2016-02-14

〔その後のハイクふぃくしょん〕キョンさん 中嶋憲武

〔その後のハイクふぃくしょん〕
キョンさん

中嶋憲武


「一緒に住まねえか」と言われ、その気になって、今では一緒に暮らしている。こう言うと、お互い対等な間柄のようであるが、僕がキョンさんの家に転がり込んだのだ。
 
キョンさんは、二十歳ほど年長で、仲間うちでは、「キョンキョン」とか「キョン太」「キョン太郎」とか呼ばれている。そう呼ばれるのは、キョンさんが八丈島のキョンに似ているからだとか、怯臆の人であるからだとか、福建省で生れたからだとか、いろいろと聞いた。 

実のところ、どれも憶測に過ぎないのだし、キョンさんの通称の本当の謂れを誰も知らない。キョンさんは、現場でよく顔を合わせる人の一人で、工場内倉庫作業や引越し作業などで、同じ持ち場になったことが縷々あった。仕事帰りに一緒に冷や酒を飲むうちに、問わず語りに自分のことを話したのがきっかけで、キョンさんは僕に声をかけてくれた。
キョンさんの住んでいるアパートは、駅から川に沿って、十五分ほど歩いたところにある。アパートの前は、単線の走っている小高い土手で、後ろは雑木林と田畑だった。

部屋は一階の端っこの2Kだ。ドアを開けるとすぐに三畳のキッチン、トイレ、風呂場があって、奥へ向かって四畳半、六畳という間取りになっている。四畳半の磨りガラスの窓を、斜交いに外階段の影がよぎっていて、昇り降りする人の影が、部屋のなかの陰翳を微妙に動かした。

また誰か外階段を上がって行く。磨りガラス越しの人影は、輪郭を単純な形にされて、気体のように動いている。腹が減った。ここしばらく仕事が全く無く、僕の会社である「マヒナスタッフ」へ電話してみても、芳しい返事は無い。因みにキョンさんの人材派遣会社は、「株式会社助太刀」という。それで節約のために、毎日、卵かけごはんばかり食べている。青のりをふりかけてみたり、七味唐辛子をかけたりして、バリエーションを持たせてみたが、そろそろ飽きて来た。

「キョンさん、目玉焼きでも作ってみましょうか」
僕の提案が受け入れられ、目玉焼きを作って卓袱台に載せた。
「あっ、固いよ、これ。ダメだよう。チューチュー出来ないだろう」
「チューチュー?」
「黄身に口つけて、チューチュー出来ないだろう」
キョンさんは、怒っているのか困っているのか、分からないような感じで、文句を言った。なんかの映画で伊丹十三が、目玉焼きをそのように食べているのを観てからというもの、キョンさんはその食べ方に、すっかり取り憑かれてしまったらしい。

僕の焼き方に「ダメ」の烙印を押され、カイゼンを命ぜられることも無いまま、キョンさんがキッチンに立つことになった。卵を割って小皿に移し、フライパンを弱火のコンロに置くと、小皿を少し傾け、白身を僅かにこぼすと、フライパンの上に低い位置から、慎重に卵を置いた。そしてキッチンタイマーを三分にセットした。

キョンさんは、家具らしい家具など持って無くて、カラーボックスと折り畳みの卓袱台くらいしか無いのに、キッチンツールは充実している。キッチンタイマーにジューサーミキサー、中華鍋、圧力鍋、フライパン二個、雪平鍋、フードプロセッサー、ホイップクリームの絞り袋と口金など。口金は十種類くらい揃えてある。キッチンに立つ時は、腰に黒いショートエプロンをつける。

今も黒いショートエプロン姿で、目玉焼きを焼いている。僕はフライパンの上で卵を割って落としたが、キョンさんは卵を割って、いちいち小皿へ移し、水っぽい白身を捨ててから、フライパンへ静かに載せた。そのうえ、指で黄身の位置を真ん中へ来るように、修正までした。完璧だ。

六畳の部屋に卓袱台を開き、向かい合って座り、目玉焼きライスの夕餉だ。キョンさんは夜勤の仕事が入ったので、四時を過ぎたところだが、早めの食事を取ってしまう。皿の上の目玉焼きは、見た目にも全く半熟の目玉焼きだ。僕は目玉焼きには断然塩、誰がなんと言っても塩、問答無用に塩を選んでいるが、キョンさんは醤油をかけてみよと言う。些かの逡巡があったが、醤油をかけてみることにした。

醤油をかけると、醤油はつるっと目玉を滑り、忽ち分散した。こうするんだようとキョンさんは言うと、箸の先で目玉の中央をチョンチョンと突つき、その突いた穴へ醤油をすこし垂らした。キョンさんはそこへ口をつけ、おっぱいを吸うようにチューチューと吸って、顔を上げると、ああ、うめえと感に堪えないように呻いた。

僕は醤油を含んだ黄身を一口に食べた。醤油と黄身はよく合う。塩ばかりじゃなくて、たまには醤油もよいものだ。

六畳の部屋の窓から、柿の木の枝が揺れているのが見える。太い枝が次第に細くなって行き、先端が細く細くなって、しゅっと空に消え入ってしまう。どの枝も、まだ明るい夕方の空に細く細くなって消えて、暮色の濃度を上げて行くのだ。

日脚伸ぶ醤油を弾く目玉焼き 小野あらた(週刊俳句・第405号) 

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