2016-02-14

「石田郷子ライン」について若之さんと話した。 上田信治

「石田郷子ライン」について若之さんと話した。

上田信治



福田若之さんが「俳壇と「悪魔界のうわさ」、加えて「石田郷子ライン」という語について」という記事を書かれた(週刊俳句461号 2016.1.31)。

おおお、と思ったんですが、すぐにレスポンス記事を書けず、2月10日になって、やっとツイッターに連投というかたちで、自分なりの考えを書きました。

こちらまとめです。


http://togetter.com/li/937099


と翌日、福田さんから、きのうのツイートについてメールで質問を送ってもいいかという連絡がありました。

もちろん、と返信したら、すぐに5項目にわたる長文の質問状メールが来て、自分なりに返信のしました。

とても面白かったので、ここに福田さんの許可をもらって掲載します。



福田若之 >>> 上田信治
2016年2月11日 11:59
ツイートの件

信治さん

どうもこんにちは。
件の記事に関する信治さんの一連のツイート、拝読しました。

僕のほうでやっぱり腑に落ちないところもけっこうあって、メールでいくつか質問したいことがあるのですが、お時間ありますでしょうか?

若之



上田信治 >>> 福田若之
2016年2月11日 14:48
Re: ツイートの件

返信遅くてすいません、時間あると思います。
ぜひ、メールください



福田若之 >>> 上田信治
2016年2月11日 15:22
Re: ツイートの件

どうもありがとうございます。

では、いくつか質問させていただきますが、その前に、まず、3番のツイートについて、一言だけ。僕は「もう使うな」と命令したわけではなく「もう、やめにしないか」と投げかけただけです。ですから、それでも使うというなら、その選択をどうこう言うつもりはありません。僕がしたのは命令ではなくて、あくまでも提案です。

その上で、以下、質問です。

Q.1 
信治さんが「イヤがらせ」「祈り」「呪」と呼ぶ行為の良し悪しについては、そこにつっこむと話が進まなくなるので、ここでは問題にしないでおきます。

さて、その上で、まず確認しておきたいのは、13番のツイートに関することです。

このツイートは、「石田郷子ライン」という語を再定義することによって、あくまでもこの語を生かそうとするものだと読めます。先に書いたとおり、この言葉をあくまでも使うというなら、それは自由ですが、僕には信治さんがそうする意図が分からないので、どうお考えなのか知りたいのです。

まず僕が懸念するのは、いくら再定義したところで、この語が「李承晩ライン」という政治の言葉に由来している限り、なんらかの政治性を持ち続けてしまうのではないか、それは現象を客観的に捉えるための語彙としては機能しえないのではないか、ということです(こういうかたちで繰り返し「李承晩ライン」を持ち出すと誤解されかねない気がするのではっきりさせておきたいのですが、通常の意味での「政治」における嫌韓に与する意図は全くありません。念のため)。

信治さんの一連のツイートはこの語源の問題には触れていませんが、それについてはどうお考えですか。

Q.2 
12番のツイートで、信治さんは、この語において個々の作家を名指したことの非をみとめていらっしゃいます。では、「石田郷子ライン」という語を用いる限り、他ならぬ石田郷子その人が名指され続けてしまうことについてはどうお考えですか。

Q.3 
13番のツイートについて、もし、それが「石田郷子ライン」を「「石田郷子ライン」的現象」として定義するものだとしたら、明らかにトートロジーではありませんか。

それとも、「多くの俳人がうっすらとその存在を感じている規範によって、俳人どうしが似て見えてしまう」という「現象」、あるいは11番のツイートにいう「現状」を、これまでの「石田郷子ライン」という語の使われ方を踏まえつつ、この語で名指すことにしたい、ということを言っているのでしょうか。

また、その場合、この語が指し示すのは、そうした「現象」一般ですか、それとも、この「現状」ですか。

Q.4 
それは、いずれにせよ、たとえば、ヴィトゲンシュタインの語彙を半ば隠喩的に用いて、家族的類似の再生産、とでも呼称しておけば、当座の用語としては事足りるうえに、問題がより明確になりませんか。僕は、とりわけ9番10番11番のツイートを見てそう感じました。

Q.5 
それは、いずれにせよ、あらゆる文芸ジャンルにおいて必然的に生じる事態ではありませんか。およそ文芸のジャンルというのは、一方ではそうやって自らを保ちつつ、他方ではそこから逃れようとする内的な力によって絶えず変容をつづけながら、もちろん、いずれは過去のものになる、そういうものではありませんか。

信治さんは、おそらく変容しようとする力に対する過剰な抑圧があると考え、そのことに問題意識を持っているのでしょう。しかし、現状において、ジャンルを変質させようとする力は本当に押さえ込まれているのでしょうか。僕にはむしろ、それが年々強まっているように感じられるのですが。

以上、ご返答いただければ幸いです。




上田信治 >>> 福田若之
2016年2月11日 17:44
Re: ツイートの件

メールありがとう。
できるかぎり答えていこうと思います。

> 僕は「もう使うな」と命令したわけではなく、

福田さんが「使うな」と言うことも書くこともありえないけど、ぼくは、実際の人間関係における効き方に擬して、言い換えることが可能だと思った。福田さんがその語をもういい加減使わないほうがいい、と思ってることは明確だと思ったので。

ま、ちょっと(大意)というところに、悪ふざけ入ってますよね。すいません。

> Q.1 信治さんが「イヤがらせ」「祈り」「呪」と呼ぶ行為の良し悪しについては、そこにつっこむと話が進まなくなるので、ここでは問題にしないでおきます。

はい。でも、福田さんは、そこは、はじめから「やんなきゃいいのに」っていう考えですよね、きっとw

ぼくは、これを広めると悪い効き方をするということは、目にした瞬間に分かったけど、それでも書いて広めるほうを選びました。面白くなりそうという誘惑に負けた一面もあるけど、迷惑を考えて抑制した方がよかったとは、今でも全く思っていないです。

> さて、その上で、まず確認しておきたいのは、13番のツイートに関することです。このツイートは、「石田郷子ライン」という語を再定義することによって、あくまでもこの語を生かそうとするものだと読めます。 
先に書いたとおり、この言葉をあくまでも使うというなら、それは自由ですが、僕には信治さんがそうする意図が分からないので、どうお考えなのか知りたいのです。

これは、この手紙全体で答えることになる質問かも知れないですね。

そう。たしかに、福田さんの問題提起に答えながら、あの言葉をあっためなおそうという意図が発生してしまいました。

ただ、再定義の部分は、あれはギャグに近いです。

> まず僕が懸念するのは、いくら再定義したところで、この語が「李承晩ライン」という政治の言葉に由来している限り、なんらかの政治性を持ち続けてしまうのではないか、それは現象を客観的に捉えるための語彙としては機能しえないのではないか、ということです。 
信治さんの一連のツイートはこの語源の問題には触れていませんが、それについてはどうお考えですか。

たしかに。

あの「ライン」という言い方は、自分から名乗る集団名ではないですよね。語源からして、それは「対峙する他者からの名付け」です。そこには政治性がたしかにある。領土争いという喩えは的確だと思います。そこに中原さんの無意識が出ているんでしょうね。

そして、あれは確かに「敵の名前」です。印象派とか野獣派のように、呼ばれた当人たちが、自分たちのグループ名としてそれを引き受けていくということがない。

ただ、あの言葉は、そう呼ばれた人に、なぜそう呼ばれなければならないかという省察を強いるでしょう?そう呼ばれた人は、同時代のジャンル全体の中でそう呼ばれることと、表現史がたどりついた現在の典型としてそう呼ばれること、両方について考えざるを得なくなる、と思ったんですよ。

あそこで名前をあげた作家の皆さんて、総じてまじめで慎ましくて、評論家的じゃなくて、自分が最もいいと思うものをこつこつ書くことに集中していて、俳句を自分の手でどうしてやろうとか考えてないし、そんなこと考えるべきじゃないと思ってそうでしょう?

そういう純粋な人たちに(どこまで届くかわからないけど)「なんでワタシが石田郷子ライン?」とか「たしかに石田さんのことは好きだけど、人に口出しされなきゃいけないこと?」とか「等身大のなにがいけないの?」とか、思ってもらえたら、面白いなあと思って。

考えてみると、それは「ku+」1号と2号の「いい俳句」と「俳壇地図」でやったのと、まったく同じ意図でしたね。あなたがたの仕事を、より広い地図の中で位置づけたい、という。

> 12番のツイートで、信治さんは、この語において個々の作家を名指したことの非をみとめていらっしゃいます。では、「石田郷子ライン」という語を用いる限り、他ならぬ石田郷子その人が名指され続けてしまうことについてはどうお考えですか。

非は認めた。けど、取り消せないし、取り消すつもりもなくて。悪いことしましたよね、と認めたから、あやまってる。

石田さんにはいちばん迷惑をかけているけど、あの人が、俳句の現在を代表する作家だ、という名指しでもあるから、そういう迷惑はかけてもいいような気もしている。

ただ『草の王』はいい句集だけど、新しい人として登場した石田さんはもうそこにはいない。専門俳人としてもっと先へ進まれてしまった部分に読むべき句があるという印象。だから、やっぱり迷惑はかけてるな。

> 13番のツイートについて、もし、それが「石田郷子ライン」を「「石田郷子ライン」的現象」として定義するものだとしたら、明らかにトートロジーではありませんか。 
それとも、「多くの俳人がうっすらとその存在を感じている規範によって、俳人どうしが似て見えてしまう」という「現象」、あるいは11番のツイートにいう「現状」を、これまでの「石田郷子ライン」という語の使われ方を踏まえつつ、この語で名指すことにしたい、ということを言っているのでしょうか。 
また、その場合、この語が指し示すのは、そうした「現象」一般ですか、それとも、この「現状」ですか。

13番のツイートで言ってるのは、個々の名前をあげて「この人たちがそうです」というと迷惑がかかるから「あのあたりがうっすらと見える、その見え方がそれです」というくらいの感じ。

そして、可視化したいのは、ツイートで言うと、11、俳句の現在に、カルチャーや総合誌より「上」がなくなっているのではないか、ということが背景にあって。作家と呼ばれる人たちまで(まじめさゆえに)そのカルチャーや総合誌のレベルにお付き合いしてしまっているという「現状」。結果、その作家たちが、お互い同士がうっすら似ているように見えるという「現象」。

俳人は、カルチャーや総合誌で言うことと本当の本音に裏表があるくらいで、ちょうどいいんじゃないかなあ?

> それは、いずれにせよ、たとえば、ヴィトゲンシュタインの語彙を半ば隠喩的に用いて、家族的類似の再生産、とでも呼称しておけば、当座の用語としては事足りるうえに、問題がより明確になりませんか。僕は、とりわけ9番10番11番のツイートまでのツイートを見てそう感じました。

たしかに、より明確になる。でも、キャッチーじゃないなw ぼくは、非常にジャーナリスティックに発想してふるまってるよね、いつも。

> それは、いずれにせよ、あらゆる文芸ジャンルにおいて必然的に生じる事態ではありませんか。

というより、座敷芸化、稽古事化という、俳句というジャンル独特の事情ではないかな。

> およそ文芸のジャンルというのは、一方ではそうやって自らを保ちつつ、他方ではそこから逃れようとする内的な力によって絶えず変容をつづけながら、もちろん、いずれは過去のものになる、そういうものではありませんか。

そのとおりだよね。

> 信治さんは、おそらく変容しようとする力に対する過剰な抑圧があると考え、そのことに問題意識を持っているのでしょう。しかし、現状において、ジャンルを変質させようとする力は本当に押さえ込まれているのでしょうか。僕にはむしろ、それが年々強まっているように感じられるのですが。

「ジャンルを変質させようとする力」以前に、この「ジャンル」という視点、というか見え方がすごく弱まってるでしょう。それこそ健吉とか、重信とか龍太とか、そういう人が俳句全体を見ていて、その視座が共有されていた、という状況がなくなっているわけだよね。自分のグループしか見えないタコツボ化ということは、ずっと言われてる。

そして、ぼくは、たしかに、ここしばらく「変容しようとする力に対する過剰な抑圧」を告発する仕事の方が多かった。文法のシリーズとかね。

アンソロジーとかを作ってるときは、状況全体にポジティブに応対して、応援するし、挑発的な記事を作ってるときは、状況のネガティブな部分にフォーカスして、問題提起する。やろうとしてることによって、立場が変わるのだけど。現状認識は、全体としてはたしかにネガっぽくなってきてたかもしれない。

いけませんね、ちょっと俳句にそまってきたかw

福田さんの言う「ジャンルを変質させようとする力」が、どのあたりで、強まりを見せているのか。とても興味があります。

あと、これ次号に載せてもいいですか?



福田若之 >>> 上田信治
2016年2月11日 18:53
Re: ツイートの件

信治さん

お返事ありがとうございます。

> これ、次号に載せてもいいですか?

OKです。なんか、やっと、俳句にとって有意義なところまで議論を持ってこれた気がします。気がするという程度ですが。

まあ、個人的には、やはり、この言葉を使って議論することには賛同しかねます。信治さんの仕方で「俳句の現在」を石田郷子さんに「代表」させることは、僕にはどうしても政治的なかつぎあげ(しかも落とすための)にしか思えませんし、この言葉のキャッチーさは、せいぜいが「俳壇」の、内輪のものでしかないでしょう。 批評用語としてこれが妙に定着するという状況が「俳壇」的な磁場の外からどう見えるか考えると、僕は、これってかなり恥ずかしいことなんじゃないかと感じてしまいます(あくまでも、個人的には、ですが)。それでも、信治さんが何を思ってこうしているのかは分かりました。

> 福田さんの言う「ジャンルを変質させようとする力」が、どのあたりで、強まりを見せているのか。

どのあたり、というような、かたよったまとまりとしてではなく、とはいえ、この何年か、そういう資質を持った句集がたくさん出てきていることは確かだと思います。

いずれにせよ、この問いには、これまでもある程度は批評が答えてきたでしょうし、これからも答え続けていくはずです。僕としても、そういうかたちで批評が答えを出していくことに貢献できたらと思います。

福田若之



上田信治 >>> 福田若之
2016年2月11日 21:04
Re: ツイートの件


たしかに。一昨年くらいから、非常に重要な句集が出たよね。
この10年の決算の時期だったんでしょうか。

> この言葉のキャッチーさは、せいぜいが「俳壇」の、内輪のものでしかないでしょう。 批評用語としてこれが妙に定着するという状況が「俳壇」的な磁場の外からどう見えるか考えると、僕は、これってかなり恥ずかしいことなんじゃないかと感じてしまいます
あははは。蒸し返したのは福田さんじゃないですか。

それはそれとして、この用語について、まともに論じた人はいないよね。言葉の額面どおりの内実がある言葉だとは、はじめから誰も思わなかったのかもしれないし、品の無さが嫌われたということもあるだろう。

でも、それは、用語としては当てずっぽうだったにせよ、語りにくいやっかいな状況を言い当てようとした言葉だし、空言だったことにしてしまうのはかえって厳密さを欠くと思う(福田さんがそうでないことは分かっています)。だから、まあせっかく生まれた言葉を見捨てないであげてよ、と言いたかった。

あと、この用語が恥ずかしいのは、批評っていうものが、もともと含む、当てこすりのスピリッツを隠そうとしていないからだねw

なんにしても、話せて良かったです。

むりやり言わされるっていうのは、だいじですねw

上田信治


2 comments:

小西 さんのコメント...

サバービア俳句というのもありましたよね。
これ実質的には同じ問題のような気がします。こちらなら誰も揶揄していないのでいいんじゃないでしょうか。

小西 さんのコメント...

いわゆる「サバービアの憂鬱もの」とサバービア俳句の異なる点は、前者は一見平穏に見える郊外の影の部分を積極的に捉えるのに対して、サバービア俳句ではそういった屈折を感じさせず、あっけらかんと自己肯定自己演出に精を出しているようにみえる点でしょうか。そのうち洗練された中流家庭の女性のカテゴリに当てはまる部分が石田響子ラインとして見えてくるのではないでしょうか。