2016-07-10

〔特集 BARBER KURODA〕散髪のディスクール 中嶋憲武

〔特集 BARBER KURODA〕
散髪のディスクール

中嶋憲武


かみそり崖の川沿いを歩きながら、コーちゃんは、バーバーバーバーチョコバー、バーバーバーバーチョコバーと飽きることなく鼻歌を歌っていた。石坂浩二の出ているチョコバーのコマーシャルソングだ。

日曜の朝で川沿いの細い道には、あまり人影もない。コーちゃんは、ぼくより二つ年上で小学四年だ。通学の班は違うが、近所といえば近所なので、たまに気が向けば遊んだりする。なんで知り合いになったかというと、コーちゃんは隣家のトモコちゃんの親戚なので、トモコちゃんの家に遊びに行くと、コーちゃんが遊びに来ていたりしたからなのだ。

コーちゃんは鼻歌をやめると、川の金網に手をかけた。しばらく三メートルほど下の川面(川といってもひどく浅そうで、砂利だの泥だのが透けて見えて、長く緑色の藻がゆらゆらとうねっていた)を見ていたかと思うと、金網を乗り越え、幅十五センチほどのコンクリート基礎にしゃがみこんだ。両手はしっかりと金網を握っている。やや身体を後ろへ反らせるようにすると、
「お父さん、お母さん、今まで育ててくれてありがとう。ぼくは天国へ行きます。さようなら」
と言った。
「コーちゃん、あぶないよ。やめなよ」
言ってもコーちゃんは聞かず、
「お父さん、お母さん、ありがとう。さようならっ」と言って、身体を後ろへ反らし、げらげら笑う。
「本当にあぶないよ。よしなよ」などと繰り返していると、背後で自転車のブレーキの音がして、
「馬鹿野郎っ、あぶねえだろっ、このガキャー」同時に大きな声がした。振り返ると、真っ赤な顔をした知らないおじさんだった。植木等のようなダボシャツにらくだ色の腹巻をしていた。
 
コーちゃんは、わかったようと力なく言いながら、金網を乗り越えて来た。おじさんは、気をつけろと言うと、行ってしまった。
「コーちゃん、叱られちゃったね」
「つぎ、行ってみよう」コーちゃんはいかりや長介のように、しゃがれた声を出した。

その頃、ぼくは出かける時はいつでもスケッチブックと鉛筆を持っていた。その日も、スケッチブックを小脇にしていた。ぼくとコーちゃんは、床屋へ行くところで、ぼくはコーちゃんの変化を描いておきたかったのだ。

床屋へ入ると、三つある理髪椅子はすべて埋まっていたので、席で待つことになった。ぼくは持って来たスケッチブックを開くと、横向きにして、真ん中に一本の線を引き、左側の上に「切るまえのかお」と書き、右側の上に「切ったあとのかお」と書いた。
 
ちょっと描くから、じっとしててと言ってから、ぼくはコーちゃんのスケッチを始めた。コーちゃんの前髪は、睫毛まで掛かっていた。コーちゃんは恥ずかしいのか、ぼくの方を見ず、横目を使って理髪椅子の方を見ていた。だから出来上がった絵は、横目で何かを見ている顔になった。コーちゃんの目は細かった。出来上がった絵を見せると、おれこんなに鼻長かったっけ、と呟いた。

スケッチを終えても、順番が来ないので少年ジャンプを読んで待つことにした。「男の条件」という漫画から読み始めた。

その日は結局、コーちゃんの散髪を終えたあとの顔は描くことが出来なかった。コーちゃんが先に呼ばれて、散髪が済んでしまうと、さっさと先に帰ってしまったからだ。だから右側の半分は白いままになった。

それから二三ヶ月経ったある日、コーちゃんと川沿いを歩きながら、川へ小石を投げたりしていた。
「タカちゃんちでお誕生会やってるんだ。行ってみるか」コーちゃんが不意に言った。
タカちゃんの家は、「大成土地」という不動産屋で、大きな家だった。家の裏手が応接間になっていて、塀から応接間が丸見えだった。応接間には十五、六人ほどのタカちゃんのクラスの子が来ていた。タカちゃんとコーちゃんは同学年だが、クラスは違うらしかった。

ぼくとコーちゃんは、塀の上から応接間を覗いていた。応接間までは二メートルくらいだ。テーブルの上には、デコレーションケーキや唐揚げが見えた。
「あっ、コージが来た。ワルのコージが」ぼくも顔を見知っている頭の良さそうな男の子が、高い声で叫んだ。
「ここはねえ、いい子しか入れないんだよ。ね、タカちゃん」お風呂屋の女の子が言った。その子は蟬のような顔つきをしているので、その風呂屋はみんなに秘かに「せみ湯」と呼ばれていた。

帰れ帰れ、コージ、帰れ。応接間のみんなに合唱されて、コーちゃんは、くそっ、見てろよと言うと、すたすた歩き出した。コーちゃんはすっかり臍を曲げてしまって、おめえ、もう帰れと言った。

それ以来しばらくコーちゃんには会わなかった。

中学三年の時だったか、学校の帰りに前を歩いているコーちゃんを見かけた。女の子を連れていた。ゆっくりと歩いて、小突き合ったりしながら歩いていた。よくは分からなかったが、級友がよく言っていた「デキている」という言葉を思い出した。ぼくは悟られないように別の道から帰った。邪魔しちゃ悪いような気がしたのだった。

高校へ入って駅からの道を歩いていると、脇に400ccのカワサキのバイクが止まり、びっくりして見るとコーちゃんだった。コーちゃんは、乗れ、とひとこと言った。シートに跨がると、しっかり捕まってろと言う。ぼくはコーちゃんの腰にしがみついた。細い身体だった。

爆音と風と疾走のなかで、なぜか街の様子が事細かくはっきりと見えた。

あれからコーちゃんはどうしたのか。久し振りにコーちゃんと行ったことのある床屋の前に来てみた。床屋はすっかり様子が変って、現代風になっていたが、やっているのかやっていないのか分からなかった。いつかコーちゃんの噂を聞いたことがある。地回りのやくざになっているという話だった。

そんな話も聞いたことがあるな。床屋の前から離れ、駅へ向かうと、もうコーちゃんのことは頭になかった。


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