2013-04-21

【週刊俳句時評79】  "石田郷子ライン"……?(後編) 上田信治

【週刊俳句時評79】 
"石田郷子ライン"……?

(後編)いささかマッチポンプめくが、それを叱り言葉やあざけり言葉にしてしまうのは、どうかと思う

上田信治


≫前編 中原道夫の命名によって可視化された作家群の出現に、うすうす気づいていたとはいえ、驚く


中原道夫さん命名の"石田郷子ライン"なる作品傾向に連なる作家として、

石田郷子 今橋眞理子 津川絵理子 明隅礼子 辻美奈子 西宮舞 浦川聡子 大高翔 中田美子 上田日差子 今井肖子 高田正子 中田尚子 仙田洋子 土肥あき子 黛まどか 中西夕紀 矢野玲奈 名取里美 藤本美和子 山田佳乃 井越芳子 藺草慶子 甲斐由紀子 甲斐のぞみ 日下野由季 藤本夕衣 杉田菜穂 小川楓子 高勢祥子 藤井あかり 鶴岡加苗

という方たちの名前を(自分の仮の判断で)あげました。
さらに、やや幅を拡げるなら、

片山由美子 武藤紀子 山西雅子 岩田由実 森賀まり 満田春日 対中いずみ 杉山久子 北川あい沙 茅根知子

といった作家を、このリストに加えてもいいかもしれない。さらに、男性作家としては、

大串章 千葉皓史 加藤かな文 金子敦 金原知典 後閑達雄 牛田修嗣 涼野海音 小川春休 

といった人たちも、傾向を近くしていると言えそうです。(*1)

実績や年齢の異なる作家を、ひとくくりに扱うことの乱暴さ非礼さについては、おわびします。

また、名前をあげた方の個々の作品を、このキャッチフレーズの元に低く(あるいは高く)評価する意図はありません。



これらの作家の多くが自己形成をしたと思われる、昭和末期から平成の俳句シーンを振り返ると、

1) 戦前戦中派世代の作家(永田耕衣・飯田龍太・髙柳重信・波多野爽波・三橋敏雄・他多数)の「退場」
2) 高浜虚子への絶対視に近い再評価
3) 俳句総合誌創刊ラッシュや「俳句人口1000万人説」にみられた「大衆化」(および、その退潮)

といった現象がありました。

小川軽舟さんは、同時代(同世代)俳句論である『現代俳句の海図 昭和三十年代世代俳人たち』(平成20年)において、石田郷子さんの作品を、

「石田の俳句の中心には、いつも石田自身が立っている(…)世界を受容し、また世界から受容されながら、自分自身の存在を確認する(…)素地のままの自分で、俳句形式だけを手がかりに世界と向き合った結果が石田の俳句なのだ」

と評し、また同年代の女性作家について

「彼女たちにとって、俳句は(…)自己表現の手段であった。とはいえ、俳句形式は何を表現するのにふさわしいかという点において、彼女たちの自己表現には節度がある。そうして生まれた彼女たちの俳句形式による叙情詩の代表を片山由美子と石田郷子に見ることができる(…)彼女たちは俳句に過大な負担をかけない。何かを表現しようとして俳句を利用するのではなく、俳句形式に触れることによって、心がおのずと開かれていく。その抒情の行方には、現代に生きる女性たちの思いが刻まれてゆくだろう」

と素描しています。

うむ、たしかに。きっと、そうなのだという気がします。(*2)

小川軽舟さんが「彼女たち」「代表」として石田郷子を挙げ、その俳句の特質を「素地のまま」「俳句形式だけを手がかりに」「世界を受容し、また世界から受容されながら」と評したこと。そして中原道夫さんが「その」現象を"石田郷子ライン"と名づけたこと。

この二つは、直感として通底している。というか、たぶん同じことを言っている。

ここからは、こちらも直感で、やや飛ばして書きます。

"石田郷子ライン"の特徴は、まず、ことごとしい「文学的自我」や「作家意識」を前提としないことにあります。

「文学的自我」というのは、飯田龍太のような自己を世界と対峙する形で物語化する主体。「作家意識」というのは摂津幸彦のような言語芸術の主体としての自己認識、くらいの意味で言っています。また「ホトトギス」の美意識に連なる主観の押し出しの抑制はありますが、虚子や素十や爽波のような、徹底した放下の果てに出現する、得体の知れなさを理想とするのでも、もちろんない。(*3)

等身大の「わたし」俳句という性格が濃いのです。

一見、世界の側にテーマがあるように見える句も、それが、日常感覚というか、身の丈をはずれない感受性と言葉づかいによって「わたし」に統べられていて、その世界では、あまりびっくりするようなことが起こらない。(*4)

問題は、それが中原さんに「みんな似たようで、さっぱりとしていて」と言われてしまうということです。

私性が、固有性であるならば、「わたし」俳句は、お互いまるで似ないものになってもよさそうなのに。

「いや、人間、個性なんて元からないんだって」というポストモダンな人間観は「俳句は無名がいい」なんて言い方と相性がよく、「文学」に疲れた私たちを慰めるのですが、しかし。

物を書く(作る)ということは、「この私」の固有性とか身体性とかを通じて普遍に達することを目指すものだと、そこは、間違いのないところだと思うのです。

だから、たがいに似るのは、困る。



小川軽舟さんは、前掲書で、自分たち(昭和三十年代世代)にとって「金子兜太も髙柳重信も摂津幸彦も、すでに古典であった」のであり、自分たちは「型を完璧に習得することによって、型を意識しない自由を得たのだ」「極論すれば、俳句の作品とは、演能や茶の点前のように型を表す行為なのではないか」と、ぎりぎりまで踏み込んだ形で、同世代の俳句の思想を述べました。

それを、高山れおなさんが「表現が表現である限り、型の習得で水準を維持することは出来ない。型の伝習のみでは水準は確実に落ちるのである。それは古今の文学史と芸術史にあきらかなことで、小川とて先刻承知のはずの鉄の法則である。それにもかかわらず、小川がかく奇妙にオプティミスティックな認識を抱くにいたったところに、なるほどある時代のリアリティの現われを感ずる」(*5)と痛烈に批判したのは、記憶に新しいところ。

一方で、同じ近過去をこう概観するのは、筑紫磐井さんです。

実際、現代の俳句の至上の理念は「俳句上達」である。多くの賞の評価基準は「俳句上達」である。また、これからどんな若い世代が登場しようとも、「俳句上達」の枠の中で活躍するに止まるのではなかろうか。なぜなら彼らは「俳句上達」以外の俳句を知らないから。その意味では高尚な理念をうたった芭蕉・蕪村・正岡子規・水原秋桜子・中村草田男・加藤楸邨らは古典文学としては残っても、秋山(*6)の引いた現代俳句の路線から隔離されている。「俳句上達」の視点から芭蕉や草田男を見ることは不可能ではないだろうが、それだけでは彼らに対する冒涜であろう。しかし一方では、そうしたものを必要としなくなっているのが「現代俳句」ででもあるのではないか。(*7)

そう。ひどくアイロニーを込めた言い方ですが、まったくそうかもしれない。

たしかに前号で、例として挙げたのは、いい句ばかりですが、ひとつ留保を置きたくなる。

それらの句は、プレーされている競技の採点基準が見えてしまうような、その良さの基準を箇条書きで出せそうな「いい句」だ、という気がしなくもないのです。

平明で、気持ちや読みどころが分かりやすく、ヘンじゃなくて、キレイで、心地好い。

そういえば、片山由美子さんは「光まみれの蜂」の「まみれ」は表現として汚いから、美しいものに使わない方がいいという主旨のことを発言(*8)されたそうですが、たとえばそういう規範的発想が、「俳句上達」という競技の採点ルールを作っている。

「俳句形式だけを手がかりに」と、小川さんは書きました。

ここでいう「俳句形式」が、これから書かれる「内容」以外のすべてだとしても。俳句は、それだけを手がかりにしていては、書く前から見えているそれとの関係、その達成度でしか価値を計れなくなってしまう。

「現代の俳句の至上の理念は「俳句上達」である」というのはそういうことで、そのことは、作品が既知の範囲を出にくいという事態を招きます。

なぜなら、そこには、すでにある俳句を変化させ更新させる動機がないから。

件の作品が互いに似ている部分は、俳句を「学習」し、かつ「等身大」にしてしまった結果であるように思われます。

既知の俳句をはみだしていくものがなければ、書くことが、書き手自身の既知の自己を更新し変化させていくということも起こりにくい。むしろ逆に、書くことが、人を、既にある「(書く主体としての)等身大モデル」に押し込んでいくということが起こる。(*9)

かくて「わたし」たちは、共感レベルを同水準に保ったまま、おたがい同士いいかんじという、一大勢力を形成してしまった。

そういう事情なのかも知れません。



——それでは。

そこからはもう何も生まれず、"石田郷子ライン"というのは、叱り言葉、あるいはあざけり言葉となるのだろうか。

そういう評価もまた不当だろう、と思うのです。



(メモ)石田郷子ラインとはビーダーマイヤー的心性に似たものだろうか。

関悦史さん、13/04/19 23:12 のツイート。この「ビーダーマイヤー」ググってみると、こんなかんじです。

≫ウィキペディア
≫biglobeなんでも相談室
≫インテリアデザイン用語集

19世紀ドイツ・オーストリアの、室内装飾とか生活様式に代表される、小市民的心性? 関さんの真意や那辺に、と思いながら、ビーダーマイヤー文学の代表作家とされるシュティフターの小説についての、アマゾンレビューを見ると、

≫水晶他三編 石さまざま
≫晩夏(上)

なるほど、これは読んでみたいと思わせる。

庄野潤三の晩年の小説と、その受容され方を思い出しました。亡くなる前、とても人気があって、榮猿丸さんが「サバービア」な感覚の一例として挙げていたりしました。

そこには、すごいもの、圧倒的なもの、一見して偉大なものは見あたらないかもしれない。それでも、それは、誰かによって真剣に見られた夢なのだ、ということです。

それらレビューの評言は、"ライン"の句のありうべき理想形を表した言葉であるかのようにも思えました。



以前「ゼロ年代俳句」のミニアンソロジー(*10) を作った時に、自分は「ノーバディな私の自分語り」という項目を立てました。

それは、自分が"ライン"的な心性の、深化の方向として考えるものの一つです。 

「ノーバディな」という限定は、消え入りそうな薄い「私」性の立ち上げというイメージでした。

例として、そのミニアンソロジーからピックアップすると、こういう感じになります。

ぽつとある注射の跡や秋の暮   森賀まり    
掌をあてて言ふ木の名前冬はじめ 石田郷子
蝸牛やご飯残さず人殺めず    小川軽舟
雪の日のそれはちひさなラシャ鋏 中岡毅雄
雀来る小さな日向はうれん草  加藤かな文
冷蔵庫まづは卵を並べけり    後閑達雄
昼過ぎの明るさかなし冬に入る  金原知典
傘の柄のつめたしと世にゐつづける杉山久子
無花果をなまあたたかく食べにけり津川絵理子
端居して二百年後もここにゐる  小沢麻結
麗かや生春巻きのみどり透く   矢野玲奈
台風の近づきすぎて笑ひさう  土肥あき子
枯葉には光ののぞき穴がある   岡田佳奈
冬ざくら童話の終はり晴れわたる宮本佳世乃
産み終へてみればこの世は花ざかり鶴岡加苗

これらの「わたし」には、かそけき現実感というか、消え入りそうでありつつリアルな「本人」の手応えがある。

こういったものは、この世代の"ライン"に連なる作家群による成果だと思います(たぶん、他の方向にもある)。



叱り言葉としての「たがいに似ている」は、反論しにくいので、ちょっとたちが悪く、もしそれが、我々はもっと個性化しなければならない、なんて言い方を導くとしたら、抑圧以外の何物でもない。

この"石田郷子ライン"というフレーズ。

俳句の現在を考えるよいヒントになると思う一方、物言いとして悪く効きそうなので、マッチポンプを、すなわち放火と消火を同時にすることを試みた次第です。



(*1)片山さんをいれると"「石田郷子」ライン"としては、拡げすぎなのですが、作風的にはありかも。男性作家は「わたし」の性質を、女性作家たちと共有していないと思われるのですが、若手についてはほとんど違和感がない。

(*2)小川軽舟さんは、昭和61年に25歳で「鷹」に入門。"石田郷子ライン"の作家群とほぼ背景を共有しています。

(*3)このことからしても、"ライン"の作家は、「街」鼎談の今井聖さん、中原道夫さん、星野高士さんと、たぶん話が合わない。

(*4)前回、自分は"ライン"系の作風を、ニューエイジ・ミュージック にたとえました。この話、その音楽が、音で自然をイメージさせる人工的空間を作っていることと、つながっているかもしれません。

(*5)高山れおな「番矢なし」が俳句の五十五年体制の 肝?小川軽舟句集『手帖』及び『現代俳句の海図 昭和三十年世代俳人たちの行方』を読む」ブログ「豈weekly」2008年10月18日号 ≫読む

(*6)秋山みのる 元・角川「俳句」編集長(昭和61年10月~平成6年7月)。「結社の時代」キャンペーンを主導の一方、「俳句」誌面を、現在に至る実用特集中心へと転換した。

(*7)筑紫磐井「長編・「結社の時代」とは何であったのか」ブログ「俳句樹」2010年10月10日号 ≫読む

(*8) 吉川宏志ブログ「シュガークイン日録Ⅱ」2013/04/17

(*9)それは「文学的自我」においても、よくあることではあります。

(*10) 「ゼロ年代の俳句100句」─作品篇─(「週刊俳句」2010年6月27日号)≫読む 
「新撰」「超新撰」世代ほぼ150人150句選(「週刊俳句」2010年12月26日号) ≫読む

2 コメント:

匿名 さんのコメント...

大ざっぱながら、これらの俳人たちの意識の
ありようが見えて、面白く読みました。
末期高齢者の私には
家庭に仕事を持ち込まない人々に見えました。
つまり言葉に社会(つまり批判)を持ち込ま
ない人々です。
俳人だけではなく、表現行為そのものの変質が
進んでいるのではないかと思います。

匿名 さんのコメント...

垢まみれの言葉が多くて新しい表現は難しい、等身大の自分の手の届く範囲で俳句を作ってしまう。しかし、そのことが決して悪いことではない。だが、俳句の進化を考えるとある種、むなしさがある。俳句上達路線も批判できないが、社会批判的な俳句も作って欲しい。