2015-07-12

【句集を読む】言葉を失う言葉 藤井あかり『封緘』を読む 福田若之

【句集を読む】
言葉を失う言葉
藤井あかり『封緘』を読む 



福田若之 



さつきまで日あたりゐしを雪螢    藤井あかり


句集の本編に相当する部分の冒頭に置かれたこの一句からして、藤井あかり『封緘』(文學の森、2015年)が投げかけるのは言葉に対する疑いである。それはまた、言葉による疑いであり、また、言葉自体がもたらす疑いでもある。たしかに、この冒頭の一句は、直接的には、言葉について何ら語ってはいない。だが、この一句がはじめに置かれているということが、句集全体に浸透している言葉についての考えを端的に表わしている。というのも、この句集においては、言葉がはじまるとともに生まれるのは光ではなく翳りなのである。明るかったはずの空間が、言葉によって暗くなるのだ。

翳りをもたらす闇は、いつでも死のかたわらにいる。言い換えれば、この句集においては言葉こそが闇なのであるが、それは死の淵にあり、死に仕えているのである。

言の葉は水漬いてゆく葉冬の鳥

帯に印刷されたこの一句は、言葉において言葉の死を物語っている。冬、言葉は冷えた水に浮かびながら死にかけている。「水漬く」という言葉は万葉の詩歌への暗黙の参照によって「屍」を想起させる。なにより、「水漬く」という言葉が、それ自体、今日では死んだも同然の古い言葉である。

言葉は死ぬだろう。言葉は永遠ではないだろう。言葉は今にも失われるだろう。言葉はもうすぐ水の中で朽ち果てるだろう――これらの認識は、言葉への根本的な不信を抱かせる。

これが、『封緘』における冬である。この句集は春夏秋冬の並びを崩して、冬から始まる。誕生から死へ向かうのではなく、死からはじまるのだ。それも、ただの死ではなく、言葉それ自体の死の季節からはじまるのである。

実際には、この冬において言葉が完全に死に絶えてしまうということはない。われわれは、この本に言葉が書かれている限り、この句集の内側に留まりながら言葉を失うことはないだろう。だが、言葉はここでは死を約束され、ある意味では死んだも同然であり、果てしなく死にかかっていると同時に、すでに死んでいるのである。しかも、そこから言葉がはじまるのだ。

寒禽の導く声のありにけり

句集のあらゆる言葉を導くのは、言葉をもたない鳥の声である。おそらく、この鳥は水漬いてゆく言葉を見つめていたあの冬の鳥なのであろう。この鳥は言葉ならざる声によって、言葉を、言葉の死の外へ、言葉を失うことへと導いていく。

丁寧に書けば書くほど悴める

言葉が完璧な丁寧さを実現しようとするとき、手は思うように動かなくなる。言葉を綴ることを身体が拒絶するのだ。そして、この拒絶は、言葉にとっては全く外的な要因である寒さによって引き起こされている。言葉は、それほどまでに無力であり、つねに不完全のままそこに書かれる。だから、語り手は次のように書かざるをえない。

言葉より蛇の髯の実が今は要る
 

たしかに、言葉はまったく要らないというわけではない。この句もまた言葉にほかならないのであって、言葉がなければ今を指し示すことも、蛇の髯の実を要求することもできない。それでも、蛇の髯の実のほうが言葉よりも欠くべからざるものとして必要なのである。そして、この必要を前に、語り手は言葉をほとんど失っているかのようだ。

だから、この句はたとえば佐藤文香『君に目があり見開かれ』(港の人、2014年)に収められた〈紫陽花は額でそれらは言葉なり〉とは根本的に異なった思想に基づいている。これは、どちらが良いとか悪いとかいう問題ではない。両者は、とにかく全く異なる二つの思想、全く異なる二つの世界なのである。

『君に目があり見開かれ』では、言葉はそれ自体として愛されており、必要とされており、肯定されており、信じられている。言葉を失うことは、ここでは終わりを意味するだろう。だからこそ、『君に目があり見開かれ』の語り手は、言葉にできないように思われるものに対してさえも、たとえば〈鳥の巣になんぞやはらかなもじやもじや〉というかたちで言葉にせずにはいない。この語り手は、あらゆるものを照らす光への信頼を〈冬木立しんじれば日のやはらかさ〉というかたちで表明することをためらわないだろう。

それに対して、『封緘』では、言葉はそのものだけでは拒まれ、放棄され、否定され、疑われる。『封緘』において肯定されるのは、言葉の外にあるものだ。言葉は、自らの外を指し示す限りで、はじめて、愛され、必要とされ、肯定され、信じられる。われわれは、ここでは、言葉を失ったところからでなければ、はじめることさえできないだろう。

言ひさして十一月を灯せる
 

おそらく、この句におけるように、言葉はふいに失われなければならないのだろう。言葉がとつぜん宙吊りにされたときに、その言葉の外で、ひとつの灯りが光をもたらすのである。言葉は万物を照らし出す光、紫陽花の彩りが花びらではなく額であることを明らかにしてくれるような光ではない。だからこそ、それは十一月の闇のなかで差し止められ、死に絶えるしかないのであり、おそらくは、そうなることが望まれてさえいるのである。

猫柳ほどには君を慰めえず
 

そう。言葉は君を慰めるに当たって猫柳ほどの力もない。だから、言葉は猫柳を指し示すことで、はじめて存在を許されるのである。

己が手のふと恐ろしき焚火かな
 

手はもはや言葉ではなく火に加担する。手は言葉を書くのではなく、何もかもを火にくべてしまう。手は、落ち葉を集めて火にくべる。とりわけ枯れた言の葉はよく燃えるだろう。だからこそ、言葉においてそれは恐れられる。言葉が手を恐れるのだ。

ペンをおくとき本当に春終る
 

手はここでも、言葉を終らせる現実そのものとして、そこにある。言葉の終わりが春の終わりと合致するのは、言葉が春をつまびらかにするからでは決してない。それは偶然にすぎないのであって、だからこそ、驚きがあるのだ。「本当に」。それゆえ言葉はこの句において肯定されている。偶然にも、現実を指し示したからである。

人々は、言葉の力がこれほどまでに弱まったところでは言葉によるいかなるコミュニケーションも成りたたないと考えるかもしれない。実際に、この句集においては、言葉こそがコミュニケーションを不可能にし、不明にし、それを暗がりへ追いやってしまう。

落葉道二度聞きとれずもう聞かず
 

この句の語り手は、それを聞きとれなかったことが分かっている。ということは、声は聞きとれているのだ。聞きとれなかったというのは、それを言葉として聞きとれなかったのだ。そして、言葉のこの二度の死産によって、コミュニケーションは破綻する。語り手は、もはや聞きとろうとしないだけではなく、何も聞かない。コミュニケーションは永遠に失われる。

だから、言葉はもはや、ひとりごととしてしか成り立たないだろう。

菜の花や人ゐなければひとりごと
 

人のいないところで、誰とわかりあうこともなく。この語り手にとって、言葉はそんなふうにしてしか、ない。

では、このとき、コミュニケーションはどうなるのか。

『封緘』においては、言葉を失うことではじめてコミュニケーションが可能になるのである。

二本の裸木のありわかりあふ
 

裸木がわかりあうのは、言葉によってではない。裸木にはもう言葉はない。言葉はみんな散ってしまったのだ。今や何もかもが光にさらされることになった。そのときはじめて、裸のコミュニケーションが可能になったのである。

青梅や傘畳むとは人悼む

 

人の死という現実に際して、語り手はどんな弔辞も述べることはない。人の死を前にして、この語り手は言葉を失うからである。それゆえ、この語り手は、人を、ただ傘を畳むという仕草でもって悼むほかないのである。

葛咲くと告げわたりたる峡の風
 

葛の開花という現実は、言葉によってではなく、風というもう一つの現実によって告げられる。

コミュニケーションは、言葉があるところでさえも同じようにあるだろう。

緑蔭の人の唇読みてをり
 

声を聞くことのない語り手は、言葉ではなく唇という身体の直接の読みとりによってコミュニケーションを回復するのである。茂った葉が、言葉が、語り手の視界を暗くさえぎろうとするのだが、そのなかでなお、身体によるコミュニケーションが模索されている。言葉があるところで、語り手はその言葉に耳を傾けることなく、唇を読む。

秋冷の唇の堰く言葉かも
 

唇の力は言葉を発することにあるのではなく、言葉を堰きとめることにあるのだ。そこにコミュニケーションがある。人は言葉を失う。

書かれた言葉についても同様のことが確かめられる。

印刷屋すずしき音を立ててゐて
 

印刷物になにが書かれていても、語り手にとっては何の意味もないだろう。その作業が、現実において、すずしい音を立てていることのほうが重要なのである。語り手が読みとりまた聞きとるのは、話された言葉ではなく話す唇であり、書かれた言葉ではなく文字を刷る機械の音なのである。

手書きの文字についても同様である。

もの書けば余白の生まれ秋隣
 

あたかも余白こそが書くことによって生み出される唯一のものであるかのように、この句は書かれている。語り手にとって、書くことは言葉を生み出すのではなく、余白を生み出すのである。言葉の外がひらかれることで、はじめて、言葉は許されるのだ。そのとき、コミュニケーションは、言葉が失われた場所できっと展開するだろう。

だが、このようにかろうじて認められる言葉もまた、歴然と言葉である。だから、言葉で語るかぎり、語り手はつねに語りそこなう。言葉ではないものを語りそこなうのだ。

鵙のごと鳴けざることの悔しかり
 

語り手は、本当は言葉ではないコミュニケーションを求めている。言葉を越え、言葉の死を越え、言葉のかばねを越えて、声をあげたがっている。それは、言葉の死産を越えた何らかの産声なのだ。だが、語り手には、厳密にいって、言葉しかない。だからこそ、鵙のように鳴くことはできないということを語り手は言葉において悔しがるほかないのである。

なるほど、ときにはあらゆるものに翳りをもたらす言葉がやさしく思えることもあるだろう。

言伝といふやさしさに木の実降る
 

こんなふうに、言葉がもたらす翳りが人を守ってくれることもあるのだ。だが、このやさしさは、もしかすると本当の優しさではなく、ただの易しさかもしれない。この語り手にとっては、言葉でなにかを伝えることがやさしさだと主張することは、それ自体、イージーな考えなのかもしれない。木の実が降るとき、現実が、言葉の外で、言葉のやさしさを問いただしているように思われてならない。

肯へり枯蔦を引く力もて
いいえとふ金水引の散りながら

 

肯定することは言葉によってはなされえず、ただ否定だけが、「いいえ」という言葉になる。というよりむしろ、『封緘』において、言葉は本質的に「はい」ではなく「いいえ」なのである。ここでも、『封緘』は『君に目があり見開かれ』と実に好対照をなしている。『君に目があり見開かれ』では、語り手の愛の対象とされる言葉が同時に愛そのものでもあるとみなされる(〈手紙即愛の時代の燕かな〉)。『封緘』の言葉は、それとは逆に、言葉それ自身に突きつけられた無数の「いいえ」である。このことによって、『封緘』は言葉それ自体を薄暗闇の中に封じるだろう。

落し文開きしことを責めらるる
 

その封を気安く開いてはいけない、言葉があふれだしてしまうから。言葉は、封じられた闇のなかに閉じ込めておくべきものだ。たしかに、落し文の包んだ葉それ自体には、どんな文字もなく、ただ卵があるだけかもしれない。しかし、落し文のこの文なき文を開封することは、第三者による果てしない責めの言葉を引き出してしまうのである。

追書に大切なこと虫時雨
 

追書、すなわち手紙の追伸は、それ自体のありようにおいて、言葉の余白を指し示すだろう。本文の余白で、それは大切なことを語る。だが、この追伸もやはり言葉である。それは、偽の余白であって、コミュニケーションに翳りをもたらす。

追伸に大切なことが書かれているということは、第一に、手紙の本文を不可解なものにするだろう。大切なことは追伸のほうに書かれているならば、本文はいったい何を伝えようとして書かれたというのか。第二に、それは追伸に書かれたことが実際には大切なことではないのかもしれないという疑念を引き起こすだろう。それは読んだ人間が勝手に大切なことだと思い込んでいるだけのものかもしれないではないか。第三に、それはもっと大切なことがいまだ書かれずにあるかもしれないという疑念を引き起こすだろう。追伸に大切なことを書くような手紙の書き手を、読み手は信頼できないだろう。もしかすると、本当の余白に、なにか大切なことがあるかもしれないのだ。こんな風にして、コミュニケーションはやはり成り立たなくなって、最後には余白へと押しやられてしまう。

書出しのインクを垂らしたき泉
 

一見すると、この句は言葉を書くことの肯定に見えるかもしれない。しかし、よく考えてみれば、この句もまた、書くことを否定しようとする言葉なのである。この句の語り手は、ペンのインクで言葉を書き出すかわりに、それを泉に垂らしてかぎりなく薄く溶かしさってしまいたいと述べているのだ。語り手は、インクを言葉ではなく、現実に還元することを望んでいるのである。

さて、僕に語ることができるのはどうやらここまでのようだ。僕はいま、この句集について語る言葉を失いつつある。正直なところ、言葉に対する根本的な懐疑を主題としながらなおも言葉を書き続けるということが、作者をこれからいったいどのようなところまで推し進めていくのか、僕にはまるで見当がつかないからだ。とはいえ、いずれ、何かしら僕のものではない言葉が、おそらく作者自身のさらなる句集が、つねに余白を残しながらも、この余白をいくらか埋めることになるだろう。そして、僕はこうした予想を書くことで、結局のところ、言葉の余白よりも言葉それ自体をずっと強く信じているということを告白してしまっていることになるのだろう。僕はいま、句集の語り手と違って言葉それ自体を信じてしまっているがゆえに、ひとまず、ここで言葉を失うほかないのだろう。

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