2016-02-14

【八田木枯の一句】白梅でなければならぬ素老人 西村麒麟

【八田木枯の一句】
白梅でなければならぬ素老人

西村麒麟


白梅でなければならぬ素老人  八田木枯

第6句集『鏡騒』(2010年)より。

我儘で我慢が出来ない、それが大抵の老人であり、老いというものだろう。

ワシだけは違う、と主張するのも哀しい我儘で、美しい老いなんていうのは不誠実な表現ではないだろうか。

今までに、何人かの素晴らしい老人を知っているけれど、それは稀な老人であり、僕も、妻も、この文章を読んで下さっているあなたも、その多くは我儘な、どうにもならない老人になる運命にある。それが普通というもので、哀しくさみしいのも人の味というものと思って諦めるしかない。芸術の世界の老人や、テレビに出てくるような好ましい老人は、尊敬されていて若々しく、魅力があるけれど、あの方々は一般的な老人ではない。ぜひ、病院か、銭湯か、寄席にでも行って欲しい。いつか行く道、老人に出会えることだろう。

想像するしかないが、老いとは、何かが見えて来て、同時に何かを感じなくなってくるものではないだろうか。

やっと俳句の話になるが、この句は紅梅ではならぬ、紅梅では嫌だと思う何かが老人には見えているのだろう。そしてその周辺の人にはその理由がさっぱりわからない、老いとは孤独でもある。紅梅の赤があまりに梅過ぎて嫌だと感じるのだろうか、白梅の白に何かを思っているのか、まぁ、何かがあるのだ。素老人とは、なんだか素うどんのような明るさとさみしさがある。

「鶴」と同じく「老人」もまた木枯俳句の中では重要な題材で、どの老人の句も、作者のような、別人のような、遊びを感じる。鶴と老人が全句集の中をひたひたと遊び歩いているかのようだ。

句とは関係ないが、僕はよく老いに憧れていると言われることがあるが、それは違う。八田木枯に憧れているだけなのだ。


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