2016-04-10

未来にめりこむ俳句 「円座」創刊五周年記念シンポジウムをきいて 吉田竜宇

未来にめりこむ俳句
「円座」創刊五周年記念シンポジウムを聞いて

吉田竜宇

四月のふつか、「円座」創刊五周年記念シンポジウムが名古屋にて開かれ、わたくしもだれに誘われたわけでもないが、衆のうちにまぎれた。

尾張の桜は満開であった。なだたる金城には、国内外からの花見客がつめかけていたようだが、こちらもかなりの大部屋にかかわらず、ひとつの椅子をふたりが分けあうような盛況であり、そして社員の家族か教え子かであろうか、制服の女子学生や、まったくの子どもの姿も見られてた。

武藤紀子主宰は、聞いた話なので間違いがあるかもしれないが、もともとは宇佐美魚目に師事し、さらに飴山實と交流し、やがて長谷川櫂の門に入ったようであり、俳句における伝統なるものがどう移り変わっていったのか、ひとつの流れが見えておもしろい。

さて、シンポジウムには「未来にめりこむ俳句」との題があり、青木亮人、松本邦吉、関悦史、中田剛、中村雅樹の各五氏(予定されていた清水良郎氏は当日欠席)それぞれの話しぶりは参加者の興を誘っていた。なお、各氏がそれぞれ「未来にめりこむ俳句」として引いたのは次のとおり。

・青木亮人選
 をりとりてはらりとおもきすすきかな  蛇笏
 墓のうらにまわる           放哉
 人類に空爆のある雑煮かな       関悦史
 7は今ひらくか波の糸つらなる      鴇田智哉
 レタス噛む帽子の動く子供かな     彌榮浩樹

・関悦史選
 避暑楽し指名手配の写真見て      岸本尚毅
 なにもかも天麩羅にする冬の暮     鳴戸奈菜
 南から骨の開いた傘が来る       鴇田智哉
 君はセカイの外へ帰省し無色の街    福田若之
 あたしのくしやみで文明畢るけど    竹岡一郎
 雪の窓料理に皿も尽く頃の       生駒大祐

・中田剛選
 いろいろな泳ぎ方してプールにひとり  爽波
 西日さしそこ動かせぬものばかり    同

・松本邦吉選
 去年今年貫く棒のごときもの   高浜虚子
 天の川わたるお多福豆一列    加藤楸邨
 虚空より定家葛の花かをる    長谷川櫂
 春着の子激しき水のことをいふ  武藤紀子
 八九間空で雨降る柳かな     芭蕉

・中村雅樹選
 箒木が箒木を押し傾けて        爽波
 いつまでも花のうしろにある日かな   あきら
 虚子の忌の大浴場に泳ぐなり      桃子
 一陣の落花が壁に当たる音       岸本尚毅 

・清水良郎選
 鶏頭の十四五本もありぬべし      子規
 あなたなる夜雨の葛のあなたかな    不器男
 母の手にみかんを置けば剥きにけり   清水良郎
 すれちがふ電車の客の昼寝かな     同
 竹馬のひと追ひかけて来たりけり    同


なにか結論が出るようなものでもなく、それを目的としてもいないが、聴衆としてこのテーマに接し、思うところがないでもなかった。

そもそも未来とはなんぞやと考えるとき、浮かんでくるのは、テクノロジィ、子どもたち、このふたつの顔である。今日、わたくしたちの日々は、かつてないほどの科学技術の発展にさらされているが、その原理はいかなるものかと問われて、自らのあまりの無知に愕然とするほかはない。煌々として注ぐ照明も、星を覆う企業のネットも、電気であろう電子であろうと雑なあたりをつけ、とりあえずそれでわかったつもりになってはいるが、深淵なる数学や物理学はまるでこの世の埒外にあるようであり、街中でふと、わたくしたちはとんでもないところにいるものだと、おそれを抱くことがしばしばである。十年後、百年後、いや既に千年の昔から、科学は想像を絶する高みの座にいたり、わたくしたちに、あまねく奇跡を配給している。今あるものは、かつてありえなかったものであり、いづれありうるものは、今はまだないものである。わたくしたちを置きざりにして、テクノロジィは彼方へのあゆみを止めない。

そして子どもたち、あるいはともかく、わたくしたちの死後をいちにちでも生きるものたちは、そのいちにち、一年、ひと世において、わたくしたちが決して目にすることのできないものを見ることになる。今、足元をはい回る赤子たち、汗のにおう学生ら、酒に浮かれ騒ぐ若者ども、かれらが見ることになるどれほど些細なものであれ、あるいは世界を変えるものであれ、わたくしたちがそれを目にすることは絶対にない。不思議というよりなく、うらみは尽きないが、永遠の謎として残されて、ひも解くすべはない。

つまり未来とは、わたくしたちにとって、絶対に理解することができなく、絶対に見ることのできないものである。彼岸へと去る他者である。そして、理解できず、見ることさえできないものを、俳句はときに、軽々と描いてみせる。それは、謎を解いて見せるのではない。ひとくくりの謎がほどけて、あらわれるのは別の結び目、新たな謎である。謎がなぞとして姿を変えつづける限り、それは滅びない。


 百日紅釈迦の阿難のわれ彳つも     槐太
 白昼を能見て過す蓬かな        魚目
 紅梅や木乃伊も見られずば舞ふまい   竹中宏


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