2015-07-19

美しくも不気味な世界 曾根毅『花修』を読む 瀬越悠矢

美しくも不気味な世界
曾根毅『花修』を読む

瀬越悠矢



誰もいない。なだらかな上り坂はやがて、掲示物のない掲示板のもとで三方に分かれる。一つはあかるい草地を左手へ、一つは真っすぐ、木々に呑まれるように建つ一戸の方へ、そして最後の一つは右手へ、石垣とガードレールに守られた道に沿うように、緑をわけて伸びる。前景には草木花。葉の鋸歯や赤紫の花色から察するに、アザミだろうか。翅を休めるモンシロチョウがその花序に貫かれている。通りを隔てた斜向いには、セイタカアワダチソウが五六の茎を揺らす。紫、橙、赤褐色の高木、低木が視界に点在する。

曾根毅『花修』のカバー絵が喚起するイメージ、雑多な色彩を湛えた人間不在の風景がもたらす、名状し難い不気味な印象は、収められた約300句の読後感にどこか似てはいないだろうか。『花修』の約三分の一が〈植物〉の句によって占められており、また残りの約三分の二が〈時候〉〈天文〉〈動物〉〈生活〉に加えて〈無季〉の句によって(多少の差こそあれ)ほぼ同数ずつ分有されていることは、この読後感の少なくとも一因と言えるだろう。

句集は時系列に構成される「花」「光」「蓮Ⅰ」「蓮Ⅱ」「蓮Ⅲ」の五章から成る。なかでも異彩を放っているのは、平成二十三年〜二十四年に相当する「蓮Ⅰ」であろう。というのも、誰の目にも明らかなように、平成二十三年三月十一日に発生した東日本大震災が色濃く反映されているためである。

桐一葉ここにもマイクロシーベルト(蓮Ⅰ)
生きてあり津波のあとの斑雪(蓮Ⅰ)
山鳩として濡れている放射能(蓮Ⅰ)

「マイクロシーベルト」「津波」「放射能」、他にも「プルトニウム」「原子炉」など、三月十一日まではさほど頻繁に耳にすることがなかった言葉がいまや詩語として位置を占めている。露骨な表現を用いずに震災を描くことも不可能ではなかったに違いない。しかし、搦め手からの措辞は詩人の都合である。敢えてあからさまな語彙が用いられることで、切迫する現実が前面に立つ。

直線的な時間からいくらか間合いをとり、流動的な現実を言葉に定着させる(だが完全に定着させはしない)試みが詩であるとすれば、東日本大震災を即座に想起させる「マイクロシーベルト」などの単語は、われわれの現実にあまりにも密接に結ばれるために、詩的世界を脱臼させてしまう。強烈なアクチュアリティに不意をつかれ、読者はそれが詩であることを忘れてしまいかねない。

だが考えてみれば、人間あるいは生物一般に対する脅威は、津波や原発によってのみもたらされるものではないはずである。つかのま詩を忘れかけた読者は、存在を脅かす別の力を再認することで、むしろその別の力に対して鈍感になっていた事実に、愕然とするだろう。

鶴二百三百五百戦争へ(花)
暴力の直後の柿を喰いけり(花)
佛より殺意の消えし木の芽風(光)
爆心地アイスクリーム点点と(光)
我が死後も掛かりしままの冬帽子(蓮Ⅰ)

人為による「戦争」「暴力」「爆撃」や人知を超えた「佛」の「殺意」、あるいは生物に不可避的に訪れる「死」といった字句が、仮に「マイクロシーベルト」や「津波」ほどには今日の読者を驚かさないとすれば、上のような句は翻って、われわれに対する警鐘ないしは告発となり得る。これらの句の背後に、俳人が師事した鈴木六林男の「水あれば飲み敵あれば射ち戦死せり」「射たれたりおれに見られておれの骨」等を読むこともあながち不当ではないだろう。

こうした一種の危機意識から省みるに、『花修』には脅かされる存在そのものを捉えた句が少なくない。そして存在は、特定の瞬間において把握されるというよりは、むしろその持続性において捉えられているように思われる。〈植物〉の句の優位、抽象名詞の存在、状態動詞の使用などに由来するこうした印象は、永遠にも似た、弛緩した現在を現前させるとともに、それゆえ存在を威圧するものの恐怖をいっそう際立たたせるものとなる。

存在の時を余さず鶴帰る(花)
空蟬や開かれしまま忘れられ(光)
ねむる子ら眠りつづけて竜の玉(蓮Ⅰ)
曼珠沙華思惟の離れてゆくところ(蓮Ⅱ)
冬薔薇傷を重ねていたるかな(蓮Ⅲ)

「時を余さず」「眠りつづけ(る)」といった継続性を示す措辞や、「まま」という接続助詞、「存在」「思惟」という抽象名詞、「重ねてい(る)」という状態動詞などによって前景化されるのは瞬間というよりはむしろ持続であり、事物の存在のありようそのものである。もっとも急いで付け加えねばならないが、瞬間を切り取るという俳句の特質が放棄されるわけでは当然ない。瞬間の句が多数あることを認めた上で、そうでないものがなお印象深いことを言うのである。

存在に対する脅威と、存在の持続性とが句集において相補的な関係にあることは想像に難くない。実際、われわれが直面する困難な現実と存在論的な問題意識とは『花修』の両輪ではないだろうか。意志を示すことなく存在するばかりの〈植物〉は一方で人間の営為に対して無言の批判を加えるかのようであり、他方であらゆる摂理あるいは現実を甘受するかのようである。

平成二十五年、二十六年にそれぞれ相当する「蓮Ⅱ」「蓮Ⅲ」は、この両輪を保ちつつも前三章とはやや異なった様相を見せる。それまではどちらかと言えば影を潜めていた滑稽が、たとえば次のような句において、顕在化するのである。

水風呂に父漂える麦の秋(蓮Ⅱ)
秋風や一筆書きの牛の顔(蓮Ⅱ)
春昼や甲冑の肘見当たらず(蓮Ⅲ)
陰と陽いずれを選ぶ茄子の紺(蓮Ⅲ)
秋霖や神を肴に酒を酌み(蓮Ⅲ)

いずれも季語が浩々と景を支えている。それに対して季語以外の措辞は日常性や合理的精神から逸脱しており、それゆえ素直な笑いを誘う巧みなものである。この余裕あるいは洒脱さは「花」「光」「蓮Ⅰ」には読みとることが難しい。あたかも存在論的問いに疲れて、あるいはいつか恬淡として「父」を眺め、「牛」を描き、「肘」を探し、「陰と陽」を比べ、「酒」を飲むかのようである。

もちろん「蓮Ⅰ」が忘れられたわけではないが、「蓮Ⅱ」「蓮Ⅲ」に至ってはいくばくかの距離をもってフクシマに思いを巡らせることが可能になったのではないか。仮にそうであるならば、平成二十三年〜二十四年にはあまりに近かったものに関して、つまりそこでは脱臼していた詩的世界に関して、別様の詩の可能性が示唆されているのではないか。

日本を考えている凧(蓮Ⅲ)
闇に鳩鳴けば静かに火を焚かん(蓮Ⅲ)

第4回芝不器男俳句新人賞選考委員の一人、城戸朱理は俳人の句を「ぬるいヒューマニズムとは無縁であり、むしろ、人間が世界の諸相に接ぎ木され、解体されていくようなところがある」と評する。『花修』という道行きを通して、俳人はフクシマ以前・以後の世界との距離を探っているように思われる。時に「佛」に、時に「死」に、あるいは「マイクロシーベルト」にさえ問いかける。問いかけは決して個人的なものではなく、「マイクロシーベルト」の世界を共有するわれわれ読者のものでもあるだろう。『花修』を閉じる。美しくも不気味な世界が再び広がる。そこには誰もいない。

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