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2016-02-14

「石田郷子ライン」について若之さんと話した。 上田信治

「石田郷子ライン」について若之さんと話した。

上田信治



福田若之さんが「俳壇と「悪魔界のうわさ」、加えて「石田郷子ライン」という語について」という記事を書かれた(週刊俳句461号 2016.1.31)。

おおお、と思ったんですが、すぐにレスポンス記事を書けず、2月10日になって、やっとツイッターに連投というかたちで、自分なりの考えを書きました。

こちらまとめです。


http://togetter.com/li/937099


と翌日、福田さんから、きのうのツイートについてメールで質問を送ってもいいかという連絡がありました。

もちろん、と返信したら、すぐに5項目にわたる長文の質問状メールが来て、自分なりに返信のしました。

とても面白かったので、ここに福田さんの許可をもらって掲載します。



福田若之 >>> 上田信治
2016年2月11日 11:59
ツイートの件

信治さん

どうもこんにちは。
件の記事に関する信治さんの一連のツイート、拝読しました。

僕のほうでやっぱり腑に落ちないところもけっこうあって、メールでいくつか質問したいことがあるのですが、お時間ありますでしょうか?

若之



上田信治 >>> 福田若之
2016年2月11日 14:48
Re: ツイートの件

返信遅くてすいません、時間あると思います。
ぜひ、メールください



福田若之 >>> 上田信治
2016年2月11日 15:22
Re: ツイートの件

どうもありがとうございます。

では、いくつか質問させていただきますが、その前に、まず、3番のツイートについて、一言だけ。僕は「もう使うな」と命令したわけではなく「もう、やめにしないか」と投げかけただけです。ですから、それでも使うというなら、その選択をどうこう言うつもりはありません。僕がしたのは命令ではなくて、あくまでも提案です。

その上で、以下、質問です。

Q.1 
信治さんが「イヤがらせ」「祈り」「呪」と呼ぶ行為の良し悪しについては、そこにつっこむと話が進まなくなるので、ここでは問題にしないでおきます。

さて、その上で、まず確認しておきたいのは、13番のツイートに関することです。

このツイートは、「石田郷子ライン」という語を再定義することによって、あくまでもこの語を生かそうとするものだと読めます。先に書いたとおり、この言葉をあくまでも使うというなら、それは自由ですが、僕には信治さんがそうする意図が分からないので、どうお考えなのか知りたいのです。

まず僕が懸念するのは、いくら再定義したところで、この語が「李承晩ライン」という政治の言葉に由来している限り、なんらかの政治性を持ち続けてしまうのではないか、それは現象を客観的に捉えるための語彙としては機能しえないのではないか、ということです(こういうかたちで繰り返し「李承晩ライン」を持ち出すと誤解されかねない気がするのではっきりさせておきたいのですが、通常の意味での「政治」における嫌韓に与する意図は全くありません。念のため)。

信治さんの一連のツイートはこの語源の問題には触れていませんが、それについてはどうお考えですか。

Q.2 
12番のツイートで、信治さんは、この語において個々の作家を名指したことの非をみとめていらっしゃいます。では、「石田郷子ライン」という語を用いる限り、他ならぬ石田郷子その人が名指され続けてしまうことについてはどうお考えですか。

Q.3 
13番のツイートについて、もし、それが「石田郷子ライン」を「「石田郷子ライン」的現象」として定義するものだとしたら、明らかにトートロジーではありませんか。

それとも、「多くの俳人がうっすらとその存在を感じている規範によって、俳人どうしが似て見えてしまう」という「現象」、あるいは11番のツイートにいう「現状」を、これまでの「石田郷子ライン」という語の使われ方を踏まえつつ、この語で名指すことにしたい、ということを言っているのでしょうか。

また、その場合、この語が指し示すのは、そうした「現象」一般ですか、それとも、この「現状」ですか。

Q.4 
それは、いずれにせよ、たとえば、ヴィトゲンシュタインの語彙を半ば隠喩的に用いて、家族的類似の再生産、とでも呼称しておけば、当座の用語としては事足りるうえに、問題がより明確になりませんか。僕は、とりわけ9番10番11番のツイートを見てそう感じました。

Q.5 
それは、いずれにせよ、あらゆる文芸ジャンルにおいて必然的に生じる事態ではありませんか。およそ文芸のジャンルというのは、一方ではそうやって自らを保ちつつ、他方ではそこから逃れようとする内的な力によって絶えず変容をつづけながら、もちろん、いずれは過去のものになる、そういうものではありませんか。

信治さんは、おそらく変容しようとする力に対する過剰な抑圧があると考え、そのことに問題意識を持っているのでしょう。しかし、現状において、ジャンルを変質させようとする力は本当に押さえ込まれているのでしょうか。僕にはむしろ、それが年々強まっているように感じられるのですが。

以上、ご返答いただければ幸いです。




上田信治 >>> 福田若之
2016年2月11日 17:44
Re: ツイートの件

メールありがとう。
できるかぎり答えていこうと思います。

> 僕は「もう使うな」と命令したわけではなく、

福田さんが「使うな」と言うことも書くこともありえないけど、ぼくは、実際の人間関係における効き方に擬して、言い換えることが可能だと思った。福田さんがその語をもういい加減使わないほうがいい、と思ってることは明確だと思ったので。

ま、ちょっと(大意)というところに、悪ふざけ入ってますよね。すいません。

> Q.1 信治さんが「イヤがらせ」「祈り」「呪」と呼ぶ行為の良し悪しについては、そこにつっこむと話が進まなくなるので、ここでは問題にしないでおきます。

はい。でも、福田さんは、そこは、はじめから「やんなきゃいいのに」っていう考えですよね、きっとw

ぼくは、これを広めると悪い効き方をするということは、目にした瞬間に分かったけど、それでも書いて広めるほうを選びました。面白くなりそうという誘惑に負けた一面もあるけど、迷惑を考えて抑制した方がよかったとは、今でも全く思っていないです。

> さて、その上で、まず確認しておきたいのは、13番のツイートに関することです。このツイートは、「石田郷子ライン」という語を再定義することによって、あくまでもこの語を生かそうとするものだと読めます。 
先に書いたとおり、この言葉をあくまでも使うというなら、それは自由ですが、僕には信治さんがそうする意図が分からないので、どうお考えなのか知りたいのです。

これは、この手紙全体で答えることになる質問かも知れないですね。

そう。たしかに、福田さんの問題提起に答えながら、あの言葉をあっためなおそうという意図が発生してしまいました。

ただ、再定義の部分は、あれはギャグに近いです。

> まず僕が懸念するのは、いくら再定義したところで、この語が「李承晩ライン」という政治の言葉に由来している限り、なんらかの政治性を持ち続けてしまうのではないか、それは現象を客観的に捉えるための語彙としては機能しえないのではないか、ということです。 
信治さんの一連のツイートはこの語源の問題には触れていませんが、それについてはどうお考えですか。

たしかに。

あの「ライン」という言い方は、自分から名乗る集団名ではないですよね。語源からして、それは「対峙する他者からの名付け」です。そこには政治性がたしかにある。領土争いという喩えは的確だと思います。そこに中原さんの無意識が出ているんでしょうね。

そして、あれは確かに「敵の名前」です。印象派とか野獣派のように、呼ばれた当人たちが、自分たちのグループ名としてそれを引き受けていくということがない。

ただ、あの言葉は、そう呼ばれた人に、なぜそう呼ばれなければならないかという省察を強いるでしょう?そう呼ばれた人は、同時代のジャンル全体の中でそう呼ばれることと、表現史がたどりついた現在の典型としてそう呼ばれること、両方について考えざるを得なくなる、と思ったんですよ。

あそこで名前をあげた作家の皆さんて、総じてまじめで慎ましくて、評論家的じゃなくて、自分が最もいいと思うものをこつこつ書くことに集中していて、俳句を自分の手でどうしてやろうとか考えてないし、そんなこと考えるべきじゃないと思ってそうでしょう?

そういう純粋な人たちに(どこまで届くかわからないけど)「なんでワタシが石田郷子ライン?」とか「たしかに石田さんのことは好きだけど、人に口出しされなきゃいけないこと?」とか「等身大のなにがいけないの?」とか、思ってもらえたら、面白いなあと思って。

考えてみると、それは「ku+」1号と2号の「いい俳句」と「俳壇地図」でやったのと、まったく同じ意図でしたね。あなたがたの仕事を、より広い地図の中で位置づけたい、という。

> 12番のツイートで、信治さんは、この語において個々の作家を名指したことの非をみとめていらっしゃいます。では、「石田郷子ライン」という語を用いる限り、他ならぬ石田郷子その人が名指され続けてしまうことについてはどうお考えですか。

非は認めた。けど、取り消せないし、取り消すつもりもなくて。悪いことしましたよね、と認めたから、あやまってる。

石田さんにはいちばん迷惑をかけているけど、あの人が、俳句の現在を代表する作家だ、という名指しでもあるから、そういう迷惑はかけてもいいような気もしている。

ただ『草の王』はいい句集だけど、新しい人として登場した石田さんはもうそこにはいない。専門俳人としてもっと先へ進まれてしまった部分に読むべき句があるという印象。だから、やっぱり迷惑はかけてるな。

> 13番のツイートについて、もし、それが「石田郷子ライン」を「「石田郷子ライン」的現象」として定義するものだとしたら、明らかにトートロジーではありませんか。 
それとも、「多くの俳人がうっすらとその存在を感じている規範によって、俳人どうしが似て見えてしまう」という「現象」、あるいは11番のツイートにいう「現状」を、これまでの「石田郷子ライン」という語の使われ方を踏まえつつ、この語で名指すことにしたい、ということを言っているのでしょうか。 
また、その場合、この語が指し示すのは、そうした「現象」一般ですか、それとも、この「現状」ですか。

13番のツイートで言ってるのは、個々の名前をあげて「この人たちがそうです」というと迷惑がかかるから「あのあたりがうっすらと見える、その見え方がそれです」というくらいの感じ。

そして、可視化したいのは、ツイートで言うと、11、俳句の現在に、カルチャーや総合誌より「上」がなくなっているのではないか、ということが背景にあって。作家と呼ばれる人たちまで(まじめさゆえに)そのカルチャーや総合誌のレベルにお付き合いしてしまっているという「現状」。結果、その作家たちが、お互い同士がうっすら似ているように見えるという「現象」。

俳人は、カルチャーや総合誌で言うことと本当の本音に裏表があるくらいで、ちょうどいいんじゃないかなあ?

> それは、いずれにせよ、たとえば、ヴィトゲンシュタインの語彙を半ば隠喩的に用いて、家族的類似の再生産、とでも呼称しておけば、当座の用語としては事足りるうえに、問題がより明確になりませんか。僕は、とりわけ9番10番11番のツイートまでのツイートを見てそう感じました。

たしかに、より明確になる。でも、キャッチーじゃないなw ぼくは、非常にジャーナリスティックに発想してふるまってるよね、いつも。

> それは、いずれにせよ、あらゆる文芸ジャンルにおいて必然的に生じる事態ではありませんか。

というより、座敷芸化、稽古事化という、俳句というジャンル独特の事情ではないかな。

> およそ文芸のジャンルというのは、一方ではそうやって自らを保ちつつ、他方ではそこから逃れようとする内的な力によって絶えず変容をつづけながら、もちろん、いずれは過去のものになる、そういうものではありませんか。

そのとおりだよね。

> 信治さんは、おそらく変容しようとする力に対する過剰な抑圧があると考え、そのことに問題意識を持っているのでしょう。しかし、現状において、ジャンルを変質させようとする力は本当に押さえ込まれているのでしょうか。僕にはむしろ、それが年々強まっているように感じられるのですが。

「ジャンルを変質させようとする力」以前に、この「ジャンル」という視点、というか見え方がすごく弱まってるでしょう。それこそ健吉とか、重信とか龍太とか、そういう人が俳句全体を見ていて、その視座が共有されていた、という状況がなくなっているわけだよね。自分のグループしか見えないタコツボ化ということは、ずっと言われてる。

そして、ぼくは、たしかに、ここしばらく「変容しようとする力に対する過剰な抑圧」を告発する仕事の方が多かった。文法のシリーズとかね。

アンソロジーとかを作ってるときは、状況全体にポジティブに応対して、応援するし、挑発的な記事を作ってるときは、状況のネガティブな部分にフォーカスして、問題提起する。やろうとしてることによって、立場が変わるのだけど。現状認識は、全体としてはたしかにネガっぽくなってきてたかもしれない。

いけませんね、ちょっと俳句にそまってきたかw

福田さんの言う「ジャンルを変質させようとする力」が、どのあたりで、強まりを見せているのか。とても興味があります。

あと、これ次号に載せてもいいですか?



福田若之 >>> 上田信治
2016年2月11日 18:53
Re: ツイートの件

信治さん

お返事ありがとうございます。

> これ、次号に載せてもいいですか?

OKです。なんか、やっと、俳句にとって有意義なところまで議論を持ってこれた気がします。気がするという程度ですが。

まあ、個人的には、やはり、この言葉を使って議論することには賛同しかねます。信治さんの仕方で「俳句の現在」を石田郷子さんに「代表」させることは、僕にはどうしても政治的なかつぎあげ(しかも落とすための)にしか思えませんし、この言葉のキャッチーさは、せいぜいが「俳壇」の、内輪のものでしかないでしょう。 批評用語としてこれが妙に定着するという状況が「俳壇」的な磁場の外からどう見えるか考えると、僕は、これってかなり恥ずかしいことなんじゃないかと感じてしまいます(あくまでも、個人的には、ですが)。それでも、信治さんが何を思ってこうしているのかは分かりました。

> 福田さんの言う「ジャンルを変質させようとする力」が、どのあたりで、強まりを見せているのか。

どのあたり、というような、かたよったまとまりとしてではなく、とはいえ、この何年か、そういう資質を持った句集がたくさん出てきていることは確かだと思います。

いずれにせよ、この問いには、これまでもある程度は批評が答えてきたでしょうし、これからも答え続けていくはずです。僕としても、そういうかたちで批評が答えを出していくことに貢献できたらと思います。

福田若之



上田信治 >>> 福田若之
2016年2月11日 21:04
Re: ツイートの件


たしかに。一昨年くらいから、非常に重要な句集が出たよね。
この10年の決算の時期だったんでしょうか。

> この言葉のキャッチーさは、せいぜいが「俳壇」の、内輪のものでしかないでしょう。 批評用語としてこれが妙に定着するという状況が「俳壇」的な磁場の外からどう見えるか考えると、僕は、これってかなり恥ずかしいことなんじゃないかと感じてしまいます
あははは。蒸し返したのは福田さんじゃないですか。

それはそれとして、この用語について、まともに論じた人はいないよね。言葉の額面どおりの内実がある言葉だとは、はじめから誰も思わなかったのかもしれないし、品の無さが嫌われたということもあるだろう。

でも、それは、用語としては当てずっぽうだったにせよ、語りにくいやっかいな状況を言い当てようとした言葉だし、空言だったことにしてしまうのはかえって厳密さを欠くと思う(福田さんがそうでないことは分かっています)。だから、まあせっかく生まれた言葉を見捨てないであげてよ、と言いたかった。

あと、この用語が恥ずかしいのは、批評っていうものが、もともと含む、当てこすりのスピリッツを隠そうとしていないからだねw

なんにしても、話せて良かったです。

むりやり言わされるっていうのは、だいじですねw

上田信治


2016-01-31

俳壇と「悪魔界のうわさ」、加えて「石田郷子ライン」という語について 福田若之


俳壇と「悪魔界のうわさ」、
加えて「石田郷子ライン」という語について

福田若之

政治といえば、かつて藤田湘子が酔っ払うたびに繰り返し私に絡んできたことを思い出す。湘子は苦虫噛み潰したような顔で、いつもこう言ったのだ。

「一郎、俳壇は政治だ!」

それが湘子の戦争宣言だったのか、自嘲だったのか、憤懣だったのか、諦めだったのか、恐らくそれら全てであっただろう。私が返す言葉はいつも同じだった。

「先生。それは承服できません。」

湘子はそれを聞くと、いつも黙ってしまうのだった。

竹岡一郎、「『天使の涎』を捏ねてみた――北大路翼句集序論」

俳句をある種の政治から自由な仕方で捉えるために、「俳壇は政治だ」という捉え方自体を承服しないというのも、たしかに、ひとつの立場だと思う。けれど、おなじ目的から、これとは別の立場をとることもできる。たとえば、現に政治であるような俳壇というものがあることを認めつつ、そうした俳壇というものが俳句に干渉することを承服しないという立場をとることができるだろう。僕は、この文章を、そうした立場から書こうと思う。

そうした立場をとるかぎりにおいて、僕は「俳壇は政治だ」ということを認めることになるだろう。けれども、「俳壇は政治だ」というとき、僕には、それが統治された政治だとはとても信じられない。もし、そうであったなら、まだしも改革の可能性があっただろう。けれど、思うに、それは統治のない政治であって、無数の噂からなるテクストでしかないのだ(「我が名はレギオン、我ら多きがゆえなり」。ここでは聖書に出てくる悪霊だけではなく、『ガメラ』シリーズに登場する同名の怪獣のことを想起してもらってもかまわない)。

俳壇とは噂の束だ。それはたとえば、どこそこの結社で今度誰それが新人賞をとったらしいとか、権威ある誰それがある季語について公共の場で間違ったことを言ったらしいとか、誰それと誰それの仲がどうこうなったらしいとか、誰それの今度の句集は読んでおいたほうがいいらしいとか(けれど、何のために「読んでおいたほうがいい」というのかといえば、大体の場合、話題についていくためなのだ。そうでなければ、みんなが同じ句集を読まなければいけないどんな理由があろう)、そうしたもろもろの情報から作り出される巨大な像に過ぎない。俳壇に居場所をもつとは、こうした話題についていくか、あるいは話題そのものになることなのだろう。

だから、もし、ただ俳壇に属したいというだけなら、噂になりさえすればよい。噂そのものに変身することだ。なにしろそれは噂の束なのだから。俳壇は民俗学的な対象となりうるだろう。

流通する噂の束が統治のない政治の場をつくりだしているという点で、俳壇は、たとえば、『デュラララ!!』の池袋にも少しだけ似ているかもしれない。『デュラララ!!』の池袋では、対立している諸勢力のうち、散逸している情報をいち早く正確なかたちで手に入れられた者たちが有利な立場につくことができる。そして、噂が最もよく集まる先は、しばしば、彼ら自身が噂になっているような者たちなのである。こんなふうに、超人的な能力を持つ者たちが跋扈しているにもかかわらず、そこで展開されているのは究極的には常に情報戦なのである。そして、こうした状況において、たしかに「情報屋」がそれらの噂の束のなかで暗躍することになるのだが、その「情報屋」にさえ、すべてをコントロールできるわけではない(もしかすると、『週刊俳句』がコミュニケーションの場として抱えている危うさは、 『デュラララ!!』に登場する「ダラーズ」――統率のない、出入りの自由な、色のないカラーギャング――の危うさといくらか似たものなのかもしれない。ただし、『週刊俳句』と「ダラーズ」の重要な差異として、さしあたり匿名性の度合いが違うことを挙げておく必要はあるだろう)。

俳壇はまた、次のように理解された「ビックリマン」にも似ているのではないか――
①シールには一枚につき一人のキャラクターが描かれ、その裏面には表に描かれたキャラクターについての「悪魔界のうわさ」と題される短い情報が記入されている。
②この情報は一つでは単なるノイズでしかないが、いくつかを集め組み合わせると、漠然とした〈小さな物語〉――キャラクターAとBの抗争、CのDに対する裏切りといった類の――が見えてくる。
③予想だにしなかった〈物語〉の出現をきっかけに子供たちのコレクションは加速する。
④さらに、これらの〈小さな物語〉を積分していくと、神話的叙事詩を連想させる〈大きな物語〉が出現する。
⑤消費者である子どもたちは、この〈大きな物語〉に魅了され、チョコレートを買い続けることで、これにさらにアクセスしようとする。
(大塚英志、『定本 物語消費論』、角川書店、2001年、10頁)
そして、「彼らは「ビックリマンチョコレート」を買うと、〈ビックリマンシール〉を取り出し、〈チョコレート〉をためらいなく捨てた」(同前、8頁)。

この喩えにおいては、俳句は〈ビックリマンシール〉ではない。〈チョコレート〉だ。「悪魔界」がそれについての「うわさ」によってしか成立しないのと同じように、俳壇もまた、無数の噂によってしか像を結ぶことはない。〈小さな物語〉である噂が束になったとき、〈大きな物語〉としての俳壇が出現するのだ。そして、ここにゴシップというものの魅惑がある。そして、俳壇に俳句よりも大きな価値が与えられるとき、ある意味において、「俳句など誰も読んではいない」という状況が生まれる。


俳壇を宗教に見立てるならば、「その信者同士、教団同士のバランスを取るのが俳壇政治というもので、それは本来、文学とは何の関係も無い」(竹岡、前掲「『天使の涎』を捏ねてみた」)と言うこともできるのだろう。いずれにせよ、こうした意味での俳壇は、俳句とは何の本来的な関係も持ってはいないはずだ。

もちろん、噂のまったく許されない社会などというものは、窮屈以外の何物でもない。噂は噂として、おそらくは何らかのかたちで必要なものなのだろう。政治だってそうだ。だから、僕らにとっては問題なのは、本来は互いに関係の無いはずのものがどうしようもなくねばついているという状況があり、しかも、そうした全体的な状況に対してはどんな革命も改革もなしえないということだ。そして、そうした問題をどうにかしようとする言葉が、たちまち噂と して流通しはじめ、気が付くと俳壇の一部を構成してしまうということ、これが大きな問題なのだ(この文章にしても、せいぜいが対抗神話程度のものにすぎず、その問題を根本的に解決するものではない)。

そしていま、「石田郷子ライン」という言葉が、まさに僕らが置かれているこの状況のなかで、生き生きとした力を持ってしまっている。けれど、この言葉は、俳壇を構成する噂以外の何物でもない。このひたすらにキャッチーでしかない言葉は、それ自体としては個々の作家や個々の句の質を表現してなどいない。この言葉の成立に作家や句についての詳細な分析が伴っていたわけでもない。それは、いくらか操作された印象に基づいて、ただなんとなく噂としてすでに流通してしまっているだけのものに過ぎない。にもかかわらず、僕らは、たとえば『草の王』を読もうとするとき、あるいは『櫻翳』を 読もうとするとき、もはや読む前から、この噂を思い出さずにはいられない。このとき、僕らの思考に影響を及ぼしているもの、このインフルエンザ、これが俳壇だ。

筑紫磐井は、「石田郷子ライン」という表現が「李承晩ライン」に基づくことを確認しながら、「こうした民族主義的愛国運動と結びつけて石田郷子に「ライン」を付けるのはかわいそうであり、むしろまだしも金子兜太ラインや夏石番矢ラインの方がふさわしいような気がする」(筑紫磐井、「句集・俳誌・BLOG渉猟(7)~週刊俳句~」)と書いている。けれど、「かわいそう」という以前に、そもそも「ライン」という言葉がこうした文脈で用いられてしまうこと自体に、あるいは、こうした言葉が公然と価値あるものとしてまかりとおってしまうこの俳壇という場自体に、もっと重大な問題がある。この隠喩は、作風の問題を、俳壇における領土問題ないしは利権の問題に、すなわち、政治の問題に還元してしまうのだ。

李承晩ラインとの類比を前提とした場合に想像されるのは、「傾向を同じくする俳人たちが横並びに手をつないでラインを形成している」というようなイメージでは全くない。この隠喩が喚起するのは、「石田郷子がわがものとしている何らかの空間があり、その空間へ入り込んでしまった作家たちがことごとく〈拿捕〉されて帰ってこない」というイメージだ。

だから、この語の発案者である中原道夫が、〈黄落期郷子ラインを踏まず行く〉 と、もし冗談ではなく本気で書いているのだとすれば、それは石田郷子ラインを踏み越えると〈拿捕〉されると考えているからだとしか、僕には思えない。中原道夫にとって、石田郷子ラインとは、他の誰かが勝手に陣取って自分のものにしてしまっている排他的経済水域の境界線以外のなにものでもないのではないか。いずれにせよ、ここで、「黄落期」という季語は、「踏む」という動詞の縁語であるからだけでなく、俳句形式ないしは俳人たちの秋=没落fallを暗示しようという意図を持って配置されているように見える。

だが、こうした〈拿捕〉は、まったくのところ、この「石田郷子ライン」という語の流通がもたらしたものなのだ。いまにして思えば、「誰が石田郷子ラインに属しているのか」を問い、その名を挙げることこそが、「石田郷子ライン」というレッテルによって、作家たちをこの噂に縛り付けてしまうことにほかならなかった。そして、それを大々的に「やっちゃった」(上田信治、「【週刊俳句時評80】 "石田郷子ライン"余滴」)のは、発案者の中原道夫よりはむしろ上田信治だった。ひとびとが、〈拿捕〉された作家たちの句を読みながら石田郷子の名を噂するようになったのはこのあとだ。けれど、石田郷子自身はこの〈拿捕〉に加担してなどいないことは、いくら強調してもしすぎることはないだろう。

皮肉なことに、 石田郷子ラインは、その実体化の過程も、李承晩ラインと似ているように思われる。 まず最初に何らかのラインが考えうるものとして提示された。だが、このときはまだ、ラインは実体を伴ってなどいなかった。それをもとに〈拿捕〉が行われたことによって、ラインははじめて実体を得て、人々のありかたに影響を及ぼしたのだ。

けれど、こんな噂は、もう、やめにしないか。もちろん、もし、ある世代の作家たちに何らかの作風の傾向がみられるのなら、それについての実質的な検討は意義をもちうる。決してそのことを否定するつもりはない。「石田郷子ライン」という言葉の上になんとか実質的な検討を立てようとしたもろもろの議論のなかには、きっと、この言葉を抜きにして価値ある箇所があるだろう。もしかすると、個々の句に驚き、感じ、あるいは打ちのめされながら、自然と「石田郷子ライン」という言葉を忘れて語ってしまったような箇所に、それはあるかもしれない。それを再び見いだすためには、「俳句の現在を考えるよいヒントになると思う一方、物言いとして悪く効きそうなので、マッチポンプを、すなわち放火と消火を同時にすることを試みた次第です」(上田信治、「【週刊俳句時評79】 "石田郷子ライン"……?――(後編)いささかマッチポンプめくが、それを叱り言葉やあざけり言葉にしてしまうのは、どうかと思う」)という、上田信治の必ずしも果たされなかった試みの意図を、今一度、汲む必要があるだろう。

だから、僕はすべてをなかったことにしなければならないなどとは考えない。もし、何らかの作風が検討に値するというのなら、より正確にそうした検討を行うためにこそ、つまり、ちゃんとした検討をはじめなおすためにこそ、そろそろ「石田郷子ライン」という言葉から自由になる必要があるのではないかと、そう言っているだけだ。根も葉もない噂話に花を咲かせても、そこに実りはないだろう。「石田郷子ライン」という言葉を先に立てて、そこにもろもろの作品を縛り付けるのではなく、まず作品に根づき、根を伸ばしながら、批評の言葉を茂らせる必要がある。

人間の思考はすべて言葉によるものでしかないとまでは言わないけれど、言葉が人間の思考を方向付けてしまうというのは確かなことだ。だからこそ、もっとちゃんとした根拠のある、もっとちゃんとした言葉が必要だ。純粋に俳句について考えようとしている書き手たちが、この言葉のせいで、知らず知らずのうちに俳壇‐政治に足をとられてしまっているような事態をみるのは、僕にはもう耐えられない。

さいごにひとつだけ。子どもの頃に通っていた床屋さんは、散髪の後、いつもビックリマンチョコをくれた(ちょうどリバイバルしていたのだ)。僕は、あの乾いたウエハースとチョコレートがけっこう好きで、その味はいまでも思い出せるのだけれど、どんなシールがついていたかは、もう忘れてしまった。

2013-04-28

【週刊俳句時評80】  "石田郷子ライン"余滴 上田信治

【週刊俳句時評80】 
"石田郷子ライン"余滴


上田信治


前編
後編


本欄で、先週、先々週、"石田郷子ライン"という、中原道夫さん発案になる用語を紹介し、それについて思うところを書きました。

……どうも「やっちゃった」感がある。確実に、問題提起の意味はあったと思うのですが、まだ、このまま終わりにしてはいけない、という感じがします。

予想通り、その用語は、たいへん流通性の高い言葉で、直接、間接に、いろいろ感想を頂戴しました。

そこで、いただいた感想にお答えするかたちで、あとすこし、この話(未練がましく)引っぱりたいと思います。



ガーデニング的小宇宙系と勝手に命名していた〈石田郷子ライン

前編をupした日の、さる方(女性)のツイッターから(今回、匿名で行きます)。

「読者としては好きなタイプだと思う。反面、わたしにゃー書けないわ、とも思う」「杉山久子さんもそのラインだろうか。でも《荒凧の墜ちて地を刺すガガガガガ 杉山久子》みたいな句を読むと「ああ、あなたもガガガガガな人なんだな」となんとなく安らぐ」

と、そのつぶやきは続きます。「ガーデニング的小宇宙系」というのは、我が意を得たり。自分が「ニューエイジミュージックっぽい」と感じていたあたりのことか、と。

「前掲書(『戦後生まれの俳人たち』)の女性作家55人中22人。50代以下女性に限定すれば、33人中20人!」って言われるとその「ライン」に入ってない「50代以下の女性」13人ってどんな感じなんだろう、と思う。

同じ方の、後編が出た日のつぶやきです。

その50代以下の入ってない方のお名前をあげますと、

神野紗希、水野真由美、如月真奈、田中亜美、永末恵子、森賀まり、対中いずみ、小林貴子、櫂未知子、山田径子、夏井いつき、照井翠、山根真矢、依光陽子、佐藤文香、相子智恵

あれ? 16名になります。すいません、数え間違えてました。36人中20人です。だいぶ、数字的に迫力がなくなりました。おわびします。

もっとも、あとから、森賀さん、対中さんは、作風はライン寄りかと思い直したので、それも入れて数え直せば、50代以下、36人中22人となります。ちょうど2/3。(ただ少し考え変わった部分あります)

せめて詩歌の中くらい田園に住みたいじゃないのサ、現実と戦う泥臭い句はもうお呼びじゃないのヨ、母親なんてくくりは脱ぎ捨てさせてチョーダイナ

これも、前編のあとの、さる方(女性)のツイート。たしかに「生活感がない」うんぬんは中原さんの個人的ないものねだり、そこは問題ではないように思います。

「ライン上とされる句の共通点は何か、ライン上にない句との違いは何か、あまりきちっと語られていないように思いました。」

こちらは、メールでいただいた感想です。痛いところ・・・。

なんとなく似たかんじの作家「たち」がいる、ということが、"ライン"という言い方のキモ(作家名が連なって"ライン"ですから)。同じことを、厳密に作品に即しては言い切れないところがあるのです。

「例にあがっていた作品同士あまり似ていないんじゃないか」という意見も聞きました。

うーん、そうか。

でも、やっぱり、ふわっと印象で似てませんか。「驚かせない」(しばしば常識的・良識的)こと、「すんなりよく出来ている」こと、「フェミニン」っていうこと、とか。

「石田郷子ライン(この呼び方はさておき)私もかなり前から気になって仕方なく…ちょっとだけ(かなり?)スッキリしました。あとどうも引っ掛かるのが、ツガワエリコ現象ですかねぇ」

これもメールでいただいた感想。ツガワさんのことなんか言ってません、自分はw 

しかし、津川絵理子さんは、片山由美子さん、櫂未知子さんといった現俳壇のオピニオンリーダーから、つねに最大級の賛辞をもって評されています。いまの俳句の価値観のど真ん中にいる作家であることは間違いない。

その「価値観」が、たぶん、"ライン"と呼ばれる現象を作ってもいる。

「"石田郷子ライン"って「4T」じゃない女性作家っていうかんじ」

別の方から、酒席でうかがった感想です。なるほど、特に、橋本多佳子や三橋鷹女からの距離を、"石田郷子ライン"の作家には感じます。

「情念」系ではない、「女流」という言葉が似合わない、「男」から見た「女」ではないという感じでしょうか。

そういう意味では、後編であげた、男性で"石田郷子ライン"という方たちは「ひなまつりに呼んでもらえる系男子」という感じがしますね(まったく悪い意味ではなく)。

「三代目っていうことがあると思う」

さる作家から。

"ライン"の作家には、結社の優等生というイメージがある。だから、その人たちが互いに似ているとしたら、その上の世代の責任があるのではないか、ということでしょうか。なるほど。

ジャンルに関わるメンバーに分け持たれている価値観が、ある方向へ洗練される一方で、やせている……そういうことが言えるのかもしれない。これは、われわれ全員の課題でしょう。

同じ人から「石田郷子さんは、"石田郷子ライン"に入らないんじゃないかな」とも。

ああ。うーん。

ああいう書き方をしたら、自分が、そこに入れられたら嫌だし、いいと思う作家が入れられてたら、救いたくなりますよね。

やっちゃった感というのは、そこです。



で、自分がけっきょく思ったこと、というのを書きます。

1)その作風について。女性、等身大、明るくさっぱり、といえば、細見綾子、あるいは星野立子にさかのぼれる。

そら豆はまことに青き味したり   細見綾子
チューリップ喜びだけを待つてゐる
つばめ〳〵泥が好きなるつばめかな 
しん〳〵と寒さがたのし歩みゆく  星野立子
誰もみなコーヒーが好き花曇
たんぽぽの皆上向きて正午なり

うん、完全に"石田郷子ライン"ですねw 

たしかに、ここには「驚き」がある。明治生まれで、こう書くには、たぶん相当な天才性がいる。その初発性の記憶のようなもの、あっけらかんとした腕力のようなものが今も生きている。

今見ても新鮮なのだから、こういった作風の生産性は、もちろん、まだ十分にあると思います。作風自体はけっこうなものです。

しかし、もし。

綾子や立子と同じ腕力と気質を持った作者が、今いるとしたら、また別の、現在の俳句の風景に置いておどろくほど新鮮な書き方で、書いているに違いないと思われる。


2)「対概念としての“サトアヤ的なもの”とか」

後編を読まれた別の方のツイートです。そんなアングルにはのりませんよw (アングルはプロレス用語で、抗争等の設定のこと)

上のツイートは

「週ハイ上田さんの記事、いろいろ防御線張ってあるね(笑)。ちょっと新しいパラダイム設定を加熱したはずなのに、すでに終末感か漂っている印象をもっちゃう」上田「その"ライン"という言い方の、たちの悪い部分を警戒したい。いっぽうで、概念としては、勝手に流通して「効いて」くれるかな、と」「上田さんの意図はわかりますよ。マッチポンプといいつつ、もう一つ二つ隠し球あるんじゃないの?とか勝手に思ってます(笑)」上田「ああ、俳句甲子園とかw」

という、自分とのやりとりに続くものでした。

そういえば、たとえば福田若之さんが、俳句甲子園常勝と言われる開成高校の出身で、卒業してから現在のような書き方をされるようになったということなどは、ちょっと象徴的な気がします。


3)"石田郷子ライン"という言葉にふくまれる悪気(わるぎ)について。

中原さんは、はっきりとではなくても、ある一群の作家を認めたくない(それに対抗する)ということを言っている。

そういう言葉を、自分が、作家に対する評価を含まない用語であるかのように扱ったことには、無理がありました。

やはり誰かを指して"石田郷子ライン"と言えば、ディスりになってしまいますよね。その悪気は脱臭できない。粗雑でした。

自分の意図として、その言い方と個々の作品の評価は別というのは本当です。また作品の傾向として近いとみなしうることについても、訂正の必要は感じないのですが、「悪気」ベースのキーワードの元に、名前を並べてしまった作家の方たちには、申し訳ないことでした。

あやまって終わるというのも、なんとも景気が悪いのですが、今回は以上です。




2013-04-21

【週刊俳句時評79】  "石田郷子ライン"……?(後編) 上田信治

【週刊俳句時評79】 
"石田郷子ライン"……?

(後編)いささかマッチポンプめくが、それを叱り言葉やあざけり言葉にしてしまうのは、どうかと思う

上田信治


≫前編 中原道夫の命名によって可視化された作家群の出現に、うすうす気づいていたとはいえ、驚く


中原道夫さん命名の"石田郷子ライン"なる作品傾向に連なる作家として、

石田郷子 今橋眞理子 津川絵理子 明隅礼子 辻美奈子 西宮舞 浦川聡子 大高翔 中田美子 上田日差子 今井肖子 高田正子 中田尚子 仙田洋子 土肥あき子 黛まどか 中西夕紀 矢野玲奈 名取里美 藤本美和子 山田佳乃 井越芳子 藺草慶子 甲斐由紀子 甲斐のぞみ 日下野由季 藤本夕衣 杉田菜穂 小川楓子 高勢祥子 藤井あかり 鶴岡加苗

という方たちの名前を(自分の仮の判断で)あげました。
さらに、やや幅を拡げるなら、

片山由美子 武藤紀子 山西雅子 岩田由実 森賀まり 満田春日 対中いずみ 杉山久子 北川あい沙 茅根知子

といった作家を、このリストに加えてもいいかもしれない。さらに、男性作家としては、

大串章 千葉皓史 加藤かな文 金子敦 金原知典 後閑達雄 牛田修嗣 涼野海音 小川春休 

といった人たちも、傾向を近くしていると言えそうです。(*1)

実績や年齢の異なる作家を、ひとくくりに扱うことの乱暴さ非礼さについては、おわびします。

また、名前をあげた方の個々の作品を、このキャッチフレーズの元に低く(あるいは高く)評価する意図はありません。



これらの作家の多くが自己形成をしたと思われる、昭和末期から平成の俳句シーンを振り返ると、

1) 戦前戦中派世代の作家(永田耕衣・飯田龍太・髙柳重信・波多野爽波・三橋敏雄・他多数)の「退場」
2) 高浜虚子への絶対視に近い再評価
3) 俳句総合誌創刊ラッシュや「俳句人口1000万人説」にみられた「大衆化」(および、その退潮)

といった現象がありました。

小川軽舟さんは、同時代(同世代)俳句論である『現代俳句の海図 昭和三十年代世代俳人たち』(平成20年)において、石田郷子さんの作品を、

「石田の俳句の中心には、いつも石田自身が立っている(…)世界を受容し、また世界から受容されながら、自分自身の存在を確認する(…)素地のままの自分で、俳句形式だけを手がかりに世界と向き合った結果が石田の俳句なのだ」

と評し、また同年代の女性作家について

「彼女たちにとって、俳句は(…)自己表現の手段であった。とはいえ、俳句形式は何を表現するのにふさわしいかという点において、彼女たちの自己表現には節度がある。そうして生まれた彼女たちの俳句形式による叙情詩の代表を片山由美子と石田郷子に見ることができる(…)彼女たちは俳句に過大な負担をかけない。何かを表現しようとして俳句を利用するのではなく、俳句形式に触れることによって、心がおのずと開かれていく。その抒情の行方には、現代に生きる女性たちの思いが刻まれてゆくだろう」

と素描しています。

うむ、たしかに。きっと、そうなのだという気がします。(*2)

小川軽舟さんが「彼女たち」「代表」として石田郷子を挙げ、その俳句の特質を「素地のまま」「俳句形式だけを手がかりに」「世界を受容し、また世界から受容されながら」と評したこと。そして中原道夫さんが「その」現象を"石田郷子ライン"と名づけたこと。

この二つは、直感として通底している。というか、たぶん同じことを言っている。

ここからは、こちらも直感で、やや飛ばして書きます。

"石田郷子ライン"の特徴は、まず、ことごとしい「文学的自我」や「作家意識」を前提としないことにあります。

「文学的自我」というのは、飯田龍太のような自己を世界と対峙する形で物語化する主体。「作家意識」というのは摂津幸彦のような言語芸術の主体としての自己認識、くらいの意味で言っています。また「ホトトギス」の美意識に連なる主観の押し出しの抑制はありますが、虚子や素十や爽波のような、徹底した放下の果てに出現する、得体の知れなさを理想とするのでも、もちろんない。(*3)

等身大の「わたし」俳句という性格が濃いのです。

一見、世界の側にテーマがあるように見える句も、それが、日常感覚というか、身の丈をはずれない感受性と言葉づかいによって「わたし」に統べられていて、その世界では、あまりびっくりするようなことが起こらない。(*4)

問題は、それが中原さんに「みんな似たようで、さっぱりとしていて」と言われてしまうということです。

私性が、固有性であるならば、「わたし」俳句は、お互いまるで似ないものになってもよさそうなのに。

「いや、人間、個性なんて元からないんだって」というポストモダンな人間観は「俳句は無名がいい」なんて言い方と相性がよく、「文学」に疲れた私たちを慰めるのですが、しかし。

物を書く(作る)ということは、「この私」の固有性とか身体性とかを通じて普遍に達することを目指すものだと、そこは、間違いのないところだと思うのです。

だから、たがいに似るのは、困る。



小川軽舟さんは、前掲書で、自分たち(昭和三十年代世代)にとって「金子兜太も髙柳重信も摂津幸彦も、すでに古典であった」のであり、自分たちは「型を完璧に習得することによって、型を意識しない自由を得たのだ」「極論すれば、俳句の作品とは、演能や茶の点前のように型を表す行為なのではないか」と、ぎりぎりまで踏み込んだ形で、同世代の俳句の思想を述べました。

それを、高山れおなさんが「表現が表現である限り、型の習得で水準を維持することは出来ない。型の伝習のみでは水準は確実に落ちるのである。それは古今の文学史と芸術史にあきらかなことで、小川とて先刻承知のはずの鉄の法則である。それにもかかわらず、小川がかく奇妙にオプティミスティックな認識を抱くにいたったところに、なるほどある時代のリアリティの現われを感ずる」(*5)と痛烈に批判したのは、記憶に新しいところ。

一方で、同じ近過去をこう概観するのは、筑紫磐井さんです。

実際、現代の俳句の至上の理念は「俳句上達」である。多くの賞の評価基準は「俳句上達」である。また、これからどんな若い世代が登場しようとも、「俳句上達」の枠の中で活躍するに止まるのではなかろうか。なぜなら彼らは「俳句上達」以外の俳句を知らないから。その意味では高尚な理念をうたった芭蕉・蕪村・正岡子規・水原秋桜子・中村草田男・加藤楸邨らは古典文学としては残っても、秋山(*6)の引いた現代俳句の路線から隔離されている。「俳句上達」の視点から芭蕉や草田男を見ることは不可能ではないだろうが、それだけでは彼らに対する冒涜であろう。しかし一方では、そうしたものを必要としなくなっているのが「現代俳句」ででもあるのではないか。(*7)

そう。ひどくアイロニーを込めた言い方ですが、まったくそうかもしれない。

たしかに前号で、例として挙げたのは、いい句ばかりですが、ひとつ留保を置きたくなる。

それらの句は、プレーされている競技の採点基準が見えてしまうような、その良さの基準を箇条書きで出せそうな「いい句」だ、という気がしなくもないのです。

平明で、気持ちや読みどころが分かりやすく、ヘンじゃなくて、キレイで、心地好い。

そういえば、片山由美子さんは「光まみれの蜂」の「まみれ」は表現として汚いから、美しいものに使わない方がいいという主旨のことを発言(*8)されたそうですが、たとえばそういう規範的発想が、「俳句上達」という競技の採点ルールを作っている。

「俳句形式だけを手がかりに」と、小川さんは書きました。

ここでいう「俳句形式」が、これから書かれる「内容」以外のすべてだとしても。俳句は、それだけを手がかりにしていては、書く前から見えているそれとの関係、その達成度でしか価値を計れなくなってしまう。

「現代の俳句の至上の理念は「俳句上達」である」というのはそういうことで、そのことは、作品が既知の範囲を出にくいという事態を招きます。

なぜなら、そこには、すでにある俳句を変化させ更新させる動機がないから。

件の作品が互いに似ている部分は、俳句を「学習」し、かつ「等身大」にしてしまった結果であるように思われます。

既知の俳句をはみだしていくものがなければ、書くことが、書き手自身の既知の自己を更新し変化させていくということも起こりにくい。むしろ逆に、書くことが、人を、既にある「(書く主体としての)等身大モデル」に押し込んでいくということが起こる。(*9)

かくて「わたし」たちは、共感レベルを同水準に保ったまま、おたがい同士いいかんじという、一大勢力を形成してしまった。

そういう事情なのかも知れません。



——それでは。

そこからはもう何も生まれず、"石田郷子ライン"というのは、叱り言葉、あるいはあざけり言葉となるのだろうか。

そういう評価もまた不当だろう、と思うのです。



(メモ)石田郷子ラインとはビーダーマイヤー的心性に似たものだろうか。

関悦史さん、13/04/19 23:12 のツイート。この「ビーダーマイヤー」ググってみると、こんなかんじです。

≫ウィキペディア
≫biglobeなんでも相談室
≫インテリアデザイン用語集

19世紀ドイツ・オーストリアの、室内装飾とか生活様式に代表される、小市民的心性? 関さんの真意や那辺に、と思いながら、ビーダーマイヤー文学の代表作家とされるシュティフターの小説についての、アマゾンレビューを見ると、

≫水晶他三編 石さまざま
≫晩夏(上)

なるほど、これは読んでみたいと思わせる。

庄野潤三の晩年の小説と、その受容され方を思い出しました。亡くなる前、とても人気があって、榮猿丸さんが「サバービア」な感覚の一例として挙げていたりしました。

そこには、すごいもの、圧倒的なもの、一見して偉大なものは見あたらないかもしれない。それでも、それは、誰かによって真剣に見られた夢なのだ、ということです。

それらレビューの評言は、"ライン"の句のありうべき理想形を表した言葉であるかのようにも思えました。



以前「ゼロ年代俳句」のミニアンソロジー(*10) を作った時に、自分は「ノーバディな私の自分語り」という項目を立てました。

それは、自分が"ライン"的な心性の、深化の方向として考えるものの一つです。 

「ノーバディな」という限定は、消え入りそうな薄い「私」性の立ち上げというイメージでした。

例として、そのミニアンソロジーからピックアップすると、こういう感じになります。

ぽつとある注射の跡や秋の暮   森賀まり    
掌をあてて言ふ木の名前冬はじめ 石田郷子
蝸牛やご飯残さず人殺めず    小川軽舟
雪の日のそれはちひさなラシャ鋏 中岡毅雄
雀来る小さな日向はうれん草  加藤かな文
冷蔵庫まづは卵を並べけり    後閑達雄
昼過ぎの明るさかなし冬に入る  金原知典
傘の柄のつめたしと世にゐつづける杉山久子
無花果をなまあたたかく食べにけり津川絵理子
端居して二百年後もここにゐる  小沢麻結
麗かや生春巻きのみどり透く   矢野玲奈
台風の近づきすぎて笑ひさう  土肥あき子
枯葉には光ののぞき穴がある   岡田佳奈
冬ざくら童話の終はり晴れわたる宮本佳世乃
産み終へてみればこの世は花ざかり鶴岡加苗

これらの「わたし」には、かそけき現実感というか、消え入りそうでありつつリアルな「本人」の手応えがある。

こういったものは、この世代の"ライン"に連なる作家群による成果だと思います(たぶん、他の方向にもある)。



叱り言葉としての「たがいに似ている」は、反論しにくいので、ちょっとたちが悪く、もしそれが、我々はもっと個性化しなければならない、なんて言い方を導くとしたら、抑圧以外の何物でもない。

この"石田郷子ライン"というフレーズ。

俳句の現在を考えるよいヒントになると思う一方、物言いとして悪く効きそうなので、マッチポンプを、すなわち放火と消火を同時にすることを試みた次第です。



(*1)片山さんをいれると"「石田郷子」ライン"としては、拡げすぎなのですが、作風的にはありかも。男性作家は「わたし」の性質を、女性作家たちと共有していないと思われるのですが、若手についてはほとんど違和感がない。

(*2)小川軽舟さんは、昭和61年に25歳で「鷹」に入門。"石田郷子ライン"の作家群とほぼ背景を共有しています。

(*3)このことからしても、"ライン"の作家は、「街」鼎談の今井聖さん、中原道夫さん、星野高士さんと、たぶん話が合わない。

(*4)前回、自分は"ライン"系の作風を、ニューエイジ・ミュージック にたとえました。この話、その音楽が、音で自然をイメージさせる人工的空間を作っていることと、つながっているかもしれません。

(*5)高山れおな「番矢なし」が俳句の五十五年体制の 肝?小川軽舟句集『手帖』及び『現代俳句の海図 昭和三十年世代俳人たちの行方』を読む」ブログ「豈weekly」2008年10月18日号 ≫読む

(*6)秋山みのる 元・角川「俳句」編集長(昭和61年10月~平成6年7月)。「結社の時代」キャンペーンを主導の一方、「俳句」誌面を、現在に至る実用特集中心へと転換した。

(*7)筑紫磐井「長編・「結社の時代」とは何であったのか」ブログ「俳句樹」2010年10月10日号 ≫読む

(*8) 吉川宏志ブログ「シュガークイン日録Ⅱ」2013/04/17

(*9)それは「文学的自我」においても、よくあることではあります。

(*10) 「ゼロ年代の俳句100句」─作品篇─(「週刊俳句」2010年6月27日号)≫読む 
「新撰」「超新撰」世代ほぼ150人150句選(「週刊俳句」2010年12月26日号) ≫読む

2013-04-14

【週刊俳句時評78】  "石田郷子ライン"……?(前編) 上田信治

【週刊俳句時評78】 
"石田郷子ライン"……?

(前編)中原道夫の命名によって可視化された作家群の出現に、うすうす気づいていたとはいえ、驚く

上田信治


結社誌『街』(今井聖主宰)は、平成8年10月創刊。この4月、100号の記念号を刊行しました。

目玉企画というべきなのが、「俳壇は小説より奇なり 「街」100号記念親戚鼎談」と題された鼎談、中原道夫(銀化)、星野高士(玉藻)の両氏と、今井聖主宰の座談です。

中原さんと今井さん、星野さんと今井さんが、それぞれ遠い縁戚関係にあるという話はわりとどうでもいいのですが、それとは別に、ご三方の飛ばしっぷりが、なかなか楽しい。

中原 やりたいとか、良いか悪いか好きか嫌いかは別として、稲畑廣太郎さんに〈Aランチアイスコーヒー付けますか〉というのがあるわけよ。みんな、廣太郎さん何を血迷ってるんだろうなんて(笑)
今井 だめだね、その句は(笑)
中原 だから、ここで好き嫌い白黒は別として。
星野 その話をやると一時間かかる(笑)

それは、ぜひ一時間、うかがいたいところですが(笑)さて。

今回、この欄でぜひ取り上げたいと思ったのは、中原道夫さんが、この鼎談で提出した「石田郷子ライン」という言葉です。

 (以下は、司会(竹内宗一郎)の「これからの俳句はどういう傾向になっていくかその予感をお聞かせください」という質問に対する発言)

中原 (…)作品が全体として本当の意味でのライトバースではなくて、軽い。これはいつから起きたというのは定かではないけれどある時代を画して似たようなタイプが出てきた。

勿論一人ずつを吟味すれば違うのですが、私の中では"石田郷子ライン"と名付けている。李承晩ラインみたいに。

彼女が新人賞を取ってから、藺草慶子高田正子山西雅子などあの辺の一派にディファレンスを感じない。みんな似たようで、さっぱりとしていて軽い、それでいて嫌な感じではないですよ、癒し系と言ったらいいのかも知らないけど、ああいう軽めのイージーリスニング、BGMみたいな集団として一個の塊がずうっと動いている感じがする。(…)

ある年代から下が割りと似たような感じになって来ている。それを危惧している。(…)いろんな句集が送られて来ますがみんなあまり生活臭がない。少なくても五十年代生まれ団塊の世代は、母として泥まみれになって子供を育てているんでしょう。けれど、そういうのはあまり見せない、詠わないよね。木が囁いて日射しの中でどうのこうのみたいな(笑)。

(…)彼女が悪いんじゃなくて、ああいう特徴的な一つのエポックメイキングな一線として"石田郷子ライン"と私は名付けている。

いかがでしょう。「石田郷子ライン」という言葉、流行るかどうか分かりませんが、なにかを言い当てていると思われませんか。

もうすこし見えやすくするために、キーワードを抜き出してみましょう。

「(本当の意味でのライトバースではなくて)軽い」
「石田郷子、藺草慶子、高田正子、山西雅子などあの辺の一派」
「ディファレンスを感じない」
「みんな似たようで、さっぱりとしていて」
「嫌な感じではない」
「癒し系」
「イージーリスニング、BGMみたいな」
「生活臭がない」
「木が囁いて日射しの中でどうのこうの」


中原さんの言いたいのは、「ニューエイジ・ミュージックのような俳句」ということかな、と思いました。

これは価値判断ではなく、あくまで自分が勘を働かせるための補助線です。誤解をさけるためには「ニューエイジ・ミュージックの最良の部分のような」と、言ったほうが適切かもしれません。

ちなみに「ニューエイジ・ミュージック」ということから、自分が連想することは、

「スムーズ・なめらか」
「自然体」
「向日的」
「よくコントロールされた」
「知的で優等生的」
「ユーモアすくなめ」
「自然大好き」


というかんじ。おお、これは、ひょっとして、平成25年現在の俳句のある部分をひじょうに言い得ているのではないでしょうか。



ちょうど手元に『戦後生まれの俳人たち』(毎日新聞社)という、昨年末に出たアンソロジーがありました。

戦後生まれの俳人109名(金子兜太、稲畑汀子、有馬朗人の選出を元に、宇田喜代子が決定)それぞれの自選10句に、宇多さんが論評を加えるという体裁の本で、ちょうど一人目が石田郷子さんです。

以下この本から、筆者(上田)の判断で"石田郷子ライン"のライン上にあるかも、と思われる作家の方を、引いてみます。

さへづりのだんだん吾を容れにけり石田郷子
からつぽの空となりたる野分後 今橋眞理子
見えさうな金木犀の香なりけり 津川絵理子
星の夜のつづきのやうに身ごもりぬ明隅礼子
鳥交る日の炊きたてのご飯かな  辻美奈子
綿虫をあやつつてゐるひかりかな  西宮舞
トランペットの一音#して芽吹く 浦川聡子
日傘さす光と影をしたがへて    大高翔
鎖骨よりのびる首すじ花の雨   中田美子
囀りの一樹ふるへてゐたるかな 上田日差子
ふらここを漕ぐあの頃の空がある 今井肖子
しづけさを春の寒さと言ひにけり 高田正子
水あそびして毎日が主人公    中田尚子
冬銀河かくもしづかに子の宿る  仙田洋子
腹這へば乳房あふれてあたたかし土肥あき子
スケートの花びらほどの衣まとひ 黛まどか
合はす手を塔と思へり渡り鳥   中西夕紀
春の海渡るものみな映しをり   矢野玲奈
大切なもの見えてくる螢かな   名取里美
はるかなるものの映りて水温む 藤本美和子
空蝉やまだ考へてゐるやうに   山田佳乃


壮観です。

前掲書の女性作家55人中22人。50代以下女性に限定すれば、33人中20人! 

識者によって推薦された「その世代」の過半の作家が、なんとなくその範疇に入ると言えなくもない。

もちろん、それぞれいい句ですし、中原さんも言っているように「一人ずつを吟味すれば違う」。グルーピングには自分の見込み違いもあるかもしれません。が、しかし。全体トシテ、ナントナク感ジルモノガ、アル…。

上げさせていただいたのは「自選」10句からの抜粋なのですが、これらの句は、中原さんが「ディファレンスを感じない」と言うほどかどうかはともかく、たしかに、互いに似ているかもしれない。ここには、価値観と方法が極めて近い「作家群」がみとめられるように思います。

さらに去年と今年の「年鑑」年齢別50代以下からお名前を引けば、次に挙げさせていただいた方も、広い意味で「ライン」上におられるように思います。

井越芳子 藺草慶子 甲斐由紀子 甲斐のぞみ 日下野由季 藤本夕衣 杉田菜穂 小川楓子 高勢祥子 藤井あかり 鶴岡加苗……

結社の内外に、おそらくもっとたくさん、この傾向に連なる作家がおられることでしょう。これはやはり、何かが起こっていると言ってもいい。

この一大集団はいったい、何を企んでいるのでしょうか!!!!(違う)。



検討すべき課題が、たくさん浮かんできました。

1.この作家の方たちが自己形成したのは、おおむね、この20年のことと思われます。この20年に何があったのか。

2.ここに男性作家リストを加えるとしたら? いったん、千葉皓史さんや加藤かな文さんの名前を加えてみて、なーんとなく違和感があったのは、なぜか。

あるいは、ここに正木ゆう子さん(水の地球すこしはなれて春の月)や片山由美子さん(カステラに沈むナイフや復活祭)を加えると、作風的にはアリな気がするのに、なーんとなく違和感があるのはなぜか。

3.この作家群による傾向/作風は、特定の指導者のもとや、理念や旗印(「前衛」とか「伝統回帰」とか)のもとに生まれたのではなく、自然かつ同時発生的に、それこそ草木が生えたかのように形成されたものと思われます。どうして、そんなことが、起こりえたのでしょうか。

4.つまるところ、このことは、俳句にとってなんなのか。

次号、つづきを書きます。

≫後編