2015-10-11

【週俳9月の俳句を読む】よすてびとのうたⅥ 瀬戸正洋

【週俳9月の俳句を読む】
よすてびとのうたⅥ

瀬戸正洋




仕事の関係で金曜日は終電となった。その頃、つまり、土曜日の未明に長女は路上で倒れ病院へと搬送された。土曜日の朝、出社してまもなく老妻からのメールで私はそのことを知った。老妻の携帯電話は台所のテーブルの上に置かれ、そのことを受信していた。家の電話も鳴ったのだが気付かなかった。職場の上司が明け方まで付き添ってくれたことをあとで聞き、私たちは平身低頭であった。老妻はあわてて車でO駅まで出て新幹線で新Y駅に向った。病院は新Y駅から歩いて五分程度の距離であった。一週間後、長女は退院することができた。

ぽつかりと待合室に金魚玉   矢野玲奈

金魚玉は待合室にさり気なく置かれ、ひとびとの心を和ませる。小さな診療所、あるいは医院なのかも知れない。金魚玉の中には平凡な金魚が泳いでいるのだろう。「ぽっかりと」からは、待合室の空間だけではなく、作者の漠然とした病気に対する不安も感じることができる。

空蟬をのこし空へと蟬の往く   矢野玲奈

蝉の殻など蝉にとってはどうでもいいものなのである。空蝉などと感傷にひたっているのは人間だけなのだ。地中で何年も過ごし羽化すれば鳴けるだけ鳴き数日で往ってしまう。その亡がらは地上に落ち蟻に引かれあとかたもなくなる。「空へと蝉の往く」とした、作者のやさしさもわからない訳ではない。

頭痛薬一錠二錠秋となる   矢野玲奈

一錠飲んで痛みが消えればと思うが、なかなかそうはいかない。それで、もう一錠飲んでみる。今年の夏は体調が優れない。そんなことを繰り返しているうちに、いつのまにか秋になってしまった。

秋桜に触れたる雨と触れぬ雨   矢野玲奈

雨にも運不運がある。秋桜に触れることなく地面に到着する雨には運がある。触れてしまった雨は不運なのである。余計なものに振り回されず目的地に着くことは並大抵のことではない。ほとんどの雨が秋桜に触れてしまったのだ。

しわしわと空のめくれて秋の雲   矢野玲奈

空が捲れて皺だらけになっている。その皺のできたところごとに小さな雲のかたまりがたくさん集まっている。巻積雲である。しわしわと空がめくれなければ一面の青空となる。

保育園には鈴虫に会ひに行く   矢野玲奈

保育園は子どもを預けに行く場所ではないのである。子どもを迎えに行く場所でもないのである。鈴虫に会いに行く場所なのである。本来の目的以外にも目的を持つこと。このようなことは人生では大切なことなのだ。

秋蝶は鰐の泪を吸ふといふ   矢野玲奈

鰐の目のあたりを秋蝶が舞っているということなのだろう。花の蜜を吸うのでなく鰐の泪を吸ったのだという。鰐の泪は花の蜜のように甘いのである。秋蝶は、そのことを知っているのだ。誰でも泪を流したいときはある。たとえ、汚れた泪であっても秋蝶に吸ってもらいたいと思うときはある。

南瓜煮る猫のかたちのマカロニも   矢野玲奈

いろいろなマカロニがあるのだろう。猫のかたちをしたマカロニもあるのだろう。マカロニで猫をつくったのかも知れない。そのマカロニを茹でるのではなく南瓜といっしょに煮ているのである。子どもたちの食べるすがたを思い浮かべながら。

秋の暮空に鋏を入れしごと   矢野玲奈

空を鋏で切ると秋の暮になる。しわしわと空が捲れると秋の雲になる。空は、鋏で切ることも許してくれる、捲ることも許してくれる。私たちは空を大切にしなければならないのである。

まろやかに連なつてゐる秋灯   矢野玲奈

灯りがまるく見えるのは当然のことのような気もする。秋灯とは、灯りのもと友人と人生を語り合うことよりも書に親しむといったイメージがある。夜の図書館、四十年前ならば喫茶店。連なってゐるという表現から個の家というよりも公共性のある人の集まる場所のような気がする。

木槿咲く少女はサドル高くして   小林すみれ

YouTubeで見るような、ふた昔も、あるいは、それ以前の映画のワンシーンのような気がする。たとえば「青い山脈」とか、「二十四の瞳」のような。清楚な女子高生が木槿の咲く丘の道を自転車で通り過ぎるのである。

まつすぐに来し朝顔の咲く町へ   小林すみれ

これも自転車で通学する風景。土手の道を何台もの自転車が颯爽とペダルをこぐ。その中には、女子高生だけではなく男子校生もいなければならない。授業のはじまる前の教室は騒がしい。その窓辺には朝顔の花が咲いている。

目礼を交はしてゆける水の秋   小林すみれ

秋になると水も清らかになる。水も清らかになればひとの心も清らかになる。作者は何もかも解り合えているひとと目礼を交わしたのである。恋人なのかも知れない。そのことを、まわりのひとは気付いてはいけない。

秋蟬や鞄一日ふくらんで   小林すみれ

鞄には必要最小限のものだけを入れようと心掛けている。だが、その日はどうしても持っていかなければならない物がある。紙袋を用意して入れるほどの物でもない。鞄のかたちよりも実用性を重視する。秋の一日、蝉が鳴いている。

たをやかに銀水引の灯しかな   小林すみれ

通夜の受付の一場面ということなのだろうか。ひとりのご婦人が受付の前に立つ。そして、たおやかに銀水引を置くのである。しとやかでなまめかしさも感じられる。もし、そのひとを中心に照らさなかったら、灯りは灯りとして失格の烙印を押されるだろう。

横顔に母の面影銀河濃し   小林すみれ

姉なのか妹なのか娘なのか、その横顔に母の面影を見たのである。こんなところに母は居てくれたのだと感謝した。こんな夜の銀河は、なおさらのように天空にはっきりと見えている。そこは、母が住んでいる場所なのである。

珈琲の香りたちたる月の窓   小林すみれ

月はかぐや姫のお帰りになった場所でなくては困るのである。うさぎが餅を搗いている場所でなくては困るのである。薄暗い部屋に珈琲の香りが漂っている。ピアノソナタ第14番嬰ハ短調が流れている。窓からは月のひかりとベートーベンの悲しみと。

赤鬼に射的のあたる月夜かな   小林すみれ

鄙びた温泉の町なのかも知れない。射的屋はメイン通りにあるのだ。浴衣に宿の下駄を突っ掛けて、もちろんふたり連れである。夫婦であろうはずがない。「やってみたら」と女は言う。「それならば」と男は狙いを定める。「何も赤鬼を狙うことはないのに」と女は呟く。誰にも会うはずのない温泉の町。月のひかりをたっぷり浴びるくらいなら神様も許してくれるだろう。

届きたる回覧板と柚子ひとつ   小林すみれ

どうでもいいようなことばかり回って来るのが回覧板である。たまに、町内の清掃日、廃品回収日等のお知らせなどもある。訃報とかお祭りの日程などは大事な部類にはいるのだろう。隣家の庭には柚子の木があり、その柚子の実をひとつ捥いで来てくれた。届いた回覧板、まさしく、どうでもいいような内容のものだったのである。

一房の葡萄に夜の近づきぬ   小林すみれ

一房の葡萄は台所のテーブルの上にあるものだと思う。葡萄の存在が際立っているのだ。そこで、葡萄に夜が近付いてきたと感じたのである。誰も居ない、灯りも点いていない台所にある一房の葡萄。

子供らの真ん中にゐるいぼむしり   きくちきみえ

誰もがゐるいぼむしりを眺めている。最近の子供たちは昆虫に触れることを嫌うのだろう。その上、鎌のように見える両手(両手というのかどうかは知らない)が異様に感じているのかも知れない。真ん中とあるので子供たちとゐるいぼむしりとの距離が同等なのである。蟷螂とは言わずに、「ゐるいぼむしり」としたことにも面白さを感じる。「俗信」とは経験のことなのである。疣を齧らせたら本当に治った。薬局も、医者も不要なのである。

蟋蟀は昼の関節まげてをり   きくちきみえ

蟋蟀の後ろ足、それを後ろ足というのか、関節というのかも私は知らない。だが、「まげてをり」という表現にはなるほどと思う。確かに昼なのである。闇の中では蟋蟀の姿など見えるはずがない。鳴き声ではなく容姿に着目しているところに興味を覚えた。

二百十日そろそろ出来るパスポート   きくちきみえ

二百十日というと台風を連想する。台風とパスポート。飛び立った飛行機は台風に連れられて出国するのである。台風は日本列島にも私たちの心にも何らかの爪あとを残して去っていく。そんなとき、私たちは日常の生活からすこし離れていたいと願う。九月もはじめのころにパスポートは出来上がる。少し遅れた夏休みを取るために空港へと車を走らすのである。

話しつつインコのピーコ巨峰食ふ   きくちきみえ

インコは人語を操る。巨峰も食べる。そのどちらからも忙しなさを感じてしまうのである。その忙しなさ、それがピーコなのである。鳥籠の中で静にしているインコはピーコではないのである。

猿を見て人を見て秋風の中   きくちきみえ

猿山の猿を見るために人間たちが押し掛ける。猿を見に来たのではあるが猿を見る人間の行動の方が俄然面白く、思わず人間の方に視線が行ってしまう。もちろん、猿も人間を見るために山を下りて来るのである。猿も人間を見ている。見に来たのに見られていること。何も知らないのは人間だけなのである。

電池切れのごとカナカナの鳴き止んで   きくちきみえ

カナカナは自分の意志で鳴くのではない。私たちの知らないところで電池が仕込まれていて、それで鳴くのである。それは、地上に出てきたときなのかも知れない。電池の容量は決められている。鳴き止んだときカナカナの一生は終わるのである。私たちも電池が仕込まれているのである。その電池が切れたとき、ひとは死ぬのである。

蜻蛉が青信号を渡りゆく   きくちきみえ

蜻蛉には蜻蛉の生活があり蜻蛉の生き方もある。蜻蛉は赤信号を渡っていったのではない。青信号を渡っていったのである。私たちは青信号を渡っていっても、赤信号を渡っていってもかまわないのである。私たちには私たちの生活があり、私たちの人生がある。

カップの底に砂糖は残り稲びかり   きくちきみえ

砂糖を入れ過ぎてしまったのだろうか。かき回し方がいい加減だったのだろうか。飲んでいるときは気付かなかったが、飲み終えてみてはじめて気付いたのである。遠くに稲びかりが見える。もし、気付かなかったら、気付いたことよりも幸せなことであることを知らなければならない。

おざなりとねんごろのゐる案山子かな   きくちきみえ

適当にいい加減に済ましてしまう性格の案山子もいれば、心を込めて親身に付き合う性格の案山子もいる。何故ならば、人間が拵えたからなのである。拵えた人間の性格が、そのまま案山子にも乗り移る。あたりまえのことなのである。

秋空のあをの向うはダークマター   きくちきみえ

暗黒物質とは仮説上の物質である。仮説を立ててそれを証明していくのが科学なのだそうだ。秋のあおぞらを眺めていて、それで、十分、幸福だと思う。馬鹿な私には、その程度で何の問題もない。知りたいと願い追求していく行為、それは、本当に正しいことなのだろうか。

ふうはりとルドンのまなこ大鮪   松本恭子

「眼=気球」という代表作品を眺めていると「ふうはり」という言葉が浮かぶ。荒れた大地のうえには気球が描かれている。ルドンの「自画像」のまなこからは「ふうはり」という言葉を見つけ出すことはできない。鮪とは大型の回遊魚で常に泳いでいないと死んでしまう。作者にとって、ルドンのまなこから大鮪まではごく自然な距離だったのだろう。

かげろふの蜜吐くごとく翅透きぬ   松本恭子

口の構造は退化的で通常摂食機能はないとあった。かげろふの翅が透き通っているのは蜜を吐くからなのだと作者は言う。作者は何故そう表現したかったのか、それを考えることではなく、ただ、かげろふが蜜を吐いているすがた、翅の透き通っているすがたを想像していればいいのだ。

死に近き鏡のなかのリボン結ぶ   松本恭子

死に近きとあるが、誰もが、自分の死が遠いのか近いのかは解らない。そう書いている私は、私の死は突然やってきて欲しいと願っている。だが、作者は死が近いと言っている。リボンを結んでいることは現実の出来事であり鏡の中だけのことではない。鏡とは自分を第三者として視ることのできる道具でもある。誰もが死を体験したことはない。日々の暮らしの中の、そこここで「これが死なのかも知れない」などと、何となく解ったような気がしているだけなのである。作者は、鏡のなかのリボンを結ぶことでそれを感じたのである。

金魚泳ぐしづけさ父の愛に似て    松本恭子

落ち着いた雰囲気がなければならないと思ったのである。金魚を眺めている作者は、父の愛とはそういうものだと思ったのである。せっかちで気の短い私はすぐに感情的になってしまう。そして、余計なことまで言ってしまうのである。そのたびに老妻から「それは言わないほうがいいわよ」と嗜められているのである。

佳宵の鯉緋色もかくしてしまひけり   松本恭子

佳宵のときは鯉でさえも自慢の色である緋色を隠してしまうものなのだ。月のよい夜は特別なのである。鯉でさえもこころが浮き足立ってくる。鯉は自分が月よりも貧しいことを知っているのだ。ここで、月と張り合ったりしたら自己嫌悪に陥ってしまうことを知っているのだ。

少年の薔薇の首の棘に触る   松本恭子

薔薇の首とは花の下のところにある茎のことなのである。つまり、一番美しい薔薇の花を顔であるとした。少年は一番美しい薔薇の花の下にある茎の棘にふれたのである。少年は誰かに恋をしている。

鳳仙花さびしさ爆ぜし赤の他人   松本恭子

鳳仙花の種が爆ぜて四方へ飛び散る。それを、さびしさが爆ぜたのだとした。鳳仙花とは作者自身なのである。まわりに居る誰も彼もが他人であると強調しながら爆ぜなければならない作者のこころを、秋の日差しはやさしくつつむ。

老人に玉藻のやうなこころあり   松本恭子

そのようなこころは誰にでもあるものだと思う。平凡な暮らしの中でこそ、そのようなこころは育まれていくのだと思う。誰とも、そのこころを持って接することができれば幸福な人生を送ることができるのだと思う。

白露(しらつゆ)に恋をゆづりしことなども   松本恭子

二十四節気の第十五、その日から秋分の日までをいう。恋人を譲ったのではなく恋を譲ったのである。恋するこころを譲ったのである。そんなこともあったのだななどと思い出しているのである。恋を譲ったことなどを思い出すのは、白露という季節だからなのである。また、儚さも感じられたりもする。

いちにちを照りて翳りてすべりひゆ   松本恭子

植物もひとも同じなのである。たまたま、その場所に芽を出した。たまたま、その国、その時代に生まれたのである。故に、ただ生きるしか方法はないのである。自分の力ではどうすることもできない何かに対しては、避けたり、かわしたり、たまには、立ち向かったりして、いちにちを過ごすのである。照る日もあれば翳る日もあるのだ。すべりひゆは薬草なのだという。お浸しにして辛子醤油で食べると美味しいのだそうだ。

長女は、Y駅近くの仏蘭西料理店でソムリエをしていた。立ち仕事なのでなかなか体調が戻らず手術をすることに決まった。六ヶ月間は、会社に籍を置いてもらえることとなり、九月いっぱいで仕事を離れた。お世話になったご常連さんたちからは、寿退社だと勘違いされ、ずいぶんとお祝いを頂いたのだそうだ。訳を話したら「お祝いから、お見舞いに変わったのよ。お菓子もいっぱい届いて、どうしょう」というメールが老妻に届いた。心配かけまいとして明るく振舞っているのかも知れない。手術日は来週の十四日である。その日、老妻は仕事を休み、私は仕事帰りに病室を覗いて帰ろうなどと思っている。


第437号2015年9月6日
矢野玲奈 マカロニも 10句 ≫読む
第438号2015年9月13日
小林すみれ 月の窓 10句 ≫読む
第439号2015年9月20日
きくちきみえ 稲びかり 10句 ≫読む
第440号2015年9月27日
松本恭子 白 露 10句 ≫読む

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