしまう。けれどもそれは世界が自然とそこに「収まって」いるのではなく、むしろ私たちの「選ぶ眼」が、騒然とした世界から俳句として書くべき「美しい」ものだけを選択し書きとめている。そうして騒がしい諸々の声は封じ込められ、世界は整合性のとれたものとして私たちの想像的な領域でバランスを保っている。
あまり知られていないことは、そこで選ばれなかった諸々の声の幾許かは、書かれた句に痕跡を残し、そこに書かれた俳句を歪ませるということだ。
異世界の入口なりし山椒魚 中西亮太
ここで言う「異世界」とは、どの位置にあって、私たちが生きる「自明の世界」とどのように関わっているのだろうか。逆に問えば、この「山椒魚」を包み込んでいる異世界ではない世界は何によって守られているのだろうか。
この「山椒魚」はあたかも「異世界」からの使者のような佇まいで、私たちには見ることができない「異世界」の存在をそこに立ち上げている。そのような気配は、「山椒魚」の佇まいが、私たちが生きる、「いまここ」にある世界から少しズレたものとして感じられる。
そのズレを「感じる」視線はあくまでも健康的な視線で、それはどこまでも「異世界ではない世界」にとどまっている。
通常、いまここにある世界と「異世界」とはパラレルな関係で、どこまでも触れ合うことはない。ところが、この「感じる」が「信じる」へと変化し、あくまでも世界の「ズレ」だったものがことごとく視線を支配するようになってしまうことがある。そして一度「信じる」ことに取り憑かれると、私たちは「異世界」の気配を感じとる「健康的な視線」を失う。そのとき異世界はもはや異世界ではない。
初恋の傷もいつしか蜥蜴かな
密め抜く初恋氷室の桜かな
「初恋」は正にそのような「信じる」視線のひとつかも知れない。「初恋」の対象がもつ些細な特徴や仕草は、恋を患った者の視線を支配し、もはやその視線の外側に立つことはできない。逆に言えば掲句のように「初恋」と名指しする作者の視線は、そのような「初恋」を「信じる」視線の外側にいる。それは「いまここ」にいる別の主体として、あるいはノスタルジーとして「初恋」をその外側から呼び出す。
実際に「信じる」視線にとって、そこはもはや「異世界」ではなく、逆に言えば、私たちが「いまここ」として暮している自明な世界も、すでに「信じる」視線をもった私たちが、信じた結果として広がっているに過ぎないのかも知れない。
暗闇に沈丁の香の溶けにけり
コスモスのたなびきたるや合唱祭
俳句をつくるときに厄介なのは、「信じる」ことの外部にいる視線にとっては、「信じる」視線に見えているものが「異物」としてうつることだ。俳句を書きながら、そうした「異物」は差し引かれ、そこには感触の良い、明朗なことばだけが書き残される。
俳句を書くとき、私たちは見えるものしか主題化することができないし、さらには名前があるものしか見ることができない。ましてや「いまここ」にパラレルに寄り添っている「異世界」に触れることは全く許されていない。
この「できなさ」に眼を見開くとき、初めて俳句に「何を書きとめるか」という議論に進むことができるのではないだろうか。
私たちが「ことば」で何かを名指すたびに、「信じる」者にしか見えない「まぼろし」たちの声を失わせ、その声たちを俳句の「美」に殉じさせる。私たちの「選ぶ眼」は、そうして世界をシミュラークルに描き尽くし、「信じる」ことを私たち自身から奪い去る。
逆に言えば、実はそこに書かれた俳句は、正にその主体が「何を信じているのか」を指し示していて、いかに「選ぶ眼」が全てを制御しようとしても、そこから零れたまぼろしの声たちによって、彼が何を「信じている」のかを露呈してしまうのだ。
俳句はそうやって主体の「信じる」領域に関わってくるのだけれど、その「まぼろしの声」は私たちにとってどのような意味を開示するのだろう。ここで実現されなかったものたちは、どこでそれを成し遂げるのだろう。
〈第十一章〉へつづく
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Labels: 2014石田波郷賞落選展, 思慮深い十二作品のためのアクチュアルな十二章, 石田波郷賞落選展, 中西亮太, 田島健一, 落選展, 落選展を読む
2014-12-07
2014石田波郷賞落選展 10 中西亮太 異世界 テキスト
中西亮太 異世界
トランクに山ほどつめり残り雪
暗闇に沈丁の香の溶けにけり
これだからと言へば桜の花も散る
若夏や後部座席を独占す
梅雨から逃げむばかりに搭乗す
かうもりの折りたたみたる世の終
シェーバーの音暴れたり行々子
初恋の傷もいつしか蜥蜴かな
異世界の入口なりし山椒魚
熱帯魚地球の果てを巡るかな
向日葵や右向け右と並びたる
密め抜く初恋氷室の桜かな
教科書に日の落ちたりし原爆忌
織姫になりきらむとて橋越える
コスモスのたなびきたるや合唱祭
ロザリオの月と交わせり缶珈琲
もみじ葉や一息吸ってダイビング
地球儀の表面までも冬最中
凍土や影掛かりたる仁王像
八畳の部屋に四つ角福は内
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Posted by wh at 0:37 0 comments
Labels: 2014石田波郷賞落選展, 石田波郷賞落選展, 中西亮太


