2015-07-05

【句集を読む】 影の正しさと欺瞞 飯田蛇笏『山廬集』の一句 福田若之

【句集を読む】
影の正しさと欺瞞
飯田蛇笏『山廬集』の一句 


福田若之 

芋の露連山影を正しうす        飯田蛇笏 

われわれは複数の問いを立てるだろう。そして、われわれはそれぞれの問いに対して、答えの正しさを追い求めるだろう。われわれは、この句の影の正しさを追い求めるだろう。われわれはまた、われわれ自身の影の正しさを追い求めるだろう。

われわれは何より、「句作上の虚偽と真実と」と題された文章において「幾多の俳人の誰もが、俳句を作らんとするに当って虚偽の作を成さんと努力するものは一人もない。各自皆必死の力を籠めて真実の流露に俟とうとするのは真面目な俳人である限り当然の事である[i]」と書いた蛇笏に敬意を表して、これらの正しさを追い求めるのである。

このような姿勢で句を読もうとするわれわれに対して、「芋の露」と「連山影を正しうす」の間の切れが最初の問いを突きつける。それは、切れを挟んだ両者の関係についての問いである。われわれは、この句が、次のふたつの命題のどちらを言い表わしているのか、ひとまず確定しなければならないだろうと考える。

すなわち、

  1. 芋の葉についた露の玉に映った連山が影を正しくする。 
  2. 芋の葉についた露の玉、そのむこうで連山が影を正しくする。

のいずれかを、ひとまず確定しなければならないだろうと考える。



われわれはひとまず後者の読みを選ぶだろう。その理由はふたつある。



第一に、切れが「芋の露」と「連山影を正しうす」が光景として重なり合っていることをわれわれに許さないということがある。たしかに、これは積極的な理由ではあるが、しかしながら、おそらく決定的な理由とはなりえない。われわれは、切れの前後に書かれたものが光景として重なり合っている例を、歴史の中からいくらでも取り出すことができる。たとえば、われわれは、芭蕉の〈初しぐれ猿も小蓑をほしげ也〉の「初しぐれ」と「猿も小蓑をほしげ也」の間の切れによって、「初しぐれ」のなかに「猿も小蓑をほしげ也」という光景があるということを否定することはないだろう。だから、決定的なのは次の理由であるはずだ。



第二の理由、それは、芋の葉についた露の玉に遠くの連山の影が映っているという把握が、われわれにとって現実味を持たないということである。芋の葉のありうる形状、その上に結びうる露の玉の形状、そして水の屈折率や自然光のありうる加減などの諸要素の総体をもとにして考えるとき、芋の露に連山の影が映りこみ、それが人間の眼によって知覚されるということが物理的にありえないと推測されるからである。



いま示されたこの選択とその理由こそがわれわれの表明であり、この句に映るわれわれ自身の影である。われわれは、のちに、このわれわれ自身の影を正さなければならないだろう。



蛇笏自身がこの句について書いた文章は、たしかにわれわれのこの選択に合致している。ここで、その全文を確認しておくことにしよう。蛇笏はこの句を、大正三年の作である〈竈火赫つとただ秋風の妻を見る〉に続けて取り上げ、こう書いている。
同年作。
今日に至るまでの歳月の中で最も健康がすぐれなかった時である。隣村のY―病院へ毎日薬壜を提げて通っていた。南アルプス連峰が、爽涼たる大気のなかに、きびしく礼容をととのえていた。身辺の植物(植物にかぎらず)は、決して芋のみではなかったのである。[ii]
蛇笏の書くところによれば、連山が「礼容をととのえ」ていたのは、「大気のなかに」であって、芋の露の表面においてではないのである。


とはいえ、これはわれわれの選択にとってはあくまでも傍証、あとづけの理由にすぎない。作者の見たもの、より正しい言い方をするならば、作者が別の場で見たと証言している光景を、句が正しく伝えているという保証はどこにもなく、また、作者のそうした証言についてさえ、その正しさの保証はどこにもないからである。



それゆえ、われわれは、われわれ自身の考えにもとづいて、われわれの選択をした。そして、この選択において、われわれは、この句が写実的であるということ、ひとつの現実の光景を映し出しているということを前提としていた。



だが、ここに次のようないくつかの問いが立つのである。



われわれは「連山影を正しうす」という一節を読むとき、そこに連山の影を、すなわち連山の姿を見ているといえるのだろうか。われわれがここで連山の影を見るためには、ここで正しい連山の影を思い出すためには、われわれは正しい連山の影をすでに知っていなければならないのではないか。そして、その正しい連山の影を知る前に、誤った連山の影を知っていなければならないのではないか。そして、それが影である以上、われわれはそれらを知っているためには、それらを見ていなければならないのではないか。つまり、われわれはそれらを見知っていなければならないのではないか。



だが、われわれは、正しい連山の影を、その理念を知らない。それは、われわれが見たことのあるはずもないものだ。すくなくとも、そんな記憶はわれわれにはないところのものだ。完璧な連山の影。



ただひとつの〈山〉であれば、完璧なそれを理念として想定することができるかもしれない。理念としての完璧な〈山〉というものを、われわれはやはり見たことがないと感じるにしても、概念としてそういうものを想定することは理解できる。われわれは、それを単一のものとみなすことを理解できる。



しかし、連山の影の理念となると、そうはいかない。ここでも理由はふたつある。



第一に、連山はそれ自体に山の複数性を織り込んでいる。理念というものがその本性として唯一性を含みこんでいるのだとすれば、連山の影の理念は根本的なところで自己矛盾にさらされることになるだろう。



第二に、影は理念そのものではありえない。影はわれわれの目の前に、像として立ち上がる。だが、影は理念ではなく、そうした理念の写しにほかならない。理念は見ることができない。だが、影の理念は、影の理念であるゆえに、理念の理想的な写しでなければならない。こうして、影の理念という考えは、やはり根本的なところで自己矛盾にさらされている。



連山の影の理想なるものを想定できないということは、写実ということを揺るがす。写実は正しさを追い求める。それは正しさを前提としている。だが、写実によるかぎり、何かを不正確にしか示すことができない。それは決して理念の正しさには到達しない。



だから、われわれは「連山影を正しうす」という言葉にいかなる連山の影も映し出されてはいないということにもっと注意を払わなければならない。この読みにおいては、まさしく写実の放棄によって、この句の正しさが自ずから示されようとしているのである。



われわれは、連山の影の正しさを理解するために連山の影の理念を仮定しようとして、それができないことを知った。ここにまたひとつの問いが立つ。では、連山の影の正しさは、何によって保証されるのだろうか。



われわれにはひとつの答えしかない。おそらく、連山の影の正しさは、その連山それ自体によって証し立てられているのである。すなわち、任意の連山の影は、その連山の影として、その正しさを当の連山それ自体によって保証されているのだ。



そして、それゆえに、われわれはこの句にその描写を認めることができない。連山の影の正しさは、連山それ自体によってしか証し立てられることはないので、句がその正しさを写実しようとすれば、それはまったく不正確なものになるほかはないだろう。写実には欺瞞がともなう。それは、影を写し取ることによって生じる影の欺瞞である。

蛇笏はものを見て句を作ることに関して初学者にこう説いていた――「ものの皮相な見かたではいくら沢山の数を得たところで、結局みな中途半端なものが多くなりがちなものである。深く物象に観入することを心がけ、而もその思いを出来るだけ内に潜めて詠みいづることが出来れば、それこそ上乗の作品たるを得るのである[iii]」。

また、蛇笏は芭蕉の〈古池や蛙とび込む水の音〉や〈枯枝に鴉のとまりけり秋の暮〉の句を挙げながら、「すなわち自然なり人生なり、その一角一端を厳しく把握して対象を明確に表現することにより、背景が広く大きく且つ云い知れぬ芸術的香味が放射されることになるのである[iv]」とし、それが「正しい認識[v]」だと書いている。「香味」――それは比喩に過ぎないとしても、もはや視覚ではなく嗅覚や味覚に属している。


このように、視覚はつねにその正しさを疑われる。このことが重要である。だからこそ、句の言葉は、連山の影の正しさを視覚的に再現しないことによって、自らの正しさを証し立てているのである。この句は正しい。実際に連山の影の正しさは連山それ自体によってしか証し立てられることはないだろう。句は句自体によってその正しさを証し立てられている。言葉はただ言葉としての正しさを確保している。そして、その正しさもまた、語の連なりによっている。連山の影の正しさと語の連なりの正しさは別個の正しさであり、両者の正しさの類似は再現的なものではない。



言葉の言葉としての正しさ、連山の影の正しさはともに、異なるものの同一性ではなく同一なものの同一性として、すなわち自己同一性としてある一方で、異なるものの複数性としてある。山と語の複数性に加えて、ひとつの影とひとつの句とがあるというこの双数的な対立が、正しさをそのようなものとして示しているのだ。



この複数の正しさに対して、われわれは、われわれという人称の複数性によって答えようとしている。それゆえ、このわれわれはそれぞれに自らの正しさを証し立てるところのわれわれでなければならないだろう。われわれはわれわれの影を正しくしなければならない。



われわれはこうして、第一の読み、「芋の葉についた露の玉に映った連山が影を正しくする」という読みの可能性へと立ち戻ることになる。われわれに第二の読みを選ばせた写実が、第二の読みを推し進めることによって、この句の性質ではないことが明らかになってしまったからだ。



ここで、第一の読みが、先ほど放棄されたはずの写実的なありようをただちに句の内側で復活させるということに注意しなければならない。露の玉に映し出される連山は慣用的な意味でも光学的な意味でも虚像にほかならないといえるが、この虚像は連山それ自体の像の写しにほかならない。露の玉の連山の影は、連山の写像なのである。



だから、この読みにおいて影の正しさとは、露の玉の連山の影を連山と比べることによって確認される写しの正しさ、つまりは写実の正しさにほかならない。そして、この句においては、この写実の正しさが、根本的には写実的でないような映像として、つまり、露の玉のなかにそれらの連山の影が確認されるという虚構のなかでのみ成立しているのである。



芋の露、それはひとつの眼である。あるいは、少なくとも眼の隠喩である(われわれは、『山廬集』においてこの句に続く一句が〈つぶらなる汝が眼吻はなん露の秋〉であることを重く受け取る)。その眼は連山の影を見ている。連山が影を正しくするのを見ている。その光景を眼の表面に、かつ、眼の中に見ている。



芋の露はまた、写実する言葉それ自体の隠喩でもある。芋の露、それは俳句である。それは、虚子が〈秋風や眼中のもの皆俳句〉と書いたのと同じ季節に、言の葉の上に結ばれる露のひとしずくである。



芋の露、それは眼であり、俳句である。このとき、俳句はひとつの眼となる。ふたつの眼ではなく、ただひとつの眼。これは、カメラの眼である。



写真や映画の映像は、映像それ自体を正しくする。たとえば、それ自体が「映画のようだ」と語られたツインタワーの倒壊は、いずれ、カメラの眼が作り出した映像としてしか記憶されなくなるのだろう。たとえば、生きた記憶の風化にしたがって、原子爆弾の光と音――ピカドン――の想起はトーキー映画の模造物になってしまうだろう。あるいは、たとえば、スターリン政権がかつての写真からトロツキーを抹消したとき、そのことが意味を持ったのは、写真の映像がどんな現実よりも正しいという前提があったからにほかならないだろう。



写真や映画はこんな風に映像を正当化する。それと同じように、単眼の俳句は書かれた光景を現実よりも正しいものとして示そうとする。



だが、この第一の読みにおいても、蛇笏の一句は影の欺瞞を告発してやまない。この句の上で、あるいは、この句の中で、影の正しさのありようが正確に写実されている限りにおいて、そうなのである。すなわち、「正しうす」という認識の矯正が、この句においてその現場を押さえられている限りで、そうなのである。影は、もとから正しいものとしてあったのではなく、あるときに正しいものとされたから、正しいのだ。



写実の正しさ、言い換えれば、写し取ることがすなわち正しさを保証してくれるということは、歴史的に、あるいは物語的に作られた正しさである。影の欺瞞はそのことを隠蔽することにある。それをこの句は告発しているのだ。このとき、芋の露は自ずからその欺瞞を露わにするのである。



そもそも、われわれが芋の露に連山の影が映っているという写実からはほど遠い読みを許されたのは、そうではない読みを突き詰めることによってであった。そのなかではじめて、連山の影は連山の写実として正しいものになった。写実は、写実のないところではじめて正しさを与えられた。それは正しくされたのである。われわれが写実を認めるに至ったのは、写実を疑ったからだった。



このようにして、芋の露に連山の影が映っているという読みに至ったときにこの句が語っているのは、写実という行為が歴史の連なりにおいて正当化される過程それ自体なのである。



ここで、また問いが立つ。その問いは、われわれが始めに立てた問いに連なっている。連山のように。山のように。山ほど連なっている。ここに立つ問いはこうだ。われわれはいまでも、読みをひとつに確定しなければならないだろうか。われわれはいまでも、ただひとつの正しい読みを求めているのだろうか。



われわれは、いまではそれを求めてはいないし、そうすることはできないだろう。そうすることは正しくないだろう。いまや、確定しなければならないのではなく、確定してはならないだろう。



なぜなら、もしそうしてしまったら、われわれは自らその複数性を閉じることになり、カメラによって撮影され現像される影の欺瞞、真実は単一の影であるという欺瞞に甘んじることになるだろうからだ。それは欺瞞である。カメラによる影がそれ自体複製技術の産物であるということに、本質的な欺瞞が露呈しているのを見逃すことはできない。



だから、われわれは、ひとつの芋の露――それは俳句であり、眼であり、俳句の眼である――を前にしながら、ふたつの眼を、あるいは、ひとりひとりの眼を、開いていなければならない。複数の眼で見るということが、見ることを相対化し、影の正当性を絶えず揺るがしていることに自覚的でなければならない。



蛇笏もまた彼自身のふたつの眼を開いていた。彼の眼は一方では自然を見据え、他方では人事を見据えていたのである。彼はこう書いている。

自然物象の写実に偏するの結果は、得て平凡無味に陥り易く、人事写生に偏するの結果は得て複雑晦渋の幣に陥り易い。けれどもその何れも軽重を論じがたい価値の上に於いて、各々偏せず陥らざるものを基準として採るべきを採り捨つるべきを捨つるは、俳句定道の要諦であらねばならぬと信ずる。[vi]


蛇笏がふたつの眼を必要とするのは、それぞれの眼が危ういものであるからだ。彼はふたつの眼、ふたつの写生の態度のどちらも疑っている。そして、それゆえにこそ、どちらについても正しさを追い求め続けるのである。



蛇笏はまた、主観と客観のふたつの眼の双方を疑いながら、正しさを追い求め続けていた。「超主観的句境」と題された文章は「それが詩的であれと希う[vii]」という短い言葉から始まる。蛇笏が追い求める「超主観的句境」――彼はこの六文字に「イツトナクミノルクサバナ」とルビを振っている――は、「幾多の客観を通り、幾多の主観を通ってこそはじめて達すべき道である。とそういうよりも寧ろ、荒浪にもまるる大海のくるうような主観境をのり越えて遂に到達すべき境地であるという方が正しいであろう[viii]」。蛇笏はここでも、より正しい記述を望んでいる(「とそういうよりも寧ろ……という方が正しいであろう」)。正しさを希求する態度でもって、彼は主観の眼と客観の眼の双方を疑う。それらは通りぬけなければならないか、そうでなければ、のり越えられなければならない。



このようにして、蛇笏が希求する「超主観的句境」はつねに来るべきものでありつづけるだろう。それは到達不可能なものとして、つねに追い求められつづけるだろう。彼はふたつの眼のどちらもを疑い続けながら、正しさへ向けて絶えず問い質しつづけるだろう。「超主観的句境」とは、まさしく、この時間の延長線上の果てで、いつとなく実る草花なのである。



影の正しさと欺瞞を絶えず問い質すこと。写実を追い求めることの正しさも、写実を疑うことの正しさも、そのようにしてしか保たれることはないだろう。俳句は、俳句の眼を疑う山ほどの問い――それは連山のように、複数でありながらひとつの連なりでもある――を果てしなく歴史的に連ねるかぎりでしか、存続しないだろう。俳句を読むものとしてのわれわれは、この疑いの上、あるいはその中でしか、われわれという語の含意する多様性と共同性を維持することはないだろう。ただひとつの正しさとしての俳句――そんなものを前にしたとすれば、われわれは解散するしかないだろう。そのとき俳句は消え去るだろう。われわれが俳句のもとでわれわれの影を正しくしながら俳句を存続させるのは、言の葉の上に結ばれた問いのしずくの表面に、あるいは中に、われわれの複数の答えがただひとつの理念に束ねられることなく維持されるあいだだけのことだろう。



露の世は露の世ながらさりながら、さりながらそこにわれわれはいる。そこにわれわれの俳句があるのだ。われわれもまた、それが詩的であれと希う。





[i] 飯田蛇笏「句作上の虚偽と真実と」、『飯田蛇笏集成』、第三巻、角川書店、1995年、336頁。

[ii] 飯田蛇笏「自選自註五十句抄」、『飯田蛇笏集成』、第五巻、角川書店、1994年、443頁。

[iii] 飯田蛇笏「初学者のために」、『飯田蛇笏集成』、第七巻、角川書店、1995年、335頁。

[iv] 同上、334頁。

[v] 同上、334頁。

[vi] 飯田蛇笏「人事写生」、『飯田蛇笏集成』、第三巻、角川書店、1995年、345頁。

[vii] 飯田蛇笏「超主観的句境」、『飯田蛇笏集成』、第三巻、角川書店、1995年、357頁。


[viii] 同上、376頁。

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