2016-06-05

〔その後のハイクふぃくしょん〕喪服を脱いでから 中嶋憲武

〔その後のハイクふぃくしょん〕
喪服を脱いでから

中嶋憲武


前の車のナンバープレートを厭というほど見ている。さっきからずっと動かない。カーオーディオからカーティス・メイフィールドの「トリッピング・アウト」が流れて、日曜の午後の憂鬱を少しは軽めにしてくれていた。

川魚料理の店を出てから、ずっとのろのろ走ったり止まったりの連続だ。助手席の妻は寝ている。

九十二歳で亡くなった叔母の三回忌法要が、佐野にある小さなお寺で執り行われた後、近くの川魚料理屋でお斎が振る舞われた。鯰の天ぷらがとても美味しかったので、妻の分までもらって食べたのがいけなかった。食べ過ぎたようだ。胃のあたりが重く、いつまでもこなれない感じがある。調子に乗っては、失敗する。曲はデュークス・オブ・ストラトスフィアの「バニシングガール」に変った。

頼子との事だって、そうかもしれない。頼子は、従兄の長男の嫁で、今年三十五になる。頼子の実家を売却する事になって、私の経営する不動産会社へ度々相談に来た。とかくするうち、私は頼子の事を気に入ってしまい、相談が終ると、お茶を飲んだり、お酒を飲んだりするようになった。向い合って座った、頼子の足首の締まり具合が、とてもよかった。改めて見てみると、腰のくびれも胸のふくらみも、私の理想に叶うものだった。

頼子は、私の心を察知したらしく、時折その黒鳶色の瞳に好色そうな炎を、ちらっと走らせたりした。それから私と頼子は、人に隠れてこっそりと会うような仲になった。

叔母の葬儀の時などは、荼毘に付す間、火葬場の裏の雑木林で、大きなケヤキの幹に両手をつかせて、後ろから頼子を愛した。

あれから二年。まだ続いている。妻はもう、とっくに知っているのかもしれない。平生、穏やかな妻が、その微笑の裏側にどのような心を隠蔽しているのか、私には計り知れない。いっその事、妻に話してしまったらどうだろう。ゴルフの話でもするみたいに。あの相性ばかりは、愛情とは別物だから。仕方ないんだ。

曲は左とん平の「東京っていい街だな」になった。私のipodには、いろんな曲が入っていて、シャッフル選曲になっているものだから、シチュエーションとは無関係に、とんでもない曲が出て来たりする。

弥勒という所で東北自動車道を降りて、埃っぽい道をしばらく走った。

妻は起きていて、車窓の外をぼーっと眺めている。

街外れに寂れたようなリサイクルショップがあって、軒にネオンが下がっている。信号待ちの間に、オレンジ色の電光の文字列が何回も流れた。「格安小物」「新品商品」「続々入荷中」「きっといい物がみつかる筈」「安心とやすらぎの店」等々。いい物は滅多に見つからない。それにしても少々眠たくなって来た。

「なんか眠くなって来たなあ。疲れたし。ちょっと休んでいかないか」

「そうね。まだ早いし、いいんじゃない」

街道沿いにコテージタイプのラブホテルを見つけたので、そこへ入る。ワンガレージ、ワンルームというホテルだ。

「ここなの?ファミレスかどっかだと思ってた」ガレージへ車を収めてしまうと、妻は難色を示した。

「ちょっと二時間ばかり、のびのびしたいしさ。いいだろう?」

頼子さんといつもこういう所に来てるのね。私の心のどこかで、妻のそんな声が聞こえた。だが妻は、そのような事は一切何も言わず、黙って私について来た。

部屋のフローリングは木目がつやつやとして、白い壁紙のどこにも染みがなかった。セミダブルのベッドの上に、小さなクマのぬいぐるみがぽつんと置かれていた。妻は、わあ、かわいいと言って、そのクマを手に取った。どうやら期間限定のサービスらしかった。

「ウエルカムベアーか。持って行っていいみたいだよ」と言いながら、最後の方は欠伸でフガフガしてしまった。

私はむしり取るように、ワイシャツを脱ぎ、ズボンを脱ぎ、靴下を脱いだ。Tシャツとボクサーパンツだけになると、ベッドに勢いよく寝転がった。妻は私の上着とズボンをハンガーに掛けると、着ていた喪服を脱ぎ、ノンワイヤーの黒いレースのブラジャーとショーツになると、私の隣にひんやりと横になった。

私は仰向けで、妻は私の方へ向いて、海老のように体を曲げ、もう軽く寝息を立てている。

頼子とこうしている時、頼子の手は私の体の一部をゆっくりと擦ったり、手のひらで丸めるようにしたりする。今日の法事では、極力目を合わさないようにしていたのだが、寺からの移動の時などに、思わずすぐ近くを歩いていたりして、目が合うと頼子は白目の部分を、夜明けのガラス窓みたいにほんのり青味を帯びさせていて、私に欲情しているのが分かった。私と頼子は、会えば結びつきたい衝動に駆られるようだった。

遠くから眺めていても、ワンピースの喪服姿の頼子には、普段と違ったコケティッシュな所があり、私をまた魅了するのだった。

突然、妻が大きな声で何か言った。えっ?と聞き返し、振り向くと眠っている。なんだ、寝言かと思ったその時、妻の鼻梁を横切る涙を見た。泣いているのか? しばらくその弱々しく光る一筋の流れを見ているうちに、申し訳ない気持ちが募って来て、唐突に、この場で両手をついて謝ってしまいたいと思った。すまなかった。悪い事をした。ごめんなさい。ごめんなさい。私は眠っている妻に、胸のうちで謝り続けた。

翌朝、目が覚めると、今週は水曜日に頼子と会う事になっているんだったと思った。さて、何処で飯を食うかな。昨日、妻に対して思った事など、きれいさっぱり忘れてしまったように、水曜の夜の段取りを考えていた。

春昼のネオン時々目覚めけり 阪西敦子 週刊俳句・第415号

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